深読みの淵

漫画とかを独断と妄想で語ります。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第5.1章. 如月さんと奥島くんは何が足りないか

目次


はじめに

 本編の第1~5章では、千恵・ナツ・志恵・藤岡・旭という5人のメインキャラクターたちの『足りなさ』を掘り下げ、そこから作品全体の構造やテーマについて考えました。

 その結論の一つとして、誰もが何かの足りなさを抱えていると述べました。
 ということは、彼女たち以外のいわゆる『脇役』たちも、それぞれに足りなさを持っているのではないかと考えられます。そこで、その他の登場人物たちについても、各自の足りなさを考えてみることにします。
 とはいえ、かれらの描写は少なく、その内面を想像するには推測に頼る部分が大きくなります。本編ではまだある程度の根拠と理屈を示していたつもりですが、今回以降はさらに妄想に近いものになりますのでご了承ください。
 いわば本編のおまけのようなものとしてお読みいただければというつもりで、今章には5.1章と銘打っております。

 まず今章では、如月と奥島の足りなさについて考えていきます。
 ではいってみましょう。



0節. 如月さんと奥島くんは何が足りない?

 クラス委員長の奥島と副委員長の如月は、基本的に足りている側の人間として描かれています。テストの点数は「旭ちゃん並み」(p.81)つまり90点前後で、優しくて勉強を教えるのも上手く、家庭で教養を身に付けており(p.146)、お互いに恋人同士のように見えます。
 そんな2人は、何らかの足りなさを抱えているのでしょうか。もし足りなさがあるのなら、それはどういうものでしょうか。



1節.  2人に足りなさはある?

 この2人に関しては、作中で直接足りない部分が描写されていません。そもそも、感情や欲望をあまり露わにしておらず、真情が見えない印象があります。

 しかし、この2人も何らかの足りなさを持っているという暗示はあります。それが、ナツが第5話でこの2人を評した「ちーちゃんは教室掃除!  奥島くんと如月さんがいるから大丈夫だよね」(p.110)というセリフです。これは、千恵が一人で掃除だと心配だけど奥島と如月が一緒なら大丈夫だという信頼を述べた言葉です。
 これと同じ内容を、同じ第5話の冒頭で志恵が言っています。「まあナっちゃんが同じクラスだから大丈夫か」(p.101)というセリフです。千恵のことは心配だがナツと同じクラスなら大丈夫だろうという、ナツへの信頼を表しています。
 しかし、結果を見れば大丈夫ではありませんでした。千恵はナツの欲望に呼応してお金を盗んでしまいました。そこでナツが千恵を諭してお金を返させることができれば志恵の信頼に応えたと言えましたが、実際にはナツは、自身の金銭的な足りなさ、そして客観習慣の過剰という足りなさから来る渇望と正当化により、千恵の共犯になる道を選びました。志恵からナツへの信頼のセリフは、ナツがそれを裏切ることで、周囲から見えない足りなさを持っていることを強調するための前振りとして作用しています。
 ということは、ナツから奥島と如月に向けた同じ構図の信頼のセリフも、同じようにこの2人にも見えない足りなさがあることを暗に示していると受け取れます。
 実際、千恵はこの2人と一緒にいるはずの掃除の間に*1お金を盗んでいるので、ナツが期待した『大丈夫』ではなかったことは確かです。しかし、掃除の間中ずっと千恵を監視する義務がこの2人にあるわけではありませんし、結果的に千恵の盗みを見逃したからといってそれが落ち度や足りなさだとまでは言えません。志恵のセリフがナツの足りなさを前もって示すものだった以上、その反復であるナツのセリフで示された奥島と如月には、何か別の足りなさがあると考えられます。

 また、ナツから奥島と如月への信頼のセリフに、旭が「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)と返していることも、この2人が私たち読者に見えているほど満ち足りた存在ではないことを想像させます。
 作中の描写は多くがナツの視点からのものであり、ナツは自分と比べて他者の足りている部分を大きく見積もる癖があるため、私たちからもこの2人がことさらに多くを持っているように見えるのです。かれらが持っているものの多くを自分も持っている旭の視点*2からは、かれらもそれほど満ち足りた人間には見えていないのではないでしょうか。



2節.  2人は付き合っている?

 それでは、奥島と如月の足りなさとは具体的には何なのでしょうか。
 それを考えるために、この2人に関して、足りているように見えているナツとそうでもないように見えている旭で見解が分かれている点を思い出してみましょう。それは、この2人が付き合っているかどうかです。
 第2話で、ナツの「ねえ奥島くんと如月さんっていつも一緒にいない?」(p.30)という囁きに、旭は「さあ  委員長と副委員長だから仕事とかじゃねえの」と答えています。旭からは、特に2人が付き合っているようには見えていないのです。*3
 ナツもこの場では、「つきあってるのかな?」(同)と勘繰るに留めています。しかし、その後の第4話でナツは、奥島と如月と旭について「みんな恋人いるし」(p.82)と考えており、奥島と如月が付き合っているのを確実なこととして扱っています。
 ナツがこのように考える理由は、他者を自分より満ち足りているように見積もるという彼女の思考の癖にあると考えられます。ナツは、恋人がいる方がいないよりも優越しているという(実に一般的な)価値観を持っており、それゆえに、恋人がいない自分と比べて他人には恋人がいると想像し、劣等感を抱きがちなのです。
「つきあってるのかな?」の後に来るのが「成績いいし進んでて大人っぽいなあ」(p.30)であることや、「みんな恋人いるし」の後に「私なんか私なんか なんなんだろう」(p.82)と続くことが、如実にそれを示しています。
 つまり、奥島と如月が付き合っているように見えるのは、ナツの視点を通して見ているからそう見えるのです。実際には、水沢と交際していることがほぼ確定的に言及される旭と違って、奥島と如月が付き合っているという確実な描写は作中にありません。本当に2人が恋人同士なのかは『分からない』以上のことを断言できないのです。

 それでも、この2人が交際しているのかどうか、できるところまで推論してみたいと思います。
 まず、2人が付き合っているように見える理由を挙げてみましょう。その最たるものは、視点の多くを担うナツが2人の交際を確実視していることですが、これがナツの見え方の偏りに影響を受けているのは今述べた通りです。
 それ以外の根拠としては、ナツも言っているように、2人が「いつも一緒に」いることが挙げられます。奥島が如月と一緒でないのは千恵がナツの真似をして見せた1シーン(p.46‐48)のみ、如月が奥島といないのも旭や藤岡たちと女子グループで遊んでいた1シーン(p.201)だけで、その他の場面ではいつも2人でいます。*4  また、ナツたちと別れて如月と一緒に帰途に付く奥島の「じゃあ僕たちはこっちなんで」(p.34)というセリフは、以前にも一緒に帰っていることを示しています。その後の、2人で帰路に付く後ろ姿(p.35の1コマ目)も、恋人同士の雰囲気に見えるカットです。如月が奥島の肩口に手を置き、奥島が赤面して表情を緩める様は、2人の親密さを思わせます。
 これらを見るとやはり2人は付き合っているように見えますが、逆に付き合っていないことを示唆する描写もあります。ここではそのうち2点を挙げます。
 1つ目が、奥島の如月とナツに対する態度です。第2話で奥島が千恵の授業課題を手伝うと言った時(p.31)、如月とナツも付き合うと申し出ました。その時の奥島の反応は、如月に対して「えっ  いいよいいよ」、ナツに対して「あっ  いいよいいよ  小林さんまで」と、ほとんど変わりません。『小林さんまで』と付け足したのは、単にナツの方が後から申し出たからでしょう。それを言う時の奥島の様子も、焦ったように少し赤面して汗をかいており、如月にもナツにもほぼ同じ表情です。連続して隣り合った2コマでほぼ同じやり取りが反復されたということは、奥島は如月にもナツにも同じように対応するということを分かりやすく示していると言えます。
 もう1つ、2人が付き合っていないことを示唆する描写として、相手の呼び方があります。奥島が如月を何と呼んでいるかは分かりませんが、如月は奥島のことを『奥島っち』と呼んでいます。あだ名で呼んでいるという意味では、親しさの表現だと言えます。しかし、『名字+っち』という呼び方は、ちょっと距離を感じませんか?  単なる主観なのですが、よく知らない相手と距離を詰める時に付けるあだ名という印象があります。社交的な性格で、千恵に対しては『ちーちゃん』と呼ぶ如月は、もし付き合っていれば下の名前で呼ぶか、単に呼び捨てにしそうなものです。
 この2点から言えるのは、奥島と如月は少なくともナツたちの前では恋人同士のように振る舞っていないということです。
 ここから考えられる可能性は、2人は本当に付き合っていないか、あるいは付き合っているがそのことを隠しているかのどちらかです。
 こうなると、2人がいつも一緒にいたり、親密に接していたりといった事柄が、反転して付き合っていないことを示唆する材料として働きます。*5 付き合っていることを隠しているのなら、そういう分かりやすい行動を取らないだろうからです。
 とはいえ、付き合っているのを積極的に隠すつもりはないが、クラスでは照れくさいので普通の友達として接しているということもありえます。そこで、今章で検討したことも踏まえて、2人が交際している場合としていない場合の両方を考えながら、如月と奥島の足りなさについて順番に推論していくことにします。



3節.  如月さんは何が足りない?

 まずは、如月の足りなさについて考えていこうと思います。

 ナツから見ると交際しているのが当然のように見えた如月と奥島ですが、客観的な描写から見ると付き合っていない可能性も高いのが分かってきました。そこで、まずかれらが恋人同士ではないとするとどういうことになるか考えましょう。
 その場合、2人はただ委員が同じで仲のいい友達同士で、お互いに恋愛的な意識は持っていないのでしょうか。
 それもちょっと考えづらいです。なぜなら、如月が奥島に好意を持っていることは、わりと露骨に示されているからです。その1つは、さっき述べたボディタッチの描写です。如月の方から奥島の肩に触れています(p.35の1コマ目)。*6
 もう1つ好意が表現される場面として、奥島が千恵の課題を手伝うと言った時の如月の反応(p.31)があります。まず「奥島っち優しい!  さすが選ばれし委員長」と言いながら、さりげなく奥島の肩に手を添えます。冗談めかしながらも好意を最大限に伝えようとしています。その後に、「副委員長として私も手伝わざるをえまへんなあ」と、やはりおどけながら自分も奥島と一緒にいる理由付けをしています。確かに如月は感情表現が大げさな方ですが、ここまでわざとらしくおどけて見せるセリフはあまりありません。ここでの変なテンションは、如月が奥島を強く意識していることと、それを奥島に伝えておらず距離を測っている状態を想像させます。
 また同時に、これらのセリフには千恵への牽制という面もあります。『優しい委員長』だからという理由付けをして奥島の千恵への好意が特別なものでないと注釈し、『副委員長として』とわざわざ理由付けをして同席し奥島と千恵が一対一になるのを防いでいます。如月は「ちーちゃんをあやしてくれるなんて」(p.170)というセリフで分かるように、旭や藤岡たちと同様に基本的に千恵を子供扱いしています。そんな千恵の世話を焼くという形であっても、奥島がクラスの女子と2人きりになるのが嫌だと思っているのです。この独占欲は好意の大きさの表れであると同時に、余裕のなさを示すものでもあり、如月が奥島と付き合っていないことを示唆する傍証の1つだとも言えるでしょう。
 それでは、これほど分かりやすく好意を向けられている奥島の側は、如月にどう接しているでしょうか。これが実は、如月に特別な感情を向ける描写がないのです。むしろ他の人と変わらない接し方をしていることは、如月とナツに同じように対応しているシーンで見た通りです。もちろん2人は一緒にいることが多いので、奥島が如月に対して親しみを抱いているのは確かです。しかし、彼は女子3~4人の中に男子一人でクラスで昼食を取ることに全く気後れしないばかりか、自らその状況を作る(p.144)強者です。*7  男子中学生としてはかなり達観しているか、あるいは逆に男女間の付き合いについて小学校低学年程度の感覚で止まっているかのどちらかでしょう。*8 一緒に行動していることを理由に恋愛感情があると推測するのは早計だと言えます。
 このように、奥島と如月の間には感情の非対称性があります。有り体に言えば、描かれている範囲では如月から奥島への片思いなのです。だとすれば、それこそが如月の足りなさだということになります。奥島が好きなのに自分だけに特別に好意を返してもらえない、それが作中で描かれる如月の不足です。

 以上のように、如月と奥島が交際していないことを匂わせる描写はいくつもあります。しかし、あくまで状況証拠であり、確定する材料ではありません。なので、2人が付き合っており、それをクラスメイトにあえて言っていないと仮定した場合、どういうことになるかも考えてみましょう。
 といっても、その場合も見えている状況はあまり変わりません。如月の言動の意味するところにほとんど変化がないからです。付き合っていると仮定しても、如月が明示せずされど分かりやすく奥島への好意を示し、千恵を牽制しようとしているのは同じことです。
 つまり、如月は自分だけに特別に構ってほしいし他の女子と2人にならないでほしいと望んでいるが、奥島はそのように行動していないということです。如月と奥島のお互いへの接し方の差を考えると、如月は交際をオープンにしたがっているが、奥島はそれを望んでいないということも考えられます。如月の態度からして、それらの望みを相手にはっきり伝えられておらず、奥島はそれを察してくれないという可能性が高いと思います。
 結局如月の足りなさは、付き合っていると仮定したとしても、奥島が自分の気持ちに相応の行動で応えてくれないということなのです。

 ここまでをまとめると、2人が恋人同士だとしてもそうでないとしても、『自分が向けた好意に対して奥島が望むものを返してくれない』ことが如月の足りなさです。



4節.  奥島くんは何が足りない?

 ということは、作中で描かれている奥島の不足は、言動のレベルでは『如月の好意に望ましい形で応えないこと』だということになります。良識があり優しく賢い奥島が、なぜ如月との関係においては望まれている行動を返してやれないのか。その原因が奥島というキャラクターの足りなさだと考えられます。
 奥島に関しても如月と同様に、①如月と付き合っている  ②付き合っていない、の両方の場合が考えられます。同時に、如月が自分に向ける感情を奥島が分かっているかどうかは、A.気付いていない  B.気付いている  C.如月本人から告げられている、の3パターンが考えられます。この2つの要素の組み合わせで場合分けして、それぞれのパターンでの奥島の足りなさはどうなるかを考えていきます。

①ーA. 如月と付き合っていて如月の望みに気付いていない場合
 交際相手の如月は『私という恋人がいる以上は他の女子とあまり親密にしないでほしいし、クラスでも付き合っていることをオープンにしたい』と思っているが、奥島はそれに気付いておらず、汲み取ってやれていないというパターンです。
 この場合奥島に足りていないのは、『常識的な気遣い』だと思います。彼女いるんだから不安にさせないように気ぃ遣ってやれや、分かんだろ、という話です。
 これはわりと幼さがあって素朴な奥島観ですね。まあ、中2の男子の意識なんてそんなもんだろ、という気もします。

①ーB. 如月と付き合っていて如月の望みに気付いている場合
 如月の不満・不安・嫉妬に感付いてはいるが、あえて見ないふりをしているという状況です。
 付き合ったからといって行動を束縛されるのが嫌なのか、あるいは付き合っていることを知られるのが恥ずかしいという思いが強いのか、いずれにしろ『直接言われてないのだから自分が何か変える必要はない』と思っているパターンでしょう。相手の気持ちをとりあえず聞いてみればいいのに。
 これは穏やかな笑顔の裏に不穏なものを想像する奥島の見方です。この場合、『善意と素直さ』が足りないと言えます。

①ーC. 如月と付き合っていて直接望みを聞いている場合
 如月から『教室でも恋人として接したい、それとあんまり他の女子と2人になったりしないで』と伝えられているが、それに逆らっているパターンです。
 これは不穏というよりは、とことん頑固だと言えるでしょう。『付き合ってもこれまでの行動は変えないし、クラス委員長として個人として、必要ならば女子に対しての手助けもする』という姿勢だと思います。
 足りないのは『融通』だと言えるでしょう。

②ーA. 如月と付き合っていなくて如月の好意に気付いていない場合
 如月から向けられている好意にそもそも気付いていないパターンです。
 決定的に鈍いです。足りなさ=『鈍感さ』です。
 ただ、諸々の描写を総合すると、このパターンが一番可能性が高いように思えてしまうのが困ったものです。

