深読みの淵

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『ちーちゃんはちょっと足りない』深読み感想まとめ みんなは何が足りないか

目次


0.みんなは何が足りないか

 漫画『ちーちゃんはちょっと足りない』(阿部共実秋田書店)  について、以前つらつらと書いた感想文をまとめた記事です。
 主要な登場人物それぞれの持っている「足りなさ」について書いていきます。
 作者の意図を考察しようとするものではなく、深読みで独自解釈する文章ですので、その点ご了承ください。


1.ちーちゃんは何が足りないか

 この物語の主人公、ちーちゃんこと南山千恵は色々なものが足りません。学力、常識、身体の成長、所持金、文化的経験、親との時間などなど。では、一番足りなかったものは何でしょう?  要は、物語の中で最も重大だった千恵の短所は何かということです。
 答えは「客観習慣」です。つまり、他者がどう思うかを想像する習慣が足りなかったことが、千恵の最大の問題だったのです。

 ではまず、この「客観習慣の不足」が表れた場面を見てみましょう。それは、千恵が顔を覆って「かーっ」と赤面するシーンです。この描写は、オールキンタマ答案にナツがツッコんだ時と、マジカルラブドラゴンごっこの声が近所に響いていたのを姉に指摘された時の2回繰り返されています。
 ここで大事なのは、恥という感情は自分がどう見られているか想像するために生まれることです。つまり、恥ずかしがっている千恵は客観的に考える能力を発揮しています。ではなぜ、その客観性は他人に指摘されるまで出てこなかったのか。それは、行動を起こす前にそれを他者がどう思うかと考える習慣がないからです。これこそが「客観習慣の不足」です。

 では、なぜそれが千恵の最大の足りなさなのでしょうか。それは、千恵の最大の過ちであるお金の盗難が客観習慣の不足によって起こったからです。
 千恵と藤岡が和解したシーンを見てみましょう。藤岡は千恵のヘアゴムを奪い取って、盗まれた側の気持ちを経験させました。それによって千恵は自分の行いを反省し、お金を盗んだことを謝ることができました。
 ということは、盗まれた側の気持ちを最初から想像できていれば、盗難は起こらなかったと言えます。行動する前に他人の気持ちを考えるという客観習慣の不足によって、罪を犯してしまったのです。
 ここでは同時に、自分がナツにお金をあげたいという気持ちが先行して、盗んだお金を贈られたナツがどう思うかを想像できていないという過ちも起こっています。そして結果的にナツは追い込まれていきました。

 このように、千恵に最も足りないのは客観習慣だったのですが、ここにはひとつ希望があります。習慣は身につけていくものだということです。
 藤岡に諭されて他人の気持ちを想像し、反省することができたように、これからも千恵は失敗と学びを繰り返していくはずです。他の人よりはゆっくりでも、千恵には足りなさを克服していく余地があるのです。


2.ナっちゃんは何が足りないか

 次は、この物語のもう1人の主役である小林ナツについて、一番足りないものは何か考えてみましょう。

 と、このように書くと、違和感を持つ方もいるのではないでしょうか。「もう1人の」ではなく、ナツこそが真の主人公ではないだろうか、と。
 そういう印象を持つ方は多いと思います。しかし、私は千恵とナツの2人が主役だと考えています。といっても、この2人が完全に並列な主人公というわけではなく、物語の2つの面でそれぞれ別の役割を果たしているというのが私の解釈です。
 まず千恵は、先ほど見たように物語を通して変化しています。起承転結の中で失敗を乗り越えて成長する、典型的な物語の主人公だと言えます。
 これに対してナツは、自身は変化しません。積極的に動くことなく、身の周りで起きる出来事に対してモノローグで内心を吐露し続けます。いわば、私小説の視点人物だと言えます。
 つまりこの物語は、千恵が主人公の成長物語と、ナツが語り手の私小説が組み合わさってできているのです。この構造を踏まえて各登場人物の足りなさを考えていきます。

 では本題に戻って、ナツの最大の足りなさは何でしょうか?
 実は、ナツの足りなさは千恵と対になっています。つまり、客観習慣が不足していた千恵に対して、ナツの最大の問題は「客観習慣の過剰」です。