②ーB. 如月と付き合っていないが如月の好意には気付いている場合
 如月が自分に好意を持っていることに感付いてはいるが、あえて自分からアクションは起こさずにただ一緒にいるパターンです。
 如月を恋愛対象としては見ていないのか、今が楽なので恋愛関係になるのが怖いのか、告ってきたら付き合うのもアリだけど自分から行く気にはならないのか、あるいは精神的に優位に立っている現状が心地よいのか。いずれにしろ、奥島には『情け』が足りません。
 ①ーBもそうなんですが、察していながら汲んでやらないというパターンを仮定すると、やはり奥島の黒い部分を想像することになりますね。お金を盗んだ千恵にドン引きするところ(p.155)を見ると道徳規範はしっかり持ってそうなので、あんまり不穏な奥島観は現実的ではない気はします。ただ、人間関係に関しては倫理基準が常識とかけ離れていたとしても不思議でない程度には、奥島の内面はちょっと推し量りにくい印象があります。

②ーC. 如月と付き合っていないが好意を直接伝えられている場合
 つまり、一回告られたけど断ったパターンです。告白してきた如月に対して、何らかの理由で『付き合えない』と言ったけど、如月の『前と同じように友達でいたい』という言葉を受け入れたか、あるいは奥島から『まずは友達という距離で』と言った上で関係性が続いていると考えられます。
 まあ、なかなかなさそうなパターンだと思います。しかしこれだと仮定すると、お前はさぁ···という気持ちになりますね。いくら言葉で普通の友達としてって言ったとしてもさ、あんだけべったり一緒にいた上で他の女子と2人になるのを目の前でほのめかすとか、もうちょい考えろよ、って話です。この場合足りないのは、①ーAと同じく『常識的な気遣い』です。
 繰り返しますが、このパターンはさすがにないと思います。ほぼ奥島の陰口になりましたが、場合分けしたら出てきたので仕方なく言っただけですので。

 以上のように、奥島の状況と心理は複数のパターンが考えられ、それに応じて想像される足りなさも変わります。各場合について書いたように、ありそう・なさそうという可能性の差はありますが、いずれが正しい理解なのかは作中で描かれていない以上確定しません。

 これほどに奥島の足りなさが絞れないのは、やはり彼の内面が掴みづらいところに一因があります。本作の登場人物には不足している部分と充足している部分が合わさった重層性があるというのは本編で指摘しましたが、奥島は例外的に内包した足りなさが見えないのです。
 そこまで親しかったわけではない千恵に勉強を教えて世話を焼く*9ほど親切ですし、旭が勉強に関して千恵を「バカ」と形容した時の「そんなことないよ  小学校の基礎をとばしちゃっただけで」(p.151)という返し方は、完全に大人の教育者側の語法です。女子との交流を特に意識せずに行っていることも含め、実年齢よりもかなり精神的に成熟していると思います。そんなふうに大人びて良識のある人格者であり、内面的な足りなさが見えないからこそ、如月との関係性に見え隠れする外面的な足りなさの根源をどこに求めたらいいか判断がつかないのです。
 抽象的な話ですが、奥島というキャラクターのそういう真意の見えなさ・得体の知れなさ自体に、親しい女子から好意を寄せられてもそれに応えず、そもそも気付いているのかどうかも分からないという振る舞いと一致するものを感じます。そういう感覚的な部分では奥島の人格的な足りなさの輪郭をなんとなく思い浮かべることができますが、あくまでイメージの話の域を出ず、決定的なことを言うには描写が足りていないのは繰り返している通りです。



5節.  結論・2人の足りなさ

 以上のように作中では、如月の足りなさは奥島の存在に由来するものであり、その如月の足りなさに対応して奥島の足りなさが垣間見えるのです。描写上2人セットになっていることが多いかれらは、描かれる足りなさも一対になっていると言えるでしょう。
 具体的には、如月の足りなさは『奥島に好意を向けているのに、望ましいものを返してもらえない』ことです。そして奥島は表面に出ているのが『如月の好意に望ましい応え方をしていない』という言動レベルの足りなさであり、それを引き起こす何らかの不足・逸脱が人間関係を築く際の内的な部分に存在するとほのめかされています。
 特に奥島に関しては曖昧な部分が多いですが、今章のまとめとして言えることはこのくらいだと思います。



6節.  蛇足・如月さんとナっちゃんの共通点

 この節はさらなる余談であり、砂上の楼閣の屋根に五重塔を建て増しするような空想だと思って読んでください。
 今節の話題は、第3章の1節で言及した、ナツだけでなく如月も千恵のことを『ちーちゃん』と呼ぶという事実に関してです。タイトルにもなっているこの呼び方をナツと如月のみが共有しているということは、この2人の間に何らかの共通点があることを暗示しているのではないか、というのがここでの趣旨です。
 作中で描かれる限り多くを持っているように見える如月ですが、足りなさに苛まれ続けるナツと共通する部分はあるのでしょうか。あるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

 千恵の呼び名の共有によってそれが示唆されているのならば、共通点は千恵との関係性にあると考えられます。
 ナツにとっての千恵の位置付けは、第2章5節で見たように、自分と同等の相手です。自分と同じように足りていない人間として見ています。実際には自分より千恵の方が不足しているところについても、その差を見ずに足りなさを共有する『私たち』として同一視しています。作中で発される『ちーちゃん』という言葉のほとんどがナツの口から出る以上、その呼称に重ねられているのは、このような自分と同等に見なす視線だと言えます。
 これに対して、如月にとっての千恵の位置付けは一見全く違うように思えます。如月は千恵に対して『あやす』という言葉を使っており(p.170)、千恵を子供扱いしています。その意味で如月は、旭や藤岡や志恵などと同じく千恵を庇護・教育の対象として見ており、ナツのように同等の相手として見てはいないように思われます。加えて、如月はナツと比べても充足している側におり、千恵と自分が同じように足りていないという感じ方はしないだろうと思えます。
 しかしここで、如月も足りなさを抱えていることを思い出してみましょう。『奥島に好意を向けても望ましいものを返してもらえない』という足りなさです。そして実は、これと同じ不足を千恵も持っています。
 第2話で千恵は奥島のことを「すき」(p.36)だと言い、奥島にもてる方法を考えて実践しますが、その手段は的外れなもので奥島からの接し方が変わることはありませんでした。好意から奥島に向けた言動に望ましい反応が返ってこなかったわけで、如月の足りない現状と全く同じことが起こっています。
 そして何より、如月自身が千恵を自分と同じく奥島にアプローチし得る、いわばライバルと見なしています。だからこそ千恵を牽制する発言をし、奥島と2人になるのを防いだのです。その結果2人きりにならず如月とナツが同席したことは、如月にとっては妨害の成功ですが、千恵にとっては奥島への接近の失敗だったと如月視点では見えているはずです。*10
 結局、客観的にも如月の主観でも、千恵は奥島に関して如月と同じ足りなさを持っているのです。つまり如月にとって千恵は、奥島との関係性においてのみ同等の相手なのです。
 よって、千恵を同等の足りなさを持った相手と見なしているという点で、如月とナツの共通項が成立します。
 ただし、奥島は千恵を恋愛対象として見てはおらず、教え育てる対象として完全に子供扱いしているのが実際のところでしょう。ボディタッチを受けて頬を赤らめる程度には意識されている(あるいはすでに付き合っているかもしれない)如月とは、恋愛的な距離では相当な差があります。それでも如月は千恵を警戒しており、あくまで如月の中では千恵は同等の存在なのです。このことは、自分が千恵より充足していることを無視して同一視するナツの認識と同じ構造であり、千恵への視線における如月とナツの共通性を補強するものです。
 このように如月は、同等の足りなさを持つ存在として見なすという、千恵への視線がナツと共通しています。それゆえに、『千恵』でも『ちー』でも『南山さん』でも『チビ』でもなく、『ちーちゃん』というナツと共通する呼称で千恵を呼ぶのです。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 ほんとは残りのサブキャラ全部まとめて一つの記事にするつもりだったんですが、長くなったので如月と奥島だけで一記事にしました。

 結果的に、いい歳の大人が長文で中学生の男女が付き合っているかどうかを延々と勘繰り、言動を恋愛面からネチネチと論評するという、大変ひどいことになりました。書きながら自分の下衆さ加減に昏い悦びを覚えたほどです。
 内容的にも、如月はやたらドロドロした嫉妬や情念を秘めている解釈になり、奥島は何か底知れない闇を抱えていることをほのめかしただけに終わりました。如月さんと奥島くんのファンの方々には本当に申し訳ないと思っています。ただ、本文中でも何度も言い訳しましたが、この2人は本当に内面が想像できる描写が少ないんです。千恵やナツのように足りないのが見えてるキャラなら足りなさを掘り下げつつ良い面も見出だしてフォローできるのですが、如月や奥島のように作中で失点のない優秀な善人は、どうしても悪い方へ悪い方へ考えて足りなさを想像してしまいますね。
 あと、奥島と如月付き合ってるのか問題については、さりげなくも解釈が分かれる描写がいくつもあると思うので、ぜひみなさんの解釈も聞いてみたいなと思っております。

 さて、次回は第5.2章です。次章で脇役たちも含めて各登場人物の掘り下げは完結する予定です。
 残るキャラクターは宮沢と野村です。彼女たちに加えて、ナツの母親についても考えてみる予定です。あとは、もしかしたら水沢先輩にも言及するかもしれません。
 第5.2章は、1週間後の7/24(水)までには投稿します。
 またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【掃除の間に】
 この時、千恵がどのような状況でお金を盗んだのかは、わりと謎になっている部分です。明らかなのは、千恵・奥島・如月が教室掃除をすることになっていたこと(p.110)、千恵は教室でおそらく宮沢の机の中からお金を盗んだこと(p.111)、千恵・奥島・如月は飼育小屋を掃除したこと(p.119)、の3点です。教室掃除の当番だったのが飼育小屋に変更になったのか、教室に加えて飼育小屋の掃除も担任から命じられたのか、教室掃除後にクラス委員の仕事か自主的な行動として奥島と如月が飼育小屋の掃除に行ったのを千恵が手伝ったのか、その辺りは分かりません。(ただ、ナツが「あいかわらずあの2人はイイ人だな」(p.120)と言っているのは、3つ目だと解釈しているのかもしれません。)よって、教室掃除中に千恵が一人になるタイミングがあったのか、それとも近くにいる2人の目を盗んだのか、あるいは2人が先に飼育小屋に行ってから千恵がお金を盗んで後を追ったのか、窃盗の状況も判然としません。そのため、たまたま掃除中に宮沢の机に封筒を見付けて出来心を起こしたのか、教室に一人になった時にお金のことを思い出したのか、もしくは宮沢と藤岡の会話を聞いた時から盗むチャンスを狙っていたのか、千恵の『悪意の度合い』も私たちには分からないのです。
 いずれにしろこの謎は、千恵が一人の時の描写がないに等しいことから来ています。そのことによって私たちは、世界が一瞬で豹変するナツの感覚にぴったりと同期できるのです。

*2:【旭の視点】
 ただし、旭から見た奥島と如月は、千恵の世話をする姉という自分(とナツ)の役割に割り込んでくる相手として見えていたことは、第5章で見た通りです。なので、旭からこの2人への評価は客観的なものより低くなっていることも考えられます。特にこの場面は、『この2人がいるから千恵は大丈夫』というナツの言葉への返答なので、余計に対抗心が働いているでしょう。ナツが奥島と如月を高く評価しがちなのと裏腹に、旭はかれらを低く見積もる方向に偏っているのです。ナツの視点にいびつさがあるからといって旭の視点が正しいとも言えない、この作品の相対性・重層性の表出の一つです。

*3:【旭からは】
 ただしここでも、旭の視点と発言にバイアスがかかっていないとは言えません。まず第5章で見た通り、旭はこの2人にさほど関心を向けていません。また、他人の噂話を好むタイプでもなさそうです。(どちらかと言えば、他人への評価は面と向かって本人に言ってしまうタイプです。)さらに、自分が水沢と交際していることを特に隠すわけでもないのにナツに言っていないことから、いわゆる恋話が好きな方でもないと想像できます。
 あるいは、旭の内面は描写されないので、2人が付き合っていると思っているか知っていながらも、あえて言及しないようにしているという可能性も否定できません。

*4:【いつも2人で】
 これについて気になるのは、昼食を取る時の組み合わせです。p.144では、ナツが欠席していた前日に千恵が奥島と如月と旭と4人で昼ご飯を食べたことが語られ、この日も奥島たちと一緒に食べます。これをナツが「変なメンツ」(p.145)と捉えており、それ以前にナツが千恵・旭と3人で昼食を取る場面(p.17‐)があるので、ナツが休んだ日より前には奥島と如月は一緒に食べていなかったことが分かります。
 これを素直に受け取れば、この2人はユニットで動いており、この時までは2人だけで昼食を食べていたと想像されます。もしそうだとすれば、2人が付き合っているというナツの勘繰りは無理もないと言えますし、一緒にいるのは仕事とかだろうと言う旭はこの2人に関心が無さすぎだと思います。しかしその場合、いつも男女2人で食事していたのに急に他の女子グループに合流しようという話になり、奥島が率先して混ぜてもらいに行ったということになります。付き合っていたとしたら、それはそれでどうなんだという話ではあります。
 ただしいずれにしろ、実際に2人が以前は誰と昼食を食べていたか、ナツが休んだ日にどういう経緯があったのかは、描写されていない以上は確定し得ないことです。

*5:【付き合っていないことを示唆】
 奥島と如月が付き合っていないことを示唆する描写は、メタ的な読みですが他にもあります。それは、如月がリボンを身に付けていないことです。
 ナツが「本当は男の子からもらうものなんだよ」(p.86)と言うように、リボンはもともと彼氏がいることを示すアイテムです。ナツが旭から水沢との交際について聞き出そうと水を向けた場面(p.83)で旭のカバンに付けたリボンがアップになるコマも、その関連性に基づいたものです。また、p.78の2コマ目にいるクラスメイトのうち、女子4人は全員リボンを付けており、「学校でリボン流行ってる」(p.86)ことが示されています。しかし同時に、答案を受け取っている右端の女子と会話の相手が見切れている左端の女子を除き、相手が分かる2人はどちらも男子と一対一で喋っています。さりげなくはありますが、リボンと男子との交際が関連することを踏まえた意図的な描写だと思います。
 このように、彼氏がいることがリボンで象徴されている中で、如月には私物のリボンを付けていたり持っていたりする描写がありません。これは、他の材料と合わせて、彼女が奥島と交際していないことを示唆する傍証と言えると思います。

*6:【肩に触れて】
 これは本当にどうでもいい話なんですが。このコマでは、如月の右手が奥島の左の二の腕に触れているわけですが、如月の親指が奥島の腕の輪郭の手前にあるのか、それとも奥にあるのかが、ちょうどどちらとも取れる描き方になっています。前者の場合、如月は五指を揃えた掌を奥島の肩の後ろから当てていることになり、後者の場合は、袖口もしくは腕本体を掴んでいることになります。どちらと捉えるかでタッチのニュアンスがかなり変わり、後者の方がより積極的な接触だと言えます。みなさんはどちらに見えますか?

*7:【男子一人で】
 奥島は女子グループの中に男子一人混じっており、脚注*4で見たように、以前から如月と2人で昼食を取っていた可能性もあります。その経緯が分からないので何とも言えませんが、もしも男子グループに入れないのであれば、そこに奥島の足りなさがあるのではと想像することもできます。中2男子らしからぬ達観したような穏やかさと利口さを持った彼ですから、もし同級生男子に馴染めなかったとしても、さもありなんといった印象はあります。ただし、奥島以外の男子生徒の描写はないに等しいので、この辺りはあくまで想像するほかありません。

*8:【男子中学生としては】
 いや、いないとは言いませんよ。男子一人でクラスの女子グループに混じって、イジられたり子供扱いされたりせず、かといってハーレムを築くわけでもなく、普通に友達の一員として屈託なく振る舞える男子中学生、世の中にはいると思います。ただ、私の中学時代のクラスにはいませんでしたし、あまり一般的ではないだろうというのがここでの趣旨です。みなさんの中学時代はどうでしたか?