 具体的に見てみましょう。ナツの作中最大の過ちは千恵からお金を受け取ったことですが、これは客観習慣の過剰に端を発しています。
 直接的には、ナツがお金を欲したのはリボンを買うためです。ではなぜリボンが欲しかったのかと言うと、みんなから良く見られるためです。だから、学校に付けて行ってもみんなから言及されなかったことで、あんなに求めていたリボンをあっさり捨ててしまったのです。自分が何を欲しいかより、それを持っていることでどう見られるかが優先される、これが客観習慣の過剰です。

 また、ナツがお金を受け取った間接的な理由として、劣等感があります。「ちょっとくらい ちょっとくらい 恵まれたっていいでしょ私たち」というモノローグに表れているように、自分と千恵は他の人に比べて何も持っていない、だから多少人から奪って満たしてもいいのだ、と正当化しています。この「自分は人より足りていない」という劣等感は、自分を他者と比べる客観習慣から来ています。
 ナツは常に劣等感に苛まれています。お金がない、物を持っていない、勉強もできない、恋人もいない、旅行にも行かない、スクールカーストが低い······旭や奥島たちと自分を比べて羨みます。あるいは、藤岡たちなら欲しいものを手に入れる力を持っているだろうと想像を膨らませて妬みます。そして、自分は劣っているし性格もクズだと自己嫌悪に陥ります。これらは全て、自分を外から見て他者と比べる習慣から来ています。
 しかしこれは、現実の他者と自分を比較しているわけではありません。羨んでいる相手にもそれぞれ不足や不満があることや、「私たち」とくくっている千恵と比べれば自分は恵まれていることも、ナツは見ていません。決して客観性に優れているのではなく、あくまで客観習慣が過剰なのです。

 さらに厄介なことに、ナツの足りなさは克服することが難しいです。
 盗んだお金を受け取ったことを恥じ、人にバレて責められたくない一心で、ナツは藤岡や旭から逃げ出しました。その結果、和解の場面に立ち会えませんでした。藤岡たちの真意や善性を知り、自分の心中をさらけ出す機会を失ってしまったのです。
 客観習慣の過剰ゆえに人に対して取り繕い、それゆえに成長の機会を逃してしまうわけです。千恵が客観習慣の不足ゆえにどう思われるか考えず盗みの事実をバラしてしまい、結果的に成長の機会を得たことと、ここでも対照をなしています。


3.志恵ちゃんは何が足りないか

 次は、南山志恵の足りなさを考えてみましょう。彼女は千恵の姉ですが、まさに「姉であること」が作中での最大の足りなさです。

 志恵もまた、色々な不足を抱えています。その多くは環境に由来するものであり、妹の千恵と共通しています。お金が足りないこと、欲しい物が手に入らないこと、旅行などの文化的経験が乏しいこと、親との時間が少ないことなどがそうです。
 しかし、志恵はそんな少ない手持ちの資源の中から、多くを千恵に与えています。バイトと勉強で忙しいのに休日に買い物に連れて行き、ねだられればガチャガチャをさせてやり、なけなしのバイト代から千恵の靴の代金を出そうとし、何くれとなく世話を焼きます。常に姉であり続け、妹に献身するのです。

 それは長所であって足りなさとは逆だと思うかもしれません。しかし、志恵は姉として身を削ることに完全に納得しているわけではありません。
 志恵は千恵に口で諭して聞かせる場面もありますが、実力行使で指導する方が多いです。例えば、額を拳で小突くやり取りがそれです。他にも、千恵が片付けなかったカバンを高い所に置いてからかったり、「死ね」と発言した千恵に平手をかまして泣かせたりするシーンがあります。いつも千恵のためを思って行動していますが、それを素直に出さず、妹にちょっかいを出すような形で表しているのです。
 それがなぜかと言えば、親をやりたくないからでしょう。母親は忙しくてあまり家におらず、妹は人一倍手がかかる家庭で、半ば否応なしに千恵の親代わりとして世話をしているはずです。決して強制されたとは思っていないでしょうが、同年代の高校生の多くがまだ子供として生活しているのを横目にすれば、家庭内のケア役を努めることに不満もあるのが当然だと思います。だからこそ、あくまで親ではなく姉として接しているのだという気持ちが、千恵への態度に表れているのです。
 「千恵の姉でいざるを得ない」ことが、志恵にとって足りなさでもあるのは間違いないでしょう。

 ではなぜ、志恵は姉の役割から降りられないのでしょうか。それはきっと、足りなさを知っているからです。
 先ほど見たように、志恵は千恵の足りなさの多くを共有しています。また、身体的成長や学力の遅れ、精神的な幼さ、靴紐を結べない不器用さなど、千恵自身の足りなさについてもよく知っています。だからこそ、妹よりはまだ不足を満たす力を持っている自分が分け与えてやらねば、と考えずにはいられないのでしょう。
 それが表れているのが、足に合うサイズの靴がなくて泣く千恵に「泣くんじゃないの 中学生でしょ 靴くらいで 靴くらいで」と繰り返すシーンです。
 ここで志恵は、それが本当は靴くらいのことではないと分かっています。千恵の足の小ささは、身体や精神面、学力その他の能力など、諸々が複合した大きな足りなさの一端が表れたものだと気付いています。それは、志恵が気になったスカートを買えなかったのがそれだけのことではないのと同じです。服一着の諦めは、バイトに励んでいたり、国立大受験のために睡眠時間を削っていたり、あるいは妹の世話をしていたり恋人ができなかったりしたこととも繋がっています。
 だから、「いっつもちーだけイジワルする」という千恵の癇癪も本当は理解しています。それゆえに、姉としての献身をやめられないのです。

 まとめると、志恵は「足りなさを知っているがゆえに姉でいざるを得ない」ということになります。これが、志恵というキャラクターを特徴づける足りなさです。


4.藤岡さんは何が足りないか

 藤岡は、最初は不良グループのボスのように見えますが、終盤で優しさと聡明さが明らかになって印象が逆転する複雑なキャラクターです。彼女の足りなさは何でしょうか。
 実は、藤岡は志恵と同じ足りなさを持っています。つまり、「足りなさを知っているがゆえに姉でいざるを得ない」のです。

 まず、事実として藤岡は姉です。妹が3人おり、面倒を見ています。それだけではなく、家業の手伝いをしている上、祖母の介護もしています。そして、それらのために部活に参加できなくなりました。自らが犠牲を払って家庭内でケア役を務めているのは、志恵と同じ境遇です。
 また、藤岡は学校でも大人びています。宮沢と野村を常にリードし、旭と対立した時もそれとなく衝突を避けました。お金を出せなかった部員の分を補填し、千恵が返せなかった1000円も「やるよ」と言って済ませています。身を削ってでも場を収める姉としての振る舞いが習慣化しています。
 さらに、自分の立場に納得していないことを態度に表しているのも志恵と同じです。「万引きしねえ?」という悪趣味な冗談をはじめ、露悪的なまでに不良じみた言動には、周囲より一足先に大人にならざるを得なかったことへの抵抗が含まれているのでしょう。
 そして、足りなさを知っているからこそ姉として振る舞うことも志恵と共通しています。千恵のヘアゴムを取り上げて相手の気持ちを理解させ、「ちょっと足りなくたって どうだって 楽しんで生きていけるだろ」と諭すのは、不足と渇望を心底知っていて、向き合って生きてきたからこそできることです。

 加えて言えば、志恵が千恵の姉であるように、藤岡も千恵に対して姉として接します。ヘアゴムについて妹たちも好きだと言ったり、千恵が妹と気が合いそうだと言ったりなど、妹と重ねて見ているのは一貫しています。
 その上で、物語のクライマックスで千恵の過ちを諭して反省させるポジションにいます。藤岡は、千恵の成長物語の中で姉の役を務めているのです。
 ここで大事なのは、藤岡が志恵よりも姉として優れていたわけではないことです。藤岡がヘアゴムを奪った時、千恵は「お姉がくれた」からそれはだめだと言います。志恵から与えられた物だから大切で、それがあったからこそ藤岡は千恵の成長を促すことができました。いわば、志恵と藤岡はヘアゴムを媒介に千恵への献身をリレーしたのです。千恵の物語は、2人の姉に助けられて成長する主人公の話なのです。