*9:【世話を焼く】
 千恵の席が最前列の教卓の真ん前であり、奥島の席がその隣という配置(p.143の1コマ目)を考えると、奥島が千恵の勉強の面倒を見ることは担任教員の意に沿ったものだと思われます。ただ、担任が明確に奥島に千恵の世話を依頼したかどうか、奥島がどこまで自主的に行動しているのかは分かりません。

*10:【千恵にとって】
 もちろん千恵自身は、奥島に勉強を教えてもらうことを接近するチャンスだなどという計算はしていないでしょう。独占欲を覚えるほど恋愛感情というものを理解していない可能性が高いと思います。そして、基本的に如月もそのことは感じ取っていると思います。それでも警戒し牽制せずにはいられない好意と執着が、如月の足りなさなのでしょう。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第5章.旭ちゃんは何が足りないか

目次

はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ第5章です。
 本作について語りたいことは尽きないのですが、作品の大きな成り立ちについて述べるひとまとまりの文章、いわば『本論』はこの第5章で完結となります。
 前回の第4章では、志恵と藤岡について考え、この2人が『足りなさを知っているがゆえに姉であらざるを得ない』という足りなさを共有していると結論付けました。

 今章では旭について掘り下げ、そこから再び作品全体のテーマに触れて終わろうと思います。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、こちらの第1章の「はじめに」をお読みください。

 今章では、2・4・5節で旭についての結論を出します。1・3節は補足です。その後に、6・7節で本作全体についての結論を出して終わることにします。
 ではいってみましょう。



0節. 旭ちゃんは何が足りない?

 それでは、旭について考えてみましょう。これまでと同じように、『足りなさ』というキーワードから見ていきたいと思います。
 第3章の6節で、ナツから見た旭は満ち足りた人間の代表だと述べましたが、実際に旭は多くのものを持っています。さほど親しくない野村からも「この子ん家  金持ちだもん」(p.111)と知られているほど家庭は裕福で、家族で海外旅行に行くなど文化体験も充実しています。学力は高く、箸の使い方などの教養やパソコン操作などの生活知識(p.104)も備えています。コンタクトレンズを入れてお洒落な服を着ることもありますし、一学年上の人気のある男子と付き合っています。友達のために怒ったり間違いを正そうとするまっすぐな正義感を持ち、新しい友達ができて人間関係を広げていきます。
 このように、何でも持っているように見える旭ですが、彼女には足りないものはあるのでしょうか。



1節. 人間関係に不器用なのが足りなさ?

 満ち足りているように見える旭ですが、他の人物が旭の不足している部分に言及するシーンもあります。
 ナツは旭を評して「お金持ちで頭も育ちもよくて気が利くけど本当は不器用で人見知りだから学校ではなかなか友達が出来なかったんだよね だから妥協して私たちを選んだんでしょ  知ってるよ旭ちゃん」(p.203)と考えます。ナツの視点では、不器用で人見知りであることと、それによって望むような友人関係が築けずクラスカーストが低いことが、多くを持っている旭の数少ない足りなさとして見えていたということです。これは的を射た分析なのでしょうか。
 確かに旭は、あまり交流のない宮沢たちが教室でお金を集めているところに割り込んで、「せめてもうちょっと丁寧に扱ったらどうだ 大声出してペラペラと もし何かあったからってクラスの人間を疑うなよ」(p.106)という、不要に棘のある言い方をしています。もちろん親切心から忠告しているのですが、もう少し柔らかい伝え方はできるはずで、「嫌な感じ  いこいこ」(同)と言われてしまうのも仕方ないと感じます。その後にお金がなくなった時も「だから言っただろ あんな大声で喋ってたら取ってくださいって言ってるようなもんだ」(p.111)と言わなくてもいいことを言って、雰囲気が険悪になっています。旭は相手の気持ちより自分の正しさを優先するきらいがあり、コミュニケーションが不器用で誤解されやすいのは間違いありません。

 しかし、それが旭にとって重大な足りなさだったかと言えば疑問符が付きます。なぜなら、友人関係が狭いことを旭本人が気にしている様子があまりないからです。
 確かに「だからあんたはみんなに嫌われてんだよ」(p.115)と言われて動揺する場面はありますが、そんなことを言われれば普通ショックを受けるでしょうから、それを元から気にしていたと示す描写ではありません。宮沢や藤岡への旭の接し方は最初から好意的とは言えず、不器用さを差し引いても親しくなりたいと思っていたようには見えません。
 また、クラス内で委員長と副委員長という一定の地位にあり、友好的で話のレベルも合うであろう奥島と如月に対しても、旭は友達になりたいと思っている様子はありません。そのことは、「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)という言葉や、ナツが欠席してこの2人と千恵と旭で昼食を取った日の翌日に、ナツに向かってわざわざ「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)と言うことに表れています。これらを見る限り、旭は奥島と如月にさほど関心を向けておらず、千恵とナツとの3人のグループの方を大切にしています。
 そのナツたちに対しても、恋人ができたことを報告していなかったり、一緒に帰ることに拘らず「先帰ってくれてよかったのに」(p.29)と言ったりなど、学校生活を全て共有するようなベタベタした関係は求めていません。さらに、旭は一学年上に恋人がおり、クラス外にも人間関係を築いています。
 このように、旭はクラス内の交友関係の狭さやカーストの低さをさほど問題視しておらず、これは旭の中心的な足りなさではありません。もちろん千恵の客観習慣の不足のように、本人が気にしなくても問題が生じる足りなさもありますが、友達があまりできないということに関しては本人が構わなければ問題にはなりません。
 それが旭の足りなさだとナツが考えたのは、ナツ自身の世界がクラス内の人間関係に囚われているからかもしれません。『不器用』は確かに旭の特徴ですが、『人見知りで友達があまりできずにクラスカーストが低い』というのは、旭にもそういう面があるにしろ、ナツが自分の足りなさを旭に投影している部分が大きいのです。


《まとめ1》 旭は不器用で誤解されやすく、友人関係が狭い。しかし、本人はそのことにそれほど拘っておらず、旭の重要な足りなさだとは言えない。



2節. 執着するものは?

 以上のように、クラスでの人間関係の足りなさを旭はあまり気にしていません。そして、足りなさだけでなく他の多くのことについても、旭は拘っている様子をあまり見せません。ナツが「いっつもつまんなさそうな顔してさあ」(p.203)と言うように、テストが90点台だったり(p.79)海外旅行に行ったり(p.83)といった、ナツから見てとてもすごいことを事も無げに報告します。つまり旭は、自分が持っているものにも持っていないものにもあまり執着がないのです。
 ところが、そんな旭が強く執着する対象が一つだけあります。それが千恵です。

 普段は飄々とした態度の旭が最も取り乱したのが、千恵がお金を盗んだと発覚した場面です。千恵を宮沢たちの前に腕ずくで引きずって行った旭は、激昂して涙を流しながら「千恵に罪をわからせなきゃダメなんだよ!」(p.165)と叫びます。冷静さを完全に失うほど、千恵に対して強い感情を持っていることが伺えます。また、「本当に申し訳ない! お前らの金とったのは千恵だった」(p.159)、「改めて  盗んだことと こんなことに巻き込んでしまって申し訳ない」(p.171)と、旭自身が謝罪していることから、千恵の行動について自分にも責任があると考えていることが分かります。*1
 もう1つ旭が感情を露わにする場面として、宮沢の胸ぐらを掴んで「お前  なに言ってるのかわかってんのか!」(p.114)と怒鳴るシーンがあります。千恵に盗みの疑いをかけた宮沢を非難し、強く否定する言葉です。ここでも、千恵のことに関連して激しい感情が表出しています。
 他にも、日常的な言動の中に千恵への執着が垣間見えるシーンもたくさんあります。
 例えば、先ほど見た「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)には、昼食を一緒に取った奥島と如月を勘定に入れず、自分だけが千恵の世話をしたのだという主張が含まれています。この奥島と如月に対抗しての独占欲は、旭の言動の随所に表れます。第6話で奥島たちが千恵と居残って勉強すると言った時の「千恵は私と帰るんだ  なんだよそれ?」(p.151)は典型的です。その後の「じゃあ私も参加する  千恵のバカさは一筋縄じゃないからな」(同)も分かりやすいですね。このセリフに出ている『自分の方が千恵のことを理解していて上手く教えられる』という感情は、千恵の点数を奥島たちが誉めた時の「こんなので頑張ったってバカにしてんだろこの2人」(p.81)にも表れています。
 ここまで見てくると、千恵に絡んでいる藤岡を追い払った時の「千恵をオモチャにしていいのは私だけだ」(p.109)というセリフも、冗談めかしてはいますが一面の本音が出ているのが分かります。旭は千恵をオモチャだとは思っていませんが、独占したいという気持ちは抱いており、そのために千恵を藤岡から守ろうとしたのです。
 このように、旭が千恵だけに強い執着を抱いていることは何度も繰り返し示されています。それらの言動を見ると、旭は常に千恵を守り、世話を焼き、成長へと導こうとしていることも分かります。千恵を守り育てる役目を務めたいと旭は望んでいるのです。

 このことを踏まえてもう一度旭の言動を見ると、自分の千恵への感情を包み隠そうとしていることも見えてきます。
 藤岡に絡まれて嫌がっている千恵を助けたことを「千恵をオモチャにしていいのは私だけだ」と理由付けるのは、本心の優しさを隠そうとしているからです。*2 「千恵の子守りつかれたわ」や「千恵のバカさは一筋縄じゃないからな」というセリフも、わざと露悪的な言葉選びをしています。いかにもからかっている雰囲気で算数の問題を出し(p.9‐11)、数学の点数が上がったことを「旭ちゃんがいっつも掛け算や割り算問題でイジワルしてたのもこの為だったんだね」(p.81)と言われると焦って否定するのも、わざと悪ぶって千恵に接していることを示しています。
 これらに通底する旭の感覚は、自分はいかにもバカにした口調で「よーし次は夢の30点台だな  千恵 ひっひ──」(同)と言っておきながら、23点を素直に誉める奥島と如月に対して「こんなので頑張ったってバカにしてんだろ」(同)と言うところによく表れていると思います。

 ここまでを総合すると、旭は、『善意と執着を素直に出さないが、千恵を守り成長へ導く、千恵にとって特別な役目』になることを望んでいることになります。これは、第4章で志恵と藤岡の性質として挙げた『姉』の立場そのものです。多くのものを持っていて執着も示さない旭の唯一最大の願いは、千恵の姉の役割を果たすことだったのです。


《まとめ2》 何事にも拘らない旭が唯一強く執着する対象が千恵である。旭は、善意を隠してわざときつく当たりながらも、千恵を守り育てようとしている。つまり、千恵の姉の役割を果たしたいというのが、旭の最大の欲望である。



3節. 旭ちゃんの世界

 ここで、旭にとって2年6組がどういう空間だったかを見てみます。旭から見たクラスメイトの印象と実際の人間関係は、第7話での衝突と和解を機に大きく変化するわけですが、そこに至るより前の旭の主観的な教室内世界をここでは考えてみましょう。

 旭は他学年に恋人がおり、ナツと違ってクラスの外にも世界を持っていますが、クラス内で言えば最も関心を向けている相手は千恵です。旭の自認としては、千恵を守り育てる立場にいます。
 その時に、先ほど見たように奥島と如月はどちらかと言えばポジションを争う対抗勢力です。とはいえ、特に敵意を向けているわけでもなく、旭からすればさほど関心のない『その他』といったところだったでしょう。ナツの主観的な世界の中では、旭と奥島たちは全てを持っている優等生組として同じカテゴリーに入れられていたわけですが、実際には旭からすれば仲間意識があったわけではないのです。
 また、藤岡と宮沢、野村のグループに対しては、初めからあまり好意的に見ていない節があります。旭も、藤岡の不良としてのポーズによって誤解した印象を持っていたのかもしれません。いずれにしろ、彼女たちにも大して関心を抱いてはいませんでした。

 では、ナツはどうでしょうか。
 旭にとって自分のグループの中で優先されるのは千恵を守り育てることです。しかし、ナツのことも決して蔑ろにしているわけではありません。4月頃までは休日によく一緒に遊んでいました(p.83)し、帰宅後もメールのやりとりをしたり(p.104)、DVDを貸したり(p.103)など、親しく友達付き合いをしています。また、ナツが気分が悪いから保健室に行くと言った時には、「大丈夫か  一緒に行くか?」(p.148)とその場の誰よりも心配していますし、お金を受け取ったのがバレたと思い動揺するナツに対しても「おい大丈夫かナツ  顔色悪いぞ」(p.177の3コマ目)と声を掛けています。
 ここで押さえておきたいのが、旭はナツのことを対等な友達だと思っていることです。それは、「ナツお前  まともそうに見えて結構かましてくるタイプだな」(p.79)や、「···お前も千恵の陰に隠れてけっこういかついな」(p.104)というセリフに表れています。もともと旭はナツを、千恵のように保護や教育が必要な『あほ』な相手ではなく、まともで対等な友達と見ていたからこそ、『案外抜けている』という評価が出てくるわけです。
 それでは、旭にとってナツはどのような形で対等な相手だったのでしょうか。それが分かるのが、欠席明けのナツに旭が掛けた「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)のセリフです。これは、『普段はナツと2人で千恵の面倒を見ている』と旭が認識しているということです。つまり旭の中では、一緒に千恵を守り育てるもう1人の『姉』役として、ナツは自分と対等な存在だということになっているのです。
 おそらく、この3人でクラス内グループができた時、旭は千恵を自分の世話や導きが必要な庇護対象として認識したのでしょう。それは持ち前の大人びた考え方や正義感、あるいは単純に千恵の幼さによってかき立てられた庇護欲から来たものだったと思います。その時、ナツは旭から見ると、自分よりずっと前から千恵の側に付いて世話をしてきた人間として見えたはずです。だから、奥島たちが千恵の世話をすると排他的な感情を持つ旭も、ナツのことは一緒に千恵を見守るいわば同志と見なしているのです。
 このことで、盗まれた1000円を千恵から受け取ったのがナツだとほぼ確信しているだろう旭が、なぜナツを問い詰めて白状させようとしなかった(p.176)かも分かります。千恵がナツを守り通したことや、藤岡の計らいで形式上は事件の決着がついたこと、ナツたちを問い詰められるほど自分が彼女たちの足りなさを理解していないと自覚したことも、その理由になっていると思います。しかし、それら以前の問題として、そもそもナツは旭にとって教え導く相手ではなかったという理由があります。千恵は自分が成長させる対象なので強引にでも罪と向かい合わせましたが、ナツはそうではなかったのです。
 ちなみに、ナツは基本的に千恵を自分と同等として見ていますから*3、旭の世界観とは一致していません。旭にとって彼女らのグループは、足りている旭とナツが足りない千恵を世話するという形で成り立っていますが、ナツにとっては、足りない『私たち』と足りている旭という構造です。(図1参照)その結果、旭は『ナツは自分と同じように千恵の間違いを正すだろう』という誤解を持っており、ナツは『旭は本来は自分たちを下に見ており、他のグループに行きたがっている』という誤解を抱いて、お互いにすれ違います。2人は同じ教室の同じグループにいる友達ですが、最初から食い違ったそれぞれの世界の中で生きていて、その認識の断絶は最後まで埋まることがないのです。

図1:足りなさの順列とナツ・旭の認識
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 いずれにしろ、第7話までの旭にとって、クラス内の人間関係の中心にいるのは千恵です。庇護対象つまり『妹』である千恵を守り導く『姉』のポジションが旭の自認する立場であり、そうあろうと望んだ役割でした。
 その関係性の傍らにあるのがナツというもう一人の千恵の『姉』で、彼女とは役割において対等な同志であり、この3人以外のクラスメイトは『その他』でした。旭にとっての2年6組はそういう世界だったのです。


《まとめ3》 旭にとってクラスの人間関係で一番大事なのは、守り育てる対象としての妹である千恵だった。その時に旭から見たナツは、千恵を庇護する姉の役目を共有する対等な同志として見えていた。



4節. ちーちゃんに対する役割は?

 ここまでで見たように、旭は千恵に強く執着しており、教室内の旭の世界は千恵を中心に回っていました。それでは、千恵の『姉』でありたいという旭の望みは叶えられたのでしょうか。

 それを考えるために、作品の半面である千恵が主人公の物語はどういう構造をしているのかを再度見てみます。
 第4章で述べた通り、志恵と藤岡は2人で1つの『姉=贈与者』という役割を果たし、千恵の成長を導きます。その2人以外に千恵の物語で重要な役割を持つ人物として、ナツがいます。
 ナツは千恵にとって、目的となる人物です。千恵は幼いので、志恵や藤岡のように他者のために行動することはあまりなく、基本的に自分のために動きます。そんな千恵ですが、作中世界に最大の変化をもたらすお金の盗難と贈与は、ナツのためになりたいという思いで行いました。また、小学1年生で親しくなった時にすでに千恵は、『ふしぎの国のアリス』をナツのために持ち去って渡すという、お金の盗難と同じ構図の行動を取っていました(p.94)。
 つまり、千恵にとってのナツは、特異的に行動の目的格となる人物です。主人公が獲得したり、守ったり*4、喜ばせたりする対象となる人物、すなわち物語論で言うところの『王女』*5言い換えれば『ヒロイン』こそが、千恵の物語におけるナツの役割なのです。その関係性は、最終第8話で千恵を探し歩いた末に途方に暮れたナツが、千恵の方から見つけられ、呼び掛けられることで救いを得る(p.213)という形にも表れています。千恵にとって目的格になる人物には他に、第2話で千恵がもてようとする奥島がいます(p.45)が、そのエピソード限定のことであり、千恵の物語全体におけるヒロイン役はナツ一人だと言えます。
 これをまとめると、千恵の物語は、『主人公の千恵が目的格のナツのために行動を起こす上で間違いを犯すが、2人の姉=贈与者の補助を得て間違いを克服して成長する』と要約することができます。(図2参照)
 ここで言及される千恵・ナツ・志恵・藤岡の4人以外の登場人物は、彼女らのドラマの展開をスムーズにするための補助要素であり、第3章4節で述べたように、千恵を外から見て語るための視点の提供者です。舞台装置とカメラという全員に共通した役目を果たすキャラクターたちであり、言ってしまえば代替可能性を持った脇役ということになります。

図2:千恵の物語の構造
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 つまり、千恵の物語の中で、旭は実際には重要な役割を果たせていないということです。いくら強く望んでも、旭は千恵の姉になれなかったのです。
 それを決定的に表しているのが、第7話です。千恵がお金を盗んだことを知った旭は、終始強い語調で責め立て、「千恵に罪をわからせなきゃダメなんだよ!」(p.165)と叫びます。その直後に藤岡は、一旦許した上でヘアゴムを奪うことによって千恵に自分の罪を理解させ、志恵と藤岡のヘアゴムを介した連携による千恵の成長がそこに成り立ちます。まるで北風と太陽の逸話のように、旭は千恵を成長に導くことに失敗し、2人の姉がその後に成功するのです。
 この場面での旭の行動で意味を成すのは、千恵を宮沢たちの前に連れて行ってその罪を暴露したことです。この行為は確かに次の展開を生みましたが、これは旭にしかできないことではありません。お金を盗んだことが善行と結び付いていた千恵は、たまたま旭から問われなくてもそれを他者に告白する可能性は十分にありました。そして、千恵の盗みを知ったら、旭ほど強引でなくても奥島や如月もやはり宮沢たちに事実を伝え、千恵と引き合わせたでしょう。旭が千恵を強引に引きずって行ったのは、その時たまたま宮沢たちが学校に残って藤岡と待ち合わせていたことと同じく、物語をスムーズに進行させるための補助的な行動に過ぎません。やはり旭は、千恵の物語において必須の役割を担っているとは言えないのです。

 以上のように、千恵の姉の役目を果たしたいという旭の望みは叶わず、千恵の物語の中で重要な役割を占めることができませんでした。
 旭という登場人物を象徴する最大の足りなさは、『千恵の姉になれなかった』ことなのです。


《まとめ4》 千恵の物語において替えのきかない人物は、姉=贈与者の志恵と藤岡および、目的格であるナツである。旭は望みと裏腹に、千恵の物語で重要な役目を果たせなかった。つまり、千恵の姉でいられなかったことが旭の足りなさである。



5節. 姉になれないのはなぜ?

 それでは、旭はなぜ千恵の姉の役を果たせなかったのでしょう。姉として千恵の成長に寄与できた志恵と藤岡とは何が違ったのでしょうか。

 それが見えてくるのが、千恵の盗みを宮沢たちに告発した後の「なんでなんだよ なんでなんだよ」(p.160)という旭のセリフです。旭には、人のものを盗む人間の気持ちが理解できません。想像することもできません。だから、千恵の悪事を責め立て、補償させることで盗みの罪を正しく自覚させようとします。
 これは、藤岡が千恵の行為に許しを与えた上で引き換えにヘアゴムを奪うというように、手管を駆使して盗まれる側の気持ちに気付かせたことと対照的です。藤岡にこれができるのは、「私だって欲しいものがたくさんあるけど手に入らない  みんなそうだ」(p.169)と理解を示して諭すように、盗む側の気持ちを想像できるからでしょう。
 なぜ想像できるかと言えば、人から奪ってでも満たしたいほどの足りなさを知っているからです。藤岡も自分で言うように、不足しているものが数多くあります。家族のために働かなければならず、時間が奪われ部活も諦めなければならない現状を、理不尽だと思っているはずです。それでも、そういう足りなさを知っているからこそ、妹たちにそれを味わわせないために姉の役目を務めるのです。藤岡は「万引きしねえ?」(p.88)と冗談を言いました。実行には移さなくとも、人から奪うことを想像したことがあるということです。旭ならばきっと冗談でも口にはしないでしょう。藤岡は足りなさを知っているからこそ人から奪い取りたいほどの渇望も想像でき、「ちーにはなにもない  なんで!」(p.162)という叫びを理解し、正面から受け止めて慰めることができるのです。
 逆に言えば旭は、足りなさを知らないから千恵を導くことができなかったということになります。旭は家庭が裕福で大抵のものに満ち足りています。とはいえ、お金のやりとりについて注意する様子(p.106)から金銭については厳しく教育されている様子が伺えますし、しつけもきちんとされています(p.146)から、親にねだれば何でも買ってもらえる環境ではないでしょう。しかし、欲しい物は努力したり貯金したりすれば手に入ったり、そもそも家に多くの物が揃っていたりという形で、旭の欲求は基本的に欠乏せずに満たされてきたのだと思います。現実的に考えてプレステが買えない千恵(p.136)のようにどう頑張っても欲しい物が手に入らなかったり、友達と比べて明らかに自分の方が何も持っていなかったりといった、自分ではどうしようもない足りなさはおそらく経験してきていません。だからこそ旭は、人から奪ってでも満たしたいほどの千恵の渇望を理解できません。事実を受け止められず、「なんでなんだよ」「うそだろ  うそだろ  うそだろ」(p.155)と途方に暮れるのです。

 旭が足りなさを知らないことは、他の場面での行動にも影響を与えています。
 旭が飲んでいるジュースを千恵が物欲しげに見ていると、旭は「いやっ  あげねーよ!?  自販機あるから自分で買え!」(p.8)と言います。これは単にケチっているわけではありません。現に、旭が千恵のことをとても気にかけていて、ジュース1パックどころではない感情や労力のコストを支払うのは、この場面より先で十分に描写されます。ならばなぜジュースを分けてあげないかというと、それが正しいからです。お金についてきちんとしつけられた旭は、欲しい物は自分のお小遣いをやりくりして買うもので、お金がなくても友達にたかるような真似をするべきではないと考えているはずです。*6 正しさに沿って千恵を成長させようと考えているから、容易に千恵に与えようとしないのです。
 このことも、志恵と藤岡の行動と対比できます。第4章で見たように、この2人は必ずしも正しくなくても、『妹』の足りなさを満たしてやることを優先します。志恵がねだられて千恵に渡した200円や、藤岡が千恵から返させることを放棄した1000円がその例です。彼女たちにとっては正しく妹を教育することよりも、自分の知っている足りなさを妹に味わわせないということが大事なのです。そうやって筋を曲げてでも千恵に与えたものが繋がって千恵の成長に貢献したことは、見てきた通りです。
 ここでもまた旭は、足りなさを知らないことによって姉としての役割を果たし損ねています。

 以上のように、旭の足りなさは『足りなさを知らないがゆえに千恵の姉として振る舞えない』ことです。つまり、志恵と藤岡が共有する『足りなさを知っているがゆえに千恵の姉として振る舞わざるを得ない』という足りなさと、反転して対になっているのが旭の足りなさなのです。


《まとめ5》 旭は、自身がどうしようもない足りなさを知らないために、千恵の足りなさを理解できず、姉としての役割を果たせない。つまり、『足りなさを知らないがゆえに姉であることができない』ことが旭の足りなさである。



6節. みんながちょっとずつ足りない

 前節で、旭の足りなさは志恵と藤岡の足りなさの逆転したものだと示しました。これは、『客観習慣の不足』という千恵の足りなさと『客観習慣の過剰』というナツの足りなさが反転して対になっていたのと同じ構図です。本作中で主要な役割を果たす千恵・ナツ・旭・志恵・藤岡という5人の登場人物は、全員が自分の足りなさと対になる足りなさの相手を持っているのです。(図3参照)このことから、第2章9節で述べた『足りなさの相対性』は、作品全体を貫くテーマだと言えるのではないでしょうか。
 例えば、旭は多くを持っており、理不尽な足りなさを知りません。それは一般的に言って幸運であり望ましいことです。しかし作中での旭は、足りなさを知らないために、千恵を成長に導くという最大の望みを満たすことができませんでした。その一方で志恵と藤岡は、足りなさを体験して知っているという不運によって、千恵の姉の役割を果たすことが可能になりました。しかしそれは可能であるというだけでなく、その役を果たさずにはいられないという呪いのような側面もあります。このように、それぞれの不足と充足が表裏一体に対応していることも、千恵とナツの間に見たのと同じ関係性です。

図3:足りなさの対比関係
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 そのような、誰かにとって足りない状態が誰かにとっては充足であるという相対性は、上に挙げた『千恵↔ナツ』および『志恵·藤岡↔旭』の対比以外にも存在します。
 一つの例を挙げます。千恵の目的格になるのはナツだと4節で述べました。千恵が何かをしてあげたい、喜ばせてあげたいという最大の関心を向ける相手がナツなのです。そのナツが最も強い感情を向ける相手は旭です。ナツが旭に対して特に強く、評価されたい、一緒にいてほしいという執着を抱いていることは、第3章6節で述べた通りです。そして旭は、今章2・3節で見たように、唯一最大の執着を千恵に向けています。
 このように、千恵・ナツ・旭の3人の間では、最大の執着を向ける相手がぐるっと一周しているのです。もちろん、千恵にとっての旭、ナツにとっての千恵、旭にとってのナツがどうでもいいというわけではありません。しかし、この3人のうちの誰も、最も強い感情を向けている相手から最大の関心を返してもらえていないのは事実です。
 そして例えば、ナツにとっては最も執着する旭からの関心がもらえない不足した現状も、旭からすれば自分が最も執着している千恵から最大の関心をもらっている羨ましい状態に見えます。これは、どの2人の組み合わせでも同じことが成り立ちます。この3人はどこを取っても『彼女にとって足りていない現在は、私から見れば満ち足りた理想』という足りなさの相対性が成立しているのです。

 このような足りなさの相対性は、個人ごとの価値観と境遇の違いから出ているものです。
 実際に、ナツの私小説の舞台となる主観世界について第3章6節で、旭の視点でのクラス内の世界について今章3節で、千恵の物語世界について同じく4節で触れましたが、それぞれ随分と異なった構造だったと思います。彼女たちは同じ場所で親しく会話しながらも、それぞれ主観的な別世界に生きているのです。
 そして、本作の多くの部分はナツの主観に寄り添っており、内面の描写もほとんどがナツのものです。その中でナツが劣等感から自己否定を繰り返すために、読者はそれに同期してナツをクズだと蔑んだり、あるいは自分に重ねて卑下したりするわけです。しかし、それはナツの主観世界を見ているからそう思うのであって、他の登場人物の内面がもしも描写されれば、ナツと同じように「ふつふつと不満も嫌らしいことも考えてる」(p.211)かもしれません。自分をクズだと思っている人が他にもいるかもしれません。
 このように、自分だけは自分の内面を知っているからつい卑下してしまうけど、他の人の内面にも同じように醜い感情があるのかもしれないというのは、足りなさの相対性の一側面だと言えるでしょう。

 以上のように、『自分の足りなさは誰かにとっての充足かもしれないし、満ち足りているように見えるあの子も何かの足りなさを抱えているのかもしれない』という足りなさの相対性は、物語の基底に流れているテーマです。一人一人はそれぞれの世界に生きていて、その中でそれぞれの不足や不満や欠点や醜さを抱えているのです。
 

《まとめ6》 本作の主要な登場人物には、それぞれ正反対の足りなさを持った相手がおり、不足と充足の条件は人によって違う。それは、一人一人が別の主観世界に生きていて、求めるものが違うからである。このような足りなさの相対性は、作品に通底するテーマである。



7節. 作品世界の重層性

 足りなさの相対性という本作の重要なテーマが最も直接的に語られているのが、藤岡の「私だって欲しいものがたくさんあるけど手に入らない  みんなそうだ」(p.169)というセリフです。それに続く「私らももう少しすれば大人だ 欲しいものは自分の力で手に入れられるようになる  楽しみじゃねえか ちょっと足りなくたって どうだって 楽しんで生きていけるだろ」(同)の言葉は、自分の世界に希望が持てれば主観的な足りなさに苛まれずに生きられるという意味です。足りなさに抗いながらも呑み込んで役割を果たしている藤岡にとって、これらの言葉は自分の人生に救いを見出だすための指針なのでしょう。
 しかしこの場面からは、この言葉を最も受け取るべき人物が疎外されています。ナツです。ナツは、作中で見えている限り誰よりも自分の足りなさに拘泥して苦しんでいます。主観的な足りなさを相対化して見せる藤岡の言葉は、ナツにとっても大きな意味を持ったに違いありません。「私らももう少しすれば大人だ」「楽しみじゃねえか」という未来への希望の言葉を聞かなかったナツが、「未来がせまいよ」(p.211)、「みんな変わっていくよ  私は変われないよ  置いていかないでよ  ずっと一緒にいようよ  ずっとずっとずっと」(p.212)と、未来に絶望し変化を否定するのが象徴的です。
 また、藤岡がこの言葉を発するシーンは、それまで見えていなかった旭と藤岡の足りなさが明らかになる場面でもあります。もしナツがこの場に居合わせれば、満ち足りている人間の代表だった旭と足りなさを満たす強さがあるように見えていた藤岡も、それぞれに足りなさを抱えていたことに気付き、自分の世界が根底から揺さぶられたことでしょう。『私たちだけ何もない』という劣等感に苛まれているナツにとって、みんなが足りなさを持っていることは一つの救いになったはずです。
 ところが、現実にはナツはその場にいません。足りなさゆえに他者を避けて、保健室に逃げ込んでいます。ナツには足りなさの相対性に気付く機会は与えられず、救いは訪れません。千恵が藤岡から希望を手渡され一歩成長していた時に、ナツは一人静かに絶望のさなかにいたのです。
 この第7話において、千恵の成長物語とナツの私小説は、残酷なまでに乖離しています。この2つの面の落差によって、私たち読者の心も引き裂かれ、この作品はより大きな印象を残します。