 以上のように藤岡と志恵は、内に持つ足りなさも物語での役割も共有しています。直接の接点がないにもかかわらず、この2人は相似形をなすキャラクターなのです。


5.旭ちゃんは何が足りないか

 最後は、旭の足りなさを考えてみましょう。旭は一見、何も不足がなさそうなキャラクターです。家は金持ちで、休みには海外旅行に行き、テストはいつも90点台で、人気が高い恋人もいます。
 そんな彼女の足りなさは、実は志恵と藤岡の反転です。すなわち、「足りなさを知らないがゆえに姉でいられない」ことが旭の足りなさです。

 旭はいつも千恵を気にかけています。算数の問題を出して勉強させようとしますし、千恵が盗みを疑われた時は激怒して否定しました。しかし、その気遣いを素直に出さず、子供扱いしてからかうように千恵に接します。つまり、千恵に対して姉として振る舞おうとしているのです。
 しかし、旭は一番大事な時に姉でいられませんでした。千恵の盗みが発覚した時、反省させて成長を促すことができたのは藤岡でした。旭は千恵の物語で姉役を果たせなかったのです。

 それがなぜかと言えば、足りなさを知らなかったからです。千恵が盗みを告白した後、旭は「なんでなんだよ」と泣きながら繰り返しました。彼女には本当に、人の物を盗む理由が分からないのでしょう。奪ってでも満たしたいほどの不足と渇望を知る機会がなかったのです。だから、藤岡のように千恵を理解した上で諭すことができませんでした。
 皮肉なことに、と言ってしまうと意地悪ですが、旭は満ち足りているがゆえに、望んだ役割を得ることができなかったのです。


6.みんながそれぞれに足りない

 以上のように、この作品の登場人物はそれぞれに足りなさを抱えています。そして、それらは相互に関連しています。
 千恵とナツの足りなさは反転して対になっています。志恵と藤岡は同じ足りなさを持っており、それは旭の足りなさと反転して対応しています。(図1)

図1:それぞれの足りなさとその関係
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 お互いの足りなさが逆転している関係としては、千恵とナツが分かりやすいでしょう。千恵がナツのように客観習慣を備えていれば、お金を盗んだりそれをあっさりバラしたりといった愚行には及ばなかったはずです。逆に、ナツが千恵を羨むシーンもあります。終盤の橋の上で、ナツは「私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ」と考えます。しかし結局、周りを気にして千恵を大声で呼べませんでした。客観視点を振り切る力が自分に足りないことと、千恵はそれを持ち合わせていることにナツは気付いています。
 このような「私から見たあの子の充足は本人にとっては不足なのかもしれない」という、いわば足りなさの相対性は、この作品のテーマのひとつだと思います。

 しかしこれは、「何かしら足りないのは一緒なのだからみんな公平」ということではありません。
 例えばナツは橋の上で「未来がせまいよ」と独白しました。実際に、旭と比較すればナツの未来の選択肢は狭いと言わざるを得ません。しかし逆に、千恵と比べればナツはまだ広い選択肢を持っているのも確かです。諸々の現実の格差は厳然として存在しているのです。(図2)

図2:3人の格差
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 これは藤岡と旭を比べても同じことが言えます。作中では、旭が得られなかった役割を藤岡は果たすことができました。しかし、家族のケア役をしてきた経験から同級生を教え導けるよりも、何不自由なく育ってきたために友達の不足と渇望を理解できない方が、客観的に見て恵まれた子供なのは間違いありません。

 以上のようにこの作品には、現実の格差は存在しながら、それでも内に抱えた足りなさはそれぞれに切実だという重層性があります。そういった複雑さを損なわないままに、難解にはせずにキャラクターとストーリーに落とし込んでいるのがひとつの特徴だと言えます。その緻密な分厚さが作品の強度を支え、多くの人に印象を残す傑作たらしめているのではないでしょうか。


おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございました。
 最初に書いた通り、この文章は以前に書いた以下の複数の記事をできるだけコンパクトにまとめたものです。そちらでは、気付き得た限りの描写を引用して各登場人物の足りなさを検討しています。また、如月や宮沢などの脇役たちの足りなさについて妄想した追加記事もあります。お時間あればどうぞ。