 また、足りなさの相対性の救いについて考える時には、全ての足りなさが相対的なものではないということにも留意しなければなりません。確かに、一人一人が感じる足りなさは主観世界に存在し、『みんなそうだ』と相対化したり未来に希望を持つことで抗うことができます。しかし作中では、客観的な足りなさについても容赦なく描かれています。
 例えば、藤岡は足りなさを相対化することで受け入れようとしていますが、完全に受け入れられたわけではありません。だからこそわざと不良じみた攻撃的な物言いをしているというのは、第4章4節で見た通りです。それはまた、志恵に関しても同じことです。彼女たちには守るべき妹がおり姉としての役割があるので、足りなさを妥協して呑み込んでいますが、決して理不尽を納得して受け入れてはおらず、ましてや足りなさを消し去ったわけではないのです。
 作中では、志恵と藤岡は足りなさを知っていたから姉として振る舞うことができ、旭は足りなさを知らなかったから望む役割を果たせませんでした。しかし、一般的な観点で言えば、中高生が理不尽な足りなさなど知らない方がいいに決まっています。客観的に見れば、間違いなく旭の方が満ち足りた立場にいます。
 これは千恵にも同じことが言えます。千恵は物語の中で、足りなさを乗り越えて成長しました。とはいえ、足りなさがなくなったわけではありません。客観習慣の不足という性質自体は変わっていないために、志恵の心情を慮れずに物語の最後まで心配をかけてしまいます。
 また、成長した千恵が勉強を頑張ったとして、旭たちのようにテストで90点を取れるかというとまず無理でしょう。ナツの点数に並ぶことすら可能性は低く、「次は夢の30点台だな」(p.81)という旭の言葉が最も現実を捉えたものだと思います。学力だけでなく、金銭的な足りなさも解決してはいません。最終話の後の展開によっては、藤岡家のゲームを使わせてもらったり、志恵に中古のプレステを買ってもらったりはするかもしれませんが、自分でお金を貯めて欲しいゲームを手に入れるという経験はできないでしょう。何より、家庭の経済状況は千恵個人によって変えようがなく、一家で旅行に行ったりなどは今後もないと思われます。
 このように、学力と経済力の足りなさが根本的に満たされない以上、翌年度の高校受験での進路は相当絞られてしまいます。たとえ進学できたとして、志恵のようにアルバイトをして自分でお金を貯めて欲しい物を買えるほどの社会性を身に付けられるかというと、かなり怪しいところだと思います。*7 ナツは「未来がせまいよ」(p.211)と心の中で呟きますが、客観的に見れば千恵の方がもっと未来の選択肢は狭いのです。
 以上のように、足りなさが相対的なものであるのはあくまで各自の主観世界を見るからであって、客観的に比較すれば絶対的な足りなさの序列は厳然として存在します。みんながそれぞれの足りなさを抱えていて同じように悩んだり苦しんだりしているのは本当ですが、それはそれぞれの足りなさが現実に同じ大きさであることを意味しないのです。
 足りなさの相対性は救いとして提示されていますが、現実の足りなさを解決するものではなく、あくまで気持ちを楽に生きるために役立つ世界の見方であり、その意味では慰めと言う方が近いかもしれません。それでも、藤岡と千恵にとっては一つの救いになる考え方でしたし、ナツにとっても、あるいは読者にとっても心を救ってくれるはずの世界観なのです。

 ここまで見てきたように、本作では、掲げられる希望の裏には絶望が存在し、足りなさの相対性という救いの傍らには現実の絶対的な足りなさが横たわっています。明るい面も暗い面もそうあるように描いており、どちらかを否定したり、もう一方を引き立てるためだけに使ったりはしていません。そして、そういった両義性・重層性は、本作の様々な部分を形作る基本構造です。
 まず、千恵とナツ、志恵・藤岡と旭の間の、それぞれの足りなさが反転して対比されている関係はまさに両義性です。足りなさの相対性というテーマそのものが両面的な構造によって表されているのです。
 その相対性の根底にある、各自が別々の主観世界に生きているということも、作品の多面性そのものです。ナツの視点からの景色が多く描かれている本作ですが、その見え方に歪みや偏りがあることも示されています。また、千恵と旭による別の主観世界の形も見て取れることは、ここまでで見てきた通りです。
 そして、この作品全体の構造が、千恵の成長物語とナツの私小説が表裏一体に合わさったものだということは、第3章で述べた通りです。単行本の表紙の真ん中にいる千恵と裏表紙に逆さまに配されたナツが象徴するように、この作品そのものが両面性をもって成り立っているのです。
 このように、本作を形成するいくつもの階層が、多面的・複層的な構造によって支えられています。異なる要素や相反する価値がいずれも排除されず存在するさまは、まるで私たちが生きている現実のようです。だからこそ本作は私たちの心に割りきれない思いを残し、同時に私たちの人生に許しをも与えてくれるのではないでしょうか。
 物語と私小説、客観習慣の不足と過剰、足りなさを知っていることと知らないこと、姉であらずにいられないことと姉になれないこと、登場人物それぞれの内面世界、主観的な救いと客観的な現実、希望と絶望、幸運と不運、そして足りなさと充足。表裏いずれの面も重なり合って確かに描かれている重層性こそ、この作品が私たちを惹き付けてやまない理由なのだと思います。


《まとめ7》 千恵の物語の希望の裏にはナツの私小説の絶望がある。足りなさの相対性は主観的な救いだが、客観的に見れば絶対的な足りなさが存在する。このような、相反する面がどちらも存在する構造は作品全体を形作っており、その重層性こそが本作の特質であり魅力である。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 『ちーちゃんはちょっと足りない』について深読みする文章は、ここまでで一旦結びとします。第1章からここまで全部読んだ方には、感謝と敬意と労いを捧げたいと思います。
 今後はもしかしたら、奥島と如月、宮沢や野村の足りなさについて考えた文章や、作中の時系列の整理など、補足やおまけをさらに投稿するかもしれません。その時はまたよろしくお願いします。

 最後に、ここまで私を惹き付けてやまない作品を世に出してくださった阿部共実さんに、限りない感謝を捧げたいと思います。
 ありがとうございます。




脚注(余談)

*1:【謝罪】
 この時の旭の謝罪の半分は、宮沢と野村が千恵を疑ったことは当たっていたのに頭ごなしに否定して怒鳴り付けた(p.114)ことを謝っているのでしょう。しかし、p.171では、「盗んだこと」と「こんなことに巻き込んで」しまったこと、「この前はお前らにも嫌な思いさせて」しまったことをそれぞれ挙げて謝っています。千恵がお金を『盗んだこと』単体で自分が謝るべきことだと旭が考えているのは間違いありません。

*2:【オモチャ】
 大切に思っている相手をちょっかいを掛けてくる他人から守ろうとする時、照れ隠しに『自分のオモチャだから他人には手を出させない』という言い方をする場面は、前作『空が灰色だから』5巻収録の第49話「不謹慎なそれ」にも出てきます。作者が持っている、いわゆるツンデレ的コミュニケーションの引き出しの1つだと言えるでしょう。

*3:【同等】
 客観的に見て千恵は同級生たちよりかなり幼く、旭が世話をして導かなければならない対象として見るのは正しいと言えます。逆に、ナツが千恵を自分と同等に見るのは、第2章5節で見たように少なからず認知の歪みによるものです。しかしそうだとしても、千恵を対等な友達として扱うのがナツだけだというのも確かです。旭は千恵の姉役を演じようと庇護しますし、奥島と如月も千恵のことは世話をする対象として見ています。藤岡が千恵の姉の役目を果たしたのは第4章で見た通りですし、宮沢と野村も多少距離が近付いたところで千恵を対等の友達として扱うとは思いづらいです。結局、正しい認識による正しい行動ではないとしても、対等な友達であろうとしてくれるという意味でナツは千恵にとって無二の存在です。そのことは、千恵がナツを特に大切に思っている理由の1つかもしれません。

*4:【守ったり】
 千恵にとってナツが目的格であることは、時に千恵がナツを侮ってかかることに繋がっているかもしれません。第2話で千恵が『あほ』を演じた時にナツの真似をした(p.46‐48)のがそれです。あるいは、「ナツはいかつい!」(p.104)のセリフにもナツを下に見る気持ちが出ています。これらは、小学1年生の時に願いを口に出せなかったナツの代わりに本を取ってきてやったように、『自分がナツの世話をしてやってる』という気持ちと無縁ではないと思います。とはいえ、千恵がナツを頼りにする場面もたくさんあり、それは千恵も分かっているので、あくまで対等な友達付き合いの範疇で、たまに上から目線が出るような感覚でしょう。

*5:【王女】
 第4章の脚注で参照したウラジーミル・プロップの論での、昔話の登場人物類型の1つ。正確に書くと『王女(探求される者)とその父親』です。つまり、敵にさらわれてしまったお姫様と、『娘を取り戻した者には褒美を取らせよう』とお触れを出す王様のことで、主人公の行動の動機や目的となるキャラクターを指します。要するに『マリオ』シリーズのピーチ姫です。とはいえ、さらわれて取り戻しに行く対象だけでなく、攻めてくる敵から守る対象だったり、恋愛ものであればアプローチして射止める対象もこの類型に当てはまります。少年漫画などにおいてはいわゆるヒロインがこの役割を果たすことが多いため、現代的には『ヒロイン役』という言葉がほぼここで言う『王女』と同じ意味で使われていると思います。どちらも女性を指す言葉であることから、物語の主人公は男性であるという固定観念ヘテロロマンス至上主義的な観念が時代を越えて残っていると言うこともできるでしょう。『主人公にとっての目的格』という意味で言うならば、行方知れずになった父親を探しに行くような物語では、父親が『王女』であり『ヒロイン役』ということになります。

*6:【友達にたかる】
 とはいえ、ナツに「いっつもたよりにしてごめんね  何か私にもできることないかな」(p.105)と言われた時は、「じゃあ 今日  帰りにジュースでもおごってくれよ」(同)と返しており、何かしてあげたことの返礼としてならおごってもらうことも有りだと考えています。お金や物のやりとりには一定のけじめを付けようとするのが旭の考え方なのでしょう。

*7:【社会性を身に付けられるか】
 必要とされる社会性を発達させられずに大人と呼ばれる年齢になってしまった人を描くのが、作者の次作『死に日々』のweb連載第20話「7291」(単行本未収録)です。高校を中退して無職で19歳の、母親以外と上手くコミュニケーションを取れない青年が、母に駄々をこねてバイトの面接に付いて来てもらう姿が描かれます。
こちらから読めます。
https://mangacross.jp/comics/sinihibi/20

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第4章.志恵ちゃんと藤岡さんは何が足りないか

目次

はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ第4章です。
 前回の第3章ではこの作品が、千恵が主人公の成長物語とナツが語り手の私小説という、2つの面が表裏一体となったものだと説明しました。

 この構造を踏まえた上で、今章では志恵と藤岡という2人の登場人物について掘り下げていきます。なぜこの2人をセットで扱うかも、最後まで読めばご理解いただけるでしょう。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、こちらの第1章の『はじめに』をお読みください。

 ではいってみましょう。




0節. 志恵ちゃんと藤岡さんは何が足りない?

 主人公・千恵の姉である南山志恵と、クラスのちょっと怖そうなグループのリーダー格である藤岡について、この章では掘り下げて考えます。
 主要人物である千恵とナツについて『足りなさ』という観点からその特質を捉えたように、志恵と藤岡に関してもその足りなさを考えることにします。志恵の足りなさ、藤岡の足りなさはいったい何でしょうか。
 今章の全体的な構成は、1~3節で志恵の足りなさを考え、4~5節で藤岡の足りなさを見て、6節で両者の関係について述べるという形になります。



1節. 志恵ちゃんは何が足りない?

 まずは、南山志恵です。彼女は、本作の片面である成長物語の主人公・南山千恵の姉です。志恵を象徴する最大の足りなさは何でしょうか。

 志恵もまた、いくつも足りないものが描写されています。まず、恵まれているとは言えない家庭環境は当然千恵と同じです。確定的な言及はありませんがおそらく母子家庭の上、母親と姉妹が触れ合うシーンは描かれません。親一人子一人のナツの母でさえ「お母さん今日もパートだ  いつ休んでるんだろ」(p.192)と心配されているのですから、娘2人を養っている南山家の母の忙しさは推して知るべしでしょう。金銭的も厳しく、アルバイトをしていますが、気になった服は高くて買えず(p.65)、雑誌は友達が読み終わったものをもらって読んでいます(p.42)。自室は持てず妹と同室です(p.181)し、学費を考えると私立大学は厳しいと思われ、国立を目指しています(p.57)。アルバイトと受験勉強が重なれば当然時間も足りず、深夜まで起きて勉強しています(p.181)。付け加えれば、最近失恋したばかりで恋人がいたこともありません(p.6)。
 こうして志恵の足りていないものを書き出してみると、気付くことがあります。それは、ただでさえ足りていないそれらのものを、さらに妹の千恵のために犠牲にする場面がいくつもあることです。
 例えば第3話で志恵は、靴を買うために千恵をジョスコに連れていきます。休日はバイトを入れるか勉強したいだろうに、わざわざ千恵の世話をしながら出かけます。しかも、失恋したばかりなので同年代のカップルが集まるような場所には行きたくなかったかもしれませんし、実際にカップルに遭遇して避けています(p.64)。*1 ジョスコでは、千恵にガチャガチャをねだられて自分のお金から200円をあげていますし(p.62)、その後には靴をねだられて、自分の財布から2000円出してまで買ってあげようとしています(p.67)。*2  さらに、千恵のテストの結果がよかったご褒美に、プレステを買ってあげようと考えるシーンもあります(p.182)。また、千恵が帰ってこない時は、バイトをすっぽかしてでも探そうとしています。
 このように志恵は、お金も時間も労力も感情も決して余裕があるわけではないのに、その中から多くを千恵に捧げています。もともと足りないものをさらに妹に明け渡さざるを得ない性質なのだとすれば、それは志恵の最大の足りなさだと言えるのではないでしょうか。


《まとめ1》 志恵は色々なものが足りていないが、その中からさらに千恵に多くのものを捧げている。そうせざるを得ないことは志恵の足りなさではないか。



2節. 志恵ちゃんの献身は足りなさか?

 ここで皆さんは疑問に思われたのではないかと思います。志恵は誰かに強制されたわけではなく、自分の意志で千恵に自分の資源を割いているではないかと。それは『妹思いで優しい』という長所であり、『足りなさ』とは反対のものだろう、と。
 それはもちろん間違っていません。志恵が心から千恵を慈しみ、自主的に世話をしていることは、端々の描写から伺えます。千恵が事故に遭ったことを想像して取り乱す姿(p.194)や、「学校で困ったことない?  あったらすぐ言うんだよ」(p.101)というセリフ、「ちー  中間ぜんぶ点数あがってたし がんばったんだね」(p.182)と頭を撫でる表情など、親に近い感情すら抱いている節があります。実際、姉妹の母親は作中では在宅している様子すら描写されないので、志恵が千恵の親代わりを果たしている部分は多分にあるでしょう。

 しかし、それほど親身に妹の世話を焼くことについて、志恵は100%納得しているわけではありません。そのことは、千恵にわざときつく当たる描写がいくつもあることで示されています。
 例えば、第1話冒頭のシーン(p.4‐6)では、志恵が千恵のカバンを手が届かないタンスの上に置いています。「やだやだ  ちー  中学2年生にもなってタンスの上の物もとれないなんて!  ちゃんと片づけしないから」(p.6)というセリフは、ここだけ見れば千恵の手落ちにかこつけて意地悪をしたようにも聞こえますが、後の志恵の振る舞いを見れば、千恵に常日頃からの整理整頓を促す意図の言動なのが分かってきます。しかし、千恵に注意するのが目的ならば、『ちゃんと片付けなさい』と叱り、『片付けられていない物は取り上げる』と言い渡せば済む話です。わざわざ千恵の背の低さを笑う必要はありません。ここで志恵は、千恵の成長を促す意図を隠し、わざと意地悪な接し方をしているのです。
 他にも、千恵が志恵の雑誌を勝手に読んだ時(p.43)や、拗ねて出かけるのを嫌がった時(p.55)に「ポコッ」と拳で額を小突くシーンがあります。ナツから「また志恵ちゃんに怒られちゃうよ」(p.92)と言われた千恵が、反射的に拳を受け止める構えをしたところを見ると、志恵による『鉄拳制裁』は日常的に行われているのでしょう。いつも同じ叩き方をしているために千恵に防御が習慣付いたわけですから、叱る時の指導の一環としてやっているのでしょうし、明らかに手加減もしています。千恵がガチャガチャをねだった時(p.61‐62)の志恵は、実際に小突いた2回の時よりも苛立っているように見えるのに拳を止めているので、感情に任せて叩いているわけでもありません。それでも、叩かれる恐怖で従わせる指導は、親ならばするべきではありませんし、姉としても誉められたやり方ではありません。親に近い愛情を抱いていますが、親として適切な接し方を選んではいないのです。
 さらに、より強い暴力を使う場面もあります。マジカルラブドラゴンパンチを決めようとする千恵の顔面にカウンターで平手をかまして泣かせるシーン(p.73)です。これはおそらく、「殺してやる!」(同)という千恵の暴言に対する制裁です。人に向かって『殺す』と言うのは、人の本を読んだり出かけるのを嫌がるよりも許容できないことなので、指導も強くなったというわけです。そのように叱る内容によって程度を変えていることや、強くすると言っても拳でなく平手で手加減していることから、やはり感情に任せて叩いているのではなく、ある程度理性的に指導方法として選択しているのが分かります。しかし、この場合も殴りかかろうとする千恵を叱って止め、『人に殺すなんて言ってはいけない』と口で言うのが最も適切で伝わりやすいはずで、その前に手を出す必要はありませんでした。
 加えて言えば、この場面の前に志恵は「ほんとさっきまで大ベソかいて店員さんに迷惑かけてたくせに」(同)と、人前で駄々をこねて迷惑をかけた千恵を咎めています。しかしこれも、ナツにわざわざバラす必要はありませんし、悪意のある泣き真似をするのはやり過ぎです。
 以上のように、志恵は千恵の成長を促すために色々な世話を焼いていますが、必要以上に粗暴に指導したり、わざと意地悪く振る舞ったりしています。まるで千恵への親にも近い庇護欲を隠そうとしているようです。だからこそ、姉妹の近くにいるナツも志恵から千恵への愛情を見誤っていて、「志恵ちゃんがこんなにまでちーちゃん思いだったなんて」(p.194)と考えるのです。

 それでは、なぜ志恵は本心を出さずに千恵にきつく当たるのでしょうか。それこそ、自分のことを後回しにしてまで千恵の世話をすることに、完全に納得しているわけではないからでしょう。
 志恵は高校2年生です。多くの家庭ではまだ親に頼って甘えて過ごしていていい年代です。しかし、志恵の家には余裕がなく母親は多忙です。クラスメイトの多くが部活や恋愛を楽しんでいる一方で、志恵は受験勉強とアルバイトと妹の世話や家の事を全部やらなければなりません。そして、志恵は千恵のように客観習慣が足りなくはないので、人並みに自分の境遇を客観的に見て周囲と比べてしまいます。だから、妹に対して親が果たすべき役割の一部を自分が担っていることを自覚していますし、それがみんなより負担を負った状態であることも分かっています。父親がいれば、家が裕福なら、妹にこんなに手が掛からなければ、時間もお金も何もかもをもっと自分のために使えるのに、という思いは、決して口に出さずとも志恵の中にあるはずです。
 だからこそ志恵は、千恵の親のように振る舞うことを拒否します。からかったり小突いたりといった、年の近い姉が妹にするやり方の範囲で千恵を育て導こうとします。筋道立てて優しく諭すという、親の役割を受け入れたくないのです。「お母さんが新しいの買えってお金くれたから」(p.54)という理由ならば千恵を連れて出かけることや、「来年は受験だからね  しっかりするんだよ」(p.57)と諭して九九の問題を出す時に「二人とも受験でお母さんに負担かけちゃう」(同)と言及することも、あくまで母親の補助として妹の世話をする姉の立場に留まりたい気持ちが表れています。
 以上のように、志恵は自分の生活資源を妹のために差し出すことを、完全に納得して受け入れているわけではありません。それでもそうせざるを得ないならば、それは志恵という登場人物を特徴付ける『足りなさ』だと言えるのではないでしょうか。


《まとめ2》 志恵はまるで親のように千恵を大切にしている。しかし、その本心を隠すようにわざと千恵にきつく当たっている。それは、千恵の親代わりという役割への反発からきている。つまり、身を削って千恵に尽くすことを志恵は完全に納得しているわけではなく、不満も持っている。



3節. 志恵ちゃんはなぜ妹に尽くす?

 それでは、なぜ志恵は多少なりとも不満を抱きながらも千恵の世話を焼くのでしょうか。
 一つにはもちろん愛情があるでしょう。志恵がどれほど千恵を大切に思っているかは見てきた通りです。しかし、志恵が葛藤を抱えながらも持てるものを千恵に捧げるのは、他にも理由があってのことです。

 注目すべきは、気に入った靴が足に合わなくてぐずる千恵に「泣くんじゃないの  中学生でしょ  靴くらいで 靴くらいで」(p.70)と志恵が言うシーンです。口ではそう言いながら、志恵は『靴くらい』のことだと思っている表情ではありません。なぜなら、ここで表れているのは『靴くらい』の問題ではないからです。
 千恵の足のサイズは、「あんたまだ18もないでしょ」(p.69)と言われています。18cmといえば、6歳児の足のサイズの平均がそれくらいだそうです。*3 中学2年生の足の大きさが小学校入学前の幼児くらいしかないとすれば、一般的な個人差の範囲に収まっているとは言いがたいです。そのことは当然、全般的な成長の度合いとも関わっています。千恵は、クラスでも背の高い方ではないナツよりもさらに頭一つ低く、タンスの上の物も取れません。また、体力がなく疲れやすい描写も繰り返されています(p.57, 90)。加えて、学力の低さや情緒・思考の幼さも、身体的な成長と関連していると考えるのが自然かもしれません。このように、その場では『好きな靴が履けない』という不足として表れているものは、千恵の心身の発達にまつわる大きな足りなさの一側面なのです。
 これと同じことが、この場面の直前の志恵にも起きています。陳列されている服が気になった志恵は、値札を見て「たかっ···」(p.65)と呟いて買うのを諦めました。この場における志恵の足りなさは『欲しい服が手に入らない』ことですが、その背後には志恵の人生を圧迫する経済的な足りなさが横たわっています。アルバイトに時間を取られること、友達の雑誌をもらって読んでいること、国立大に受かるために勉強しなければならないこと、全てはそこから生まれています。また、最近失恋した志恵の中では、お洒落をする余裕がないことと恋人ができないことは、多少なりとも繋がっているでしょう。このように志恵にとっても、一つの不足は多くの足りなさの繋がりの一面が表出したものなのです。
 だからこそ志恵は、千恵が嘆いているのが『靴くらい』のことではないと理解しています。生活の中に現れる一つの足りなさは単体のものではなく、諸々が繋がって人生に付いて回る大きな足りなさの一部が表れたものだと分かっています。だからこそ、「いっつもちーだけイジワルする なんで!」(p.70)という千恵の癇癪を痛いほど理解できてしまいます。そうやって足りなさの本質を分かっているから、妹の足りなさをできる限り満たしてやりたいという姉としての感情が湧いてくるのでしょう。
 このように、自分のものを妹に差し出す理由が足りなさを分かってやれるからであることは、作中の志恵の行動を特徴付けています。
 例えば、千恵がガチャガチャをねだった時には、「だめ  自分でおこづかい使いきったんでしょ」「なんでも自分の思いどおりなると思うな」(p.61)と一度ははねつけましたが、べそをかいている顔を見て結局200円を渡します。その時に「これで本当に最後だからね」(p.62)と言っているにもかかわらず、直後に高価な靴をねだられた時には自腹で2000円を出して買ってやることを決めます。
 これらは、教育としては甘すぎると言えるでしょう。初めに諭した言葉を貫き、自分のお小遣いの中でやりくりすることを覚えさせるのがあるべき指導です。しかし志恵は、千恵を育てる親の立場ではなく、分け与える姉の立場にいます。だからこそ、足りなさに泣いている妹には共感せずにいられず、お金を渡さずにはいられないのです。

 加えて言えば、志恵は自分の家庭の余裕のなさもよく分かっています。
 自分が『お姉ちゃんだから』、妹の世話をしなければ南山家が立ち行かないことを理解しているのです。同時に、千恵が少しでも自立できるようにすることが家の状況から言っても必須だと分かっているので、「しっかりするんだよ」(p.57)と何度も教え諭すのです。

 以上のように、志恵が千恵の世話を焼く理由の多くは、『自分が足りなさを知っているから』というところにあります。
 同じ家庭で育ったから現状の不足がよく分かっていて、足りなさの本質を知っているから妹の不足不満に共感し同情します。そして、自分の方がまだ足りなさに抗う力を持っていることも分かっているから、自分の身を削ってでも妹を満たしてやろうとします。同時に、千恵自身の足りなさと家庭の足りなさもよく知っているから、姉として少しでも補おうという義務感も働いているわけです。
 足りなさを知っているからこそ姉として自分を犠牲にしてでも妹に与えずにはいられないこと、これこそが志恵という登場人物を象徴する最大の足りなさなのです。


《まとめ3》 志恵は、足りなさの本質も、妹の千恵や南山家の現状の不足も理解している。だから姉としての役割を引き受けて妹に尽くさざるを得ない。つまり、『足りなさを知っているがゆえに姉であらざるを得ない』ことが志恵の足りなさである。



4節. 藤岡さんは何が足りない?

 次に、藤岡について考えてみましょう。
 藤岡は掴みづらいキャラクターです。登場シーンが少ない上に、第7話で印象が完全に逆転します。そんな彼女を特徴付ける足りなさとは何でしょうか。

 藤岡を分かりづらいと思わせるのは、その二面性です。初登場シーンでの「みんなで手を組んで万引きしねえ?」(p.88)という『冗談』や、「お前  けっこうこいてるよなあ」(p.116)という旭への威嚇、お金がなくなったことを委員長や先生に報告しようという宮沢への「ば──か それじゃあ犯人を私らでしめあげられなくなるだろ」(p.147)という返答などは、粗暴かつ威圧的でまさに不良といった印象を与えます。それに反して、千恵がお金を盗んだことが分かった後の藤岡(p.165‐)は、千恵を許した上で罪の自覚を促して反省させ、未来への希望を説いて諭すという、素晴らしい優しさと聡明さを見せます。宮沢からは、友達のお金を肩代わりしたり家族に尽くしたりといったまるで聖人のような人物像が語られ、千恵や旭とも打ち解けます。
 これは当然のことながら、藤岡の人格が急に変わったわけではありません。読み返してみれば、藤岡が実際に物を盗んだり暴力を振るったりしているシーンはありません。あくまで口では粗暴な発言をしているだけで、はじめから優しく賢い性根を持っていたのです。後に千恵に盗みの罪を教えていることからも分かるように、本気で万引きを考えてはいませんでしたし、お金が盗まれたことを先生たちに報告するのを止めたのも、大事にせずに自分たちで解決した方が犯人にとってもいいだろうと思ったのでしょう。藤岡が不良に見えたのは、視点の多くを担うナツをはじめ、千恵や旭たちが藤岡の良い面に気付いていなかっただけです。
 かといって、藤岡の本質が見えていなかったことを、ナツたちに人を見る目がなかったための誤解だったと片付けてしまうのも適当ではありません。たしかに藤岡は、教室で大声でお金のやりとりの話をしたり(p.106)、千恵が嫌がっているのに気付かず小学生呼ばわりしたり(p.107)、それほど親しくないナツや千恵に強めのボディタッチをしたり(p.88, 107‐108)と、大雑把で配慮に欠けている面があり、誤解されやすいタイプだとは言えるでしょう。しかし、先ほど挙げたようないかにも不良じみた発言は、気遣いができていないという範囲を通り越して、明らかに意図して威圧的な言葉選びをしています。予断を抜きにしてもそういう面があることは、藤岡と親しい宮沢が「藤岡もさ グレてるとこあるけど」(p.172)と言っていることでも分かります。
 そんな風に、まるで性根を隠すように不良じみた物言いを藤岡がするのはなぜでしょうか。

 それを考えるために、藤岡がどのような状況で生活しているかを見てみましょう。
 まず家庭では、家業の手伝いをしながら妹たちの面倒を見て、その上祖母の介護までしています(p.172)。『お姉ちゃん』*4という立場ゆえでしょう、中学生でありながらすでに大人のように扱われ、働いて家を支えています。
 一方学校ではどうかというと、ある意味で家庭と近い状況にあります。この物語の大部分を占める2年6組の登場人物の中で、最も精神的に成熟しているのは明らかに藤岡です。千恵の盗みが発覚した時も、藤岡が反省を促して謝罪を引き出し、事態を収拾しました。あの場においては間違いなく、旭や奥島たちより藤岡の方が大人だったと言えます。また、クラスと部活が同じでよくつるんでいる宮沢と野村の間でも、藤岡は頼られる立場にいます。お金を出せなかった部員の代わりに1000円を出したり(p.166)、旭と険悪になった時に衝突を避けたり(p.117)など、この3人の中でも自然に場を収める役割を果たしています。
 学校でこのように振る舞うのは、優しく聡明なもともとの性格もあるのでしょうが、家で大人として、姉としての役割を果たしているために同年代よりも大人びていることが大きいと思われます。あまり親しくないクラスメイトにも馴れ馴れしく距離を詰めるのは、周囲より精神年齢が高いために、クラス内でのグループ分けのようなものにあまり頓着しないという理由もあるのかもしれません。
 このように、家でも学校でも大人として振る舞い他者のために動く藤岡ですが、両方の場での行動に共通していることがあります。それは、自分の持っているものを差し出すことでその場を収めていることです。
 家の事を手伝うために、言わずもがな藤岡は自分の時間を大幅に犠牲にしています。店の手伝いと妹の世話ですでに部活を休みがちだったのに、さらに祖母の介護が加わったことで、部内でも一番上手かったバスケットボールを完全に諦めざるを得なくなりました(p.172)。そんな幽霊部員の状態で、気に入らない顧問の誕生日プレゼントのためなのに、お金を出せない部員のために藤岡は2人分の1000円を払いました。さらに、話の流れで千恵が返せない1000円は藤岡が出したものということになったので、藤岡がそのお金を千恵に譲渡するという形で一応の決着をつけました。その後に藤岡がもう一度1000円を払って補填したのかどうかは描かれませんが、少なくとも形式上は藤岡が二度自腹を切って1000円出すことで、それぞれ場を収めています。

 以上のように、藤岡はいつも自分の身を削って他人のために動いています。そういう大人としての振る舞いが習慣付いているのでしょう。
 だからこそ藤岡は不良を演じるのではないでしょうか。聞き分けのいい大人の役割を納得して呑み込んでいるわけではないと主張するために。黙って貧乏くじを引くだけではないと自分に納得させるために。
 志恵もかなり家庭に尽くしていますが、藤岡は志恵よりも年齢が低く、それでいておそらく志恵よりも働いています。周囲から大人の役割を割り振られることに、少しでも抗ってみたいと思うのは自然なことだと言えるでしょう。大人に対して反抗的な子供である不良のガワを藤岡が演じるのは、大人にさせられることへのせめてもの抵抗なのです。


《まとめ4》 藤岡はいつも他者のために自分を犠牲にして、大人としての役割を果たす。しかし、大人になることを完全に受け入れたわけではないというポーズとして不良じみた発言をしている面がある。



5節. 藤岡さんはちーちゃんの何?

 前節では、藤岡は自分の果たしている役割を完全に受け入れたわけではないという抵抗の意味で悪ぶっているという結論になりましたが、これと同じ心理で行動している登場人物がいます。志恵です。2節で見た通り、志恵は千恵の親代わりという役割への抵抗として、千恵への愛情を見せずにわざときつく当たっていました。
 他にも、藤岡と志恵には『妹を持つ姉』という共通点があります。そして、志恵の足りなさは妹の千恵の存在によって規定されています。そこで、藤岡は千恵にとってどういう存在だったかを考えてみることにします。それはまた、本作の半面である千恵の成長物語において、藤岡がどういう役割を果たしているかにも繋がってきます。

 まず、藤岡は千恵に対してどう接しているでしょうか。
 「おまえ中身まで小学生みたいだな───!」(p.107)や、「チビ  お前  意外に根性あるじゃねえか」(p.167)に顕著なように、明確に千恵を子供として扱っています。呼び方が『チビ』で固定されているのもその表れです。また、「小学3年生の妹が日曜朝に見てるやつだ!」(p.107)や「ウチの妹達の相手してくれよ  チビとは気が合いそうだ」(p.170)を見るに、自分の妹達に重ねて見ている部分があるのも確かです。千恵を妹のように見ているからこそ、諭し導くために一肌脱いだのでしょう。

 その藤岡が千恵を諭すシーンも詳しく見てみましょう。
 藤岡はまず、「いいよいいよ  やるよチビ」(p.166)と自分の1000円を千恵に明け渡すことで、その次の段階へ繋げます。このやり方が自分の身を削る習慣から出ていることは前節で説明した通りですが、同時にこれは教育として真っ向から正しいものではありません。中学生がお金を盗んだらきちんと返させるのが一般的に正しい指導で、動機や言い訳を汲んで『いいよ』などと普通は言うべきではありません。しかし藤岡は、千恵を教育する親や先生でも、罰を与える被害者や第三者でもなく、分け与えて足りなさを満たす手助けをする姉としての立場にいます。だから『正しく』なくてもこの方法を取るのです。これは、3節で言及した志恵のやり方と同じ、『姉としてのやり方』です。
 次に藤岡は千恵のヘアゴムを取り上げ、大切な物を奪われる気持ちを分からせた上で、「私の妹らもこれ好きだからな  喜ぶからもらっとくわ」(p.168)と言って自身の罪を自覚させます。千恵の心中をよく理解しなければできない鮮やかなやり方です。特に、安物のヘアゴムが千恵にとってとても大切な物だと分かっていなければこう上手くはできません。おそらく、ヘアゴムを誇らしげに付けている姿と、「ちーだけおこづかいすぐなくなる ほしい 新しいゲームとかオモチャとか  もっと」(p.161)というセリフから、金銭や娯楽の状況をある程度読み取った上でその大切さを想像したのでしょう。実際にマジカルラブドラゴンが好きな年代の妹がいたことも、その理解の根底にあるはずです。つまり、妹を持つ姉であるがゆえに、『妹』の足りなさと価値観を理解し、それによって姉として成長を促す行動が取れたというわけです。
 そして、千恵が反省して謝罪できると、ヘアゴムを髪にくくってやりながら未来への希望を説きます。「何もないとか言うなよな」「ちょっと足りなくたって どうだって 楽しんで生きていけるだろ」(p.169)という言葉は、「ちーにはなにもない  なんで!」(p.162)、「ちーたち いっつも足りないから!」(p.165)という千恵の叫びへの返答です。これもやはり、千恵の抱えている不足と不満が理解できるから答えられるのです。「私だって欲しいものがたくさんあるけど手に入らない  みんなそうだ」(p.169)と言うように、それが藤岡も抱えており、乗り越えてきた感情だったからこそまっすぐに答えられるし、答えずにはいられなかったのです。

 このように、藤岡は周囲に大人として振る舞うだけでなく、千恵に対しては姉として振る舞っています。身を削ってまでそのような役割を果たすのは、足りなさを知っているからです。
 つまり藤岡は、あらゆる面で志恵と共通していると言えます。志恵と藤岡という2人の姉は、同じ足りなさを中心に持っている相似形のキャラクターなのです。


《まとめ5》 藤岡は千恵を妹扱いしており、その足りなさを理解しているがゆえに、姉として自分のものを差し出すことで成長に導けるし、そうせずにいられない。つまり、志恵と藤岡は『足りなさを知っているがゆえに姉であらざるを得ない』という足りなさを共有しており、相似形を成している。



6節. ちーちゃんの2人の姉

 前節で、キャラクターの内的な性質においては志恵と藤岡が相似形だと示しました。それでは、この2人は物語の中での役割も似通っているのでしょうか。

 この2人の性質は、『妹』の千恵の足りなさを満たしてやるという方向を向いています。千恵の足りなさの最たるものは、第1章で見たように客観習慣の不足です。そして、その足りなさが満たされるのは藤岡によってです。藤岡が奪われる側の気持ちを分からせたことで、千恵は客観習慣を一つ得て成長しました。
 それでは、千恵の足りなさを満たすことに藤岡は成功し、志恵は失敗していたのでしょうか。
 それは違います。そのことは、藤岡にヘアゴムを取り上げられた時の千恵のセリフ「それはだめ──! それちーの!  お姉がくれた!」(p.167)を見れば分かります。ヘアゴムは、九九を唱えてねだって志恵からもらった200円で千恵が当てたものです。それでも千恵は、それが大切な理由を『ちーが当てた』ではなく『お姉がくれた』と言います。決して素直に表してはいない志恵の愛情を千恵はきちんと受け取っていて、成長を果たす場面でそれが効果を発揮するのです。さらに言えば、志恵がガチャガチャをさせてやっておらず、千恵が大切な物を何も持っていなければ、藤岡は大切な物を奪われる気持ちを千恵に教えられなかったはずです。何も持っていないという千恵の足りなさをほんの少しでも志恵が満たしてあげていたから、藤岡はより大きな足りなさを克服するよう導くことができたのです。
 つまり、志恵と藤岡それぞれの行動が繋がったことで千恵の成長を助けたのです。2人のしたことはどちらも、『正しさ』よりも『妹』の足りなさを満たすことを願い自らのものを差し出すという『姉』としての行為です。おそらくは面識もないであろう2人の姉は、ヘアゴムと献身をリレーして千恵という1人の妹を成長に導いたというわけです。

 ということは、やはり志恵と藤岡はキャラクターとしての性質だけでなく物語の中での役割も同じだということになります。しかも、作品の半面である千恵の成長物語の中で、2人で1つの極めて重要な役割を果たしています。身を削ってでも主人公に与え、その成長に資する役目、物語論で言うところの『贈与者』*5の役を務めていると言えるでしょう。
 千恵の物語は、主人公が2人の姉=贈与者*6の助けを得て成長を果たすという物語なのです。


《まとめ6》 志恵と藤岡それぞれの姉としての献身が繋がることで千恵は成長した。つまり、この2人は千恵の物語の中で贈与者としての姉という役割を共有しており、一体となって千恵という妹を成長へと導いている。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 志恵と藤岡という2人の脇役について、自分なりに掘り下げて書いてみました。お互いに見も知らない2人の姉が1つのヘアゴムを介して連携し1人の妹を成長に導くところが、この作品屈指のエモいポイントだと思ってるので、そこを語れて満足しています。

 さて、次回は旭の足りなさについて考えます。
 ここまで主要人物の足りなさを中心に本作の大きな構造やテーマについて考えてきましたが、次章でひとまず一区切りの完結としたいと思います。
 次回第5章はこちらです。またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:カップル】
 完全に余談なのですが、ここで志恵がカップルを避けてわざわざエスカレーターに乗ったのは、最近失恋した心が疼いたからでしょう。それに加えて、カップルがいちゃつくのを千恵に見せたくないという多少過保護な気持ちもあったかもしれません。しかし、わざわざ4階までエスカレーターで上がろうとしたことと、カップルの女性は後ろ姿なのに男性の方は顔が見えていることを根拠に、志恵の「好きな人」とその「彼女」(p.6)にたまたま出くわしてしまったと考えることもできます。あるいは、他人にしては反応が過剰だが好きな人本人だとすれば動揺が少なすぎるので、単なる知り合いがデートしているのを見つけ、休日に妹連れで買い物に来ている自分がカップルと会話するのは惨めな気持ちがして避けたとも考えられます。最後の選択肢はさすがに穿ち過ぎですが、この部分についてはいずれとも解釈できるシーンだと思います。

*2:【靴】
 千恵が欲しがった靴は6980円でした(p.67)が、志恵が母親から靴を買うために預かったお金は5000円でした(p.54の4コマ目)。そのため、この時点ではおそらく手持ちが3円しかない千恵に靴を買ってやるには、差額の約2000円を志恵が出さねばなりません。「バイト代入るのもうすぐだし···  2000円くらいなら」(p.67)と考えた志恵は、勉強を頑張ると千恵に約束させ、自腹を切ることを決めます。しかし、その靴のサイズが合わず、結局はデザインの似た子供靴を買いました(p.71)。この子供靴の方は値段が示されなかったので、実際に志恵が自腹を切ったかどうかは分かりません。子供用なので5000円以内に収まったとも考えられますが、それなりの値段の商品が置いてある店のようですし、5000円以上する子供靴などいくらでもあります。さすがに7000円より高くついたということはないでしょうが、500円や1000円志恵が出したということは十分ありえます。ただ、実際に出したかどうかに関わらず、志恵の人格を掴む上で大事なのは、『千恵のために自分のお金を出すことを決めた』部分なのは間違いありません。

*3:【足のサイズ】
 『子供 足のサイズ 年齢』でGoogle検索して、上位に出たいくつかのサイトを参考にさせていただきました。
『5~6歳では平均17~18cm』というデータが掲載されていたのが以下の3つのサイトです。
『ゼットクラフト楽天市場店』
https://www.rakuten.ne.jp/gold/z-craft/page/shoes-toku-contents/shoes-toku-contents7.html
『トレンドタウン.info』
https://trend-town.info/archives/2283.html
『ママのぎもん』
http://xn--x8j3cxc6c3ta.com/archives/1286.html
また、以下のサイトには、『6歳の平均は18~18.5cm』と載っています。
『rikejo.net』
https://rikejomama.net/shoes-size/
いずれにしろ、足のサイズ18cm未満は就学前の児童レベルなのは変わりません。

*4:【お姉ちゃん】
 姉としての藤岡を象徴するのが、3人の妹たちと一緒に歩いているシーン(p.180の6コマ目)です。妹たちに慕われて仲良さげな様子が印象に残るコマですが、それ以外にも藤岡の姉としての面を強調する描写があります。それが、妹たちがみんなリボンを付けていることです。作中ではもともとリボンは恋人がいることを示すもの(p.86の5コマ目)で、ナツにとってはクラス内での評価と同一視されていきました。なので、藤岡が常に前髪に付けているリボンも、ナツと読者からは満ち足りている側にいることを示すものと見えていたはずです。それがこの場面で、実は妹たちとお揃いだったことが分かります。それにより藤岡のリボンは、妹との繋がりを大切にしている姉の象徴として、その印象を大きく変えるのです。

*5:【贈与者】
 物語論の先駆的研究を行ったロシアの学者ウラジーミル・プロップ(1895ー1970)の著書『昔話の形態学』(1928)で記述された、昔話の登場人物の類型の1つ。主人公に力を与える役割の人物です。プロップの分析はロシアの昔話に限ったものでしたが、一般的な物語に拡張して当てはめられる概念も多く含まれ、『贈与者』という人物類型もその1つです。典型的な物語で言えば、主人公が旅立つ時や強敵と戦う前の成長・強化イベントで、武器をくれたり新技を教えてくれたりする役のキャラクターですね。主人公にとっての師匠や父親・兄、あるいは先輩やボス、味方の科学者などの属性の人物が、典型的に贈与者の役を担います。

*6:【姉=贈与者】
 本作では『姉』がほぼ贈与者と同義になっています。しかし、作者の前作『空が灰色だから』では、そのように無償で与えるという役割の姉・兄はあまり中心的に取り上げられず、むしろ恋愛を含んだ擬似的な姉弟や兄妹の関係が多く描かれました。そして、愛情や救いを与える役割は母親が果たすことが多かったのです。その後に描かれた本作では、母親は背景に後退し、代わって姉が贈与者になりました。そこからさらにいくつかの作品を経た後の『月曜日の友達』(小学館)では、姉までもが背景に後退し、対等の友達同士で与え合うというテーマに結実します。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第3章.主人公は誰なのか

目次

はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ第3章です。
 第1章と第2章では、南山千恵と小林ナツという主要人物2人の足りなさについて掘り下げました。


 他の登場人物の足りなさについても書くのですが、その前に物語全体の構造についてお話しておいた方が分かりやすいので、第3章ではこの作品の主人公は誰なのかから考えていきます。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、上の第1章の『はじめに』をお読みください。

 今章の構成は、1節が前提としての余談、2~4節で核心に触れ、5・6節は次章以降に繋がる補足になります。
 ではいってみましょう。



0節. 主人公は誰なのか?

 本作には、中心となっている人物が2人います。ちーちゃんこと南山千恵と、小林ナツです。では、主人公はどちらなのでしょうか。あるいは、2人ともが主人公なのでしょうか。
 もちろん、主人公という概念が明確に定義されているものではないので、断言できる正解があるわけではありません。しかし、主人公というのは、物語全体を考える鍵になってきます。主人公は誰なのかという疑問から考えていき、この作品全体の構造を読み解いていこうと思います。



1節. 2つの誤解

 まず、本作について、インターネット上でたまに見かける2つの誤解に触れておこうと思います。
 1つは、心内語が表現されるのは作中でナツだけである、という理解。内面が読者に分かるように開示されるのはナツだけだという把握の仕方です。
 もう1つは、千恵を『ちーちゃん』と呼ぶのはナツだけである、という理解です。この考え方は、本作『ちーちゃんはちょっと足りない』のタイトルロール*1は『ちーちゃん』と呼ばれている千恵だが、『ちーちゃん』と呼んでいるナツがいわば裏タイトルロール*2である、と発展します。ナツだけが『ちーちゃん』と呼ぶ以上、『ちーちゃんはちょっと足りない』と言っている、あるいは考えているのはナツだというわけです。
 この2つの理解は、どちらも『だからナツが主人公である』という結論に繋がります。最初は千恵が主人公だと思ったが、実はナツが真の主人公だった、という物語の捉え方です。
 この結論自体は単純に的外れだとは言えません。第3話までは千恵の行動が中心に描写されたのに対し、第4話以降にナツの内面が主要な要素として前面に出てくるのは確かです。しかし、その結論の前提となっている2つの理解は、明らかに誤りです。

 まず内心の表現ですが、ナツだけでなく志恵にも存在します。1つが、p.67の「········· これならなんとか······」以下の、自費を出して千恵に靴を買ってやることを決意する思考です。また、p.182‐183にも「ちー  中間ぜんぶ点数あがってたし」以下と、それに続くシーンでの「はっ アラームに気付かず寝過ごしてしまった」の心内語があります。
 次に、千恵を『ちーちゃん』と呼ぶ人物ですが、ナツ以外に如月がいます。p.32の「ちーちゃん  奥島っちになついてるねえ!」は如月のセリフです。また、p.162でお金を返すよう促す時も「ちーちゃん  ねっ」と発言しています。
 2つの表現とも、それぞれ違う場面で2度以上繰り返されています。『例外』として扱うことはできないでしょう。
 ただ、『ちーちゃん』と呼ぶのがナツだけでなくても、作中ではほとんどナツが呼んでいるのは事実なので、それを根拠に『ちーちゃんはちょっと足りない』と思っているのはナツだと主張することはできます。しかし、この裏タイトルロール説もやはり的を射てはいないと思います。なぜなら、第2章5節で見たように、ナツは千恵の自分より足りない部分をあえて見ない傾向があるからです。ナツの感覚に沿うならば『ちーちゃんはちょっと足りない』よりも『私たちは全然足りない』となるでしょう。

 以上のように、根拠となる認識は誤解だったわけですが、『実は千恵ではなくナツが主人公だった』という結論についてはどうなのでしょうか。私はこれについても、事態はもう少し複雑なのではないかと思っています。どのように複雑なのかを説明するために、次節からは改めて誰が主人公なのかを考えていきます。


《まとめ1》 心内語と千恵を『ちーちゃん』と呼ぶ描写はナツにしかないというのはありがちな誤解である。これらの誤解から導かれる『実はナツが主人公だった』という結論も正鵠を射てはいないことをこれから説明していく。



2節. 主人公とは何か?

 さて、主人公は誰なのかを考えるために、まず主人公とは何なのかを考えてみます。とはいっても、『主人公』にきっちり確定した定義はありませんし、世の中には星の数ほどの物語があり、その多くには多種多様な主人公がいます。なので、典型的な物語の主人公について考えてみます。
 典型的な物語とは、問題が起こってそれが解決するというドラマです。神話や民話といった原型的な物語は基本的にこの形に則っていますし、現代において創作される物語の多くもそうでしょう。状況が起こり、発展し、山場において重要な変化が生じて落着するという、いわゆる起承転結の形を取るものです。
 ということは、典型的な物語における主人公は、そのような動的なストーリーを牽引する人物だということになります。問題の発生と解決に同化している者。事を起こし、推し進め、物語の最大の変化をもたらす者。起承転結の転、つまり物語のクライマックスを象徴する者。そういう登場人物こそが、典型的な主人公だということになります。

 それでは、本作の中で、それに当てはまる登場人物は誰でしょうか。
 間違いなく千恵です。
 『事を起こす』という主体性を、作中では常に千恵が担います。はじめは、蜂と戦って刺される、オールキンタマの答案を書く、ナツの真似で奥島にもてようとする、ガチャガチャや靴をねだって九九を叫ぶなど、おかしな行動を起こして日常に些細な事件をもたらします。さらに、お金を盗んでナツに渡したことに加え、盗みを告白する、何も告げずに出かけて帰らない、といった重大な出来事を折に触れて起こし、物語を急速に進展させます。
 また、物語のクライマックスが『状況が決定的に変化し、問題が解決する』場面だとすれば、千恵が盗みを告白して藤岡たちと対峙するシーンこそが本作のクライマックスということになります。この場面で、千恵がお金を盗んだことが確定し、登場人物たちにそれが知られ、藤岡の印象が逆転し、旭と藤岡たちが和解するという多くの変化が起こります。このクライマックスの中心にいるのが千恵です。何より、お金の盗難という作中最大の事件が解決します。『千恵がお金を盗んだ』という問題は、『千恵が反省して謝罪する』という形で解決を見ます。千恵は、問題の発生と解決という物語そのものと一体化しているのです。
 そして、千恵が謝罪できたことは、第1章の8節と9節で述べたように、客観習慣の不足という足りなさの改善であり、大人への成長の一歩でもあります。つまりこの物語は、千恵という主人公が未熟さによって失敗するが、周囲の助けによって改め、未熟さを克服して成長するという、典型的な成長物語なのです。


《まとめ2》 問題の発生と解決という物語と同化し、状況の変化を主体的に牽引している千恵は、典型的な物語の主人公と言える。本作は、千恵を主人公とする成長物語である。



3節. ナっちゃんは何なのか?

 それでは、ナツは主人公ではないのでしょうか。
 ナツは少なくとも、前節で述べたような典型的な主人公ではありません。主体的に物事を起こすことがないからです。物語前半のナツは基本的に、千恵の行動に対してツッコんだり笑ったりする役回りです。物語の転機である第5話の最後でも、千恵がお金を盗んで渡してきたので受け取っただけです。最終話でも、志恵に頼まれたために千恵を探しに出かけ、旭と藤岡たちをただ目撃し、大声で呼ぶこともできなかったところを千恵の方から見つけられています。徹底して受動的で消極的です。
 さらに言えば、ナツは変化を起こしません。状況の変化は主体的に動く千恵が起こしていき、ナツはそれを見ているだけです。唯一ナツが主体的に状況を変えようとしたことでさえ、リボンを付けて学校に行くという程度のものであり、それも実際に何かを変えることはありませんでした。また、物語世界の最大の変化は盗難事件の解決ですが、そのシーンにナツは居合わせていません。千恵はその場面を転機に物語の中で成長しましたが、ナツは客観習慣からくる劣等感を一方的に深めていくだけで、成長や解決を見ることはありません。
 このようにナツは、物語を主体的に牽引することはなく、ドラマのクライマックスから疎外されており、作品世界の変化と同化できていません。ということは、ナツは少なくとも千恵のような、典型的な物語の主人公だと言うことはできません。
 それを踏まえてメタ的に読めば、「私は  変化することが怖くて  衝突することが怖くて  消失することが怖くて」「その場をいい加減にやりすごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて」「私は何もしないただの静かなクズだ」(p.211)というナツの言葉は、自分の消極性を吐露しており、まさに自分が主人公にはなれないという独白だと言えます。そう思うと、その後の「ちーちゃん もう帰ってこないの? 未来がせまいよ」(同)という嘆きも、主人公でない自分には主体的に状況を変えられないから、主人公の千恵が戻ってきて未来を切り拓いてほしい、という願いにも見えてきます。

 それでは、私たち読者の多くが抱く『ナツが主人公だった』という感覚はどこからきているのでしょうか。
 それはもちろん、ナツの視点での描写の多さです。前述したように、3つの場面で志恵の心内語表現がありますが、逆に言えばそれ以外の心内語は全てナツのものです。また、言葉による心理の表現だけでなく、p.87のリボンを付けた自分やp.142のリボンを誉められる自分のように、ナツの想像している情景が描かれているコマもあります。あるいは、p.121‐123でナツ自身が真っ黒になって歪んでいくように、心理状態が描写そのものに影響している場面もいくつもあります。そして、これらの内面描写はナツ以外には用いられません。それほどまでに、本作の多くの部分はナツの視点から描かれているということです。
 では、典型的な主人公ではないがその視点から物語が描かれているということは、ナツはいわゆる『視点キャラ』なのでしょうか。
 ここで言う『視点キャラ』は、『視点人物としての役割を最重視されているキャラクター』ぐらいの意味です。視点人物とは、読者・視聴者など物語の受け手が感情移入の対象とし、その人の視点から物語を見ることが意図された登場人物ですね。最も一般的なのは主人公が視点人物を兼ねるというパターンですが、主人公とは別に視点人物がいる物語も多く存在します。その場合、視点を提供することを役割としたキャラクター、『視点キャラ』ということになります。視点キャラはたいていの場合、常人を超越した主人公を受け手と同じ目線で見ることで、物語世界に受け手を没入させる手助けをします。『シャーロック・ホームズ*3シリーズのワトソン医師などが典型例ですね。もちろん、ほとんどの場合、漫画は小説ほど誰の視点で描かれるかが明確ではありませんが、バトル漫画の主人公の強さに驚くパートナーや、ギャグ漫画のおかしな主人公にツッコむ常識人は、受け手が同化できる視座を提供する視点キャラだと言えます。
 本作の場合、典型的な物語の主人公が千恵ですが、第1章で見た通り、千恵の思考の傾向は多くの人には共感しにくいものです。それゆえに、千恵を傍らから読者に近い目線で見て、おかしな行動にツッコんだり逸脱した行動にショックを受けたりする、視点キャラとしてのナツが配置されたと考えるとある程度筋が通ります。

 しかし、それでは納得できないことが2つあります。
 1つは、千恵を見るナツの視線が不足していることです。千恵が藤岡に諭され謝罪するという最大の成長を遂げるクライマックスは、不在のナツの視点を通さずに描かれます。また、千恵がお金を盗む重要な場面も、ナツは目撃していません。ゆえに、千恵が本当にお金を盗んでいたという重大な事実は、ナツにとっては最終盤(p.219)まで未確定でした。あるいは、第3話は千恵を中心に話が進みますが、ナツは終盤まで登場せず、その間に千恵が欲しい物を入手したことを察することもできていません(p.73)。第5話冒頭(p.101‐103)ではナツが千恵に声を聞かれる立場になり、聞かれていたことを知らないという逆転が起こっています。このように、ナツは千恵の物語の重要な部分を見逃し、把握できていません。千恵を見る目を読者に提供する視点キャラとしては、あまりに不十分です。
 もう1つ納得できないのは、千恵を見る以外のナツ本人の視線が過剰だということです。第1話と第2話では、ナツの言動も思考も千恵の行動に対する反応であり、視点キャラと呼べる範疇にとどまっていました。しかし、第4話から自分自身の劣等感や欲望が千恵への視線と拮抗し始め、お金を受け取った第6話以降は自身の不満や不安や否定がナツの描写の主となります。それらの思考の多くが千恵の行動をきっかけとして出てくるのは確かですが、傍らで千恵を見るという立ち位置からは明らかに逸脱しています。
 以上の2点から言えるのは、ナツは視点キャラと呼べるほど作中で千恵に従属した位置にないということです。動的な物語の典型的な主人公である千恵とは独立して、やはりナツももう一人の中心人物なのです。

 それでは、ナツはいったい何なのでしょうか。
 作中人物としてのナツについてまとめると、主体的な行動で物語を動かすことはしないが、内面の描写が非常に豊富で、作品の中心的な人物であるということになります。これに最も相応しい表現は『私小説の語り手』だと思います。*4
 『私小説』という用語には文学史的に定義の争いもあると思いますし、そもそも本作の形式は小説ではなく漫画だというのもありますが、ここでは大まかに『物語世界の出来事よりも、それに伴う中心人物の内面を描くことを主眼としたフィクション』を表していると考えてください。『土佐日記*5私小説である』と言うのと同程度の解像度で、説明をしやすくするために半ば比喩的に使っている用語だと理解していただければ幸いです。
 いずれにせよここで主張したいのは、本作には『千恵が主人公の成長物語』という面とは別に、『ナツが語り手の私小説』という側面が存在するということです。


《まとめ3》 ナツには物語に対する主体性がなく、千恵のような典型的な主人公ではない。しかし、ナツの内面表現が作中で大きなウェイトを占めており、千恵を見るための視点キャラの枠にも収まらない。つまり、本作には千恵の物語とは別に私小説としての面があり、ナツはその語り手である。



4節. 物語と私小説の関係は?

 それでは、本作の中で、千恵が主人公の成長物語という面とナツが語り手の私小説という面は、どのような関係にあるのでしょうか。
 それらは入れ替わりで出てきて繋ぎ合わされているのでしょうか。確かに、千恵が志恵と買い物に行く第3話や盗難事件が解決する第7話は、ナツが出るシーンが少なく、千恵の物語のパートだと言えるかもしれません。また、第8話で千恵に出会うまでにナツが歩き回り思考し続ける描写は、私小説のパートと見ることができるでしょう。
 しかし、第5話の最後の千恵がお金をナツに渡すシーンは、千恵の物語の中で重要なポイントであり、同時にナツの心理の転換点でもあります。また、第8話の終盤は、ナツが一つの救いに帰着する場面であると同時に、千恵の成長も描かれており、2人のこの先を暗示するラストシーンでもあります。つまり、これらの場面では物語と私小説は混ざり合っています。作品の2つの側面は、単純に交代で描かれるわけではないのです。

 それでは、その2つはどのような混ざり方をしているのでしょうか。それを考えるために、千恵の物語がどのような描き方をされているか見る必要があります。
 千恵は常に他者の目を通して描かれます。具体的には、ほとんど他の登場人物と一緒にいる場面しか描かれません。常にナツや志恵や旭たちに見られている状態が描かれるわけです。例外としては、自宅でマジカルラブドラゴンごっこをしているシーン(p.52‐53)は部屋に一人ですが、隣室に志恵がおり、声や物音で千恵の行動を詳細に知覚しているはずです。また、理科の小テスト中(p.20)も千恵を見る視線はありませんが、その時のことを後にナツと旭に報告しており、間接的にその情景は見られていると言えるでしょう。
 千恵が他者の目から描かれているコマは随所にありますが、分かりやすい例を挙げれば「すき───っ!」(p.36)の一コマです。後ろにいるナツの問いかけに振り返って答えた千恵が、ナツの視点から描かれています。見下ろすアングルになっているのも、2人の身長差によるものです。また、p.183の5コマ目と7コマ目およびp.184の1コマ目の出かけていく千恵の姿も、明らかに志恵の視点を意図して描かれています。
 このように千恵は他者の視点から描かれるわけですが、千恵からの視点が描かれないわけではありません。例えば、p.20の3~5コマ目、小テストの膀胱の図に寄っていく絵は、明らかに千恵の視界を表しています。また、p.157の2コマ目も、前後のコマの流れと見上げるアングルからして、千恵から見た奥島を描いています。千恵を見る視点ほど多くはないものの、千恵が見ている視点に寄り添った表現もあるのです。ただし、千恵の目からのコマは視界が狭いという特徴があります。小テストを見る視界は膀胱にフォーカスしていって広がることはありませんし、奥島のコマも顔のアップです。先ほど例に挙げたナツや志恵から見た千恵はほぼ全身が描かれており、背景も入っているコマが多いのと対照的です。このことは、千恵が常に他者からの視点で描かれる理由と繋がっています。
 そもそも、漫画のコマには大きく分けて2種類あります。神の視点からのコマと、登場人物の視点からのコマです。神の視点からのコマは、第1話最初のp.4の1コマ目のような風景のコマや、第1話の最後(p.24の3コマ目)と第8話の最後(p.224の3コマ目)のように登場人物を遠景で捉えたコマが代表的ですね。誰もいない場所に作者が視点を仮定して描いたコマです。もう1つの登場人物の視点からのコマは、先ほどまで代表的な例をいくつも挙げました。しかし、その2種類の中間として、形式上は神の視点だが実質は登場人物の視点というコマがあります。要するに、登場人物が自分を外から見ているコマです。
 例えばナツは、自分の姿を想像できます。リボンを付けた自分(p.87)やリボンを誉められる自分(p.142)のコマがそうですし、過去の回想も昔の自分の姿を想像していると言えます。つまり、外から見た自分の姿をイメージできるというわけです。ということは、現実に起こっていることを描いたコマでも、ナツが今の自分の状況を外から想像した絵であるということがあり得ます。その根拠としては、ナツの精神を反映して自身の姿が変形する描写があります。お金を受け取る時(p.121‐123)やリボンを捨ててしまった後(p.149‐150)に、ナツが黒くなって歪んでいくのが分かりやすい例です。これは神の視点からのコマではなく、自己イメージが歪んでいくのをナツが見ているのです。
 だとすれば、他の日常的なナツ自身が描かれているコマも、ナツが自分を含めた情景を外側から想像して見ている絵かもしれません。例えば、p.96‐97の見開きはナツが自身を含む風景を外部から想像したものであることは、第2章の9節で見た通りです。あるいは、ツッコミを入れる時のナツも自分を外から見ていると思います。「ブブ──ッ なんで全部同じ答えなの!?  ちーちゃんは心臓が3つあるって化け物かなにか?  っていうか心臓答えにないし!」(p.19)や「死んでなお殺される幽霊が不憫だな──」(p.120)のような場面では、自分の言葉がどう聞こえるかをよく想像して文章を整えており、同時にツッコミ役という自分のその場での立場を意識しています。これらのコマは、『千恵にツッコミを入れている自分』をナツが外から見ている絵なのです。以上のように、ナツ視点であればナツ自身を外から見た描写ができます。それは当然、ナツの客観習慣の強さによるものです。
 ということは、客観習慣の不足している千恵の視点では、自分自身を外から見る描写はできないということです。また、千恵視点のコマに視界が狭いアップが多いのも、習慣的に主観が優勢であるために、注意を引かれた対象にどんどん集中してしまい、周囲を広く客観的に見ることができないと考えられます。さらに、千恵は客観習慣の不足のため言語能力が低いという点と、それゆえにナツのように整理された心内語表現はできないだろうことも、第1章の7節と第2章の9節で触れました。他者との会話によって整理されなければ千恵の言葉は人に伝わる形にならないということです。以上のことから、千恵が誰からも見られずに一人でいる場面がもし描かれるとしたら、完全に神視点の遠景のコマと千恵視点で見ている物がアップになっているコマを行き来し、心内語は書かれないかごく断片的で、何を考えているのか伝わらないということになります。
 これでは、状況も心境も十分に描写するのは難しいでしょう。千恵には誰かといる場面しかないのも頷けます。つまるところ、千恵は客観習慣の不足のために、誰かの目を通してしか描かれないのであり、千恵の成長物語は他者の視点で語られるということです。言い換えれば、千恵に関わる人物みんなが千恵の物語における視点キャラなのです。
 では、千恵の物語を見る視点を提供する役割に最も適格な登場人物は誰でしょうか。ナツです。客観習慣が強いナツは、千恵と自分がいる状況を外から見る視点を持てますし、会話で語られなかった部分を心内語で補足でき、主観に沿って主体的に動く千恵に受動的に反応する役にぴったりはまります。実際、千恵の行動を見る役目は、志恵や旭たちが担っているシーンもありますが、ナツが最も長く果たしています。千恵の成長物語においては、みんなが主人公を見る視点キャラを務めますが、その中でも最も重要な視点役がナツだということです。

 それでは、ナツの私小説の側から見れば、千恵はどんな役割を果たしているのでしょうか。
 私小説は、現実に起きる出来事よりも語り手の内面に起きる心境に重点を置いて描かれます。本作中のナツの心は、旭、奥島と如月、藤岡と宮沢たち、志恵、母親、あるいはリボンやさるぼぼなど、様々な人や物に触れて揺れ動きます。しかし、やはりナツの内面に最も大きな影響を与える存在は千恵です。千恵がお金を渡したことはナツの心を最も大きく揺らして影響が残り続けますし、最終第8話のナツの思考の氾濫も、千恵の失踪をきっかけに始まり千恵の帰還で鎮まります。ナツが繰り返し『私たち』と思考に上らせるのも、いつも千恵と自分のことを考えている証でしょう。
 外的な物事に応じて語り手の内面で起きる現象を描く私小説において、千恵の存在は最も重要な刺激であるということです。現実の状況の変化を伴う動的な物語の主人公である千恵ですから、最も強く心を揺さぶる刺激をもたらすのは当然のことだと言えるでしょう。

 以上を総合すると、千恵が主人公の成長物語にとっては自身を見て語る存在としてナツが最重要であり、ナツが語り手の私小説にとっては自身が見て心動かされる対象として千恵が最重要だということになります。これはつまり、千恵とナツの両方が登場する全てのシーンは、ナツの視点から見た千恵の物語であると同時に千恵について思うナツの私小説でもあるということです。
 このように、物語と私小説という本作の両面は、見る/見られるという関係で不可分に接着され、お互いの存在がお互いが成立するために欠かせないものとなっているのです。


《まとめ4》 千恵が主人公の物語は他者から見られることで成立するため、視点を提供する者としてのナツが必要である。ナツが語り手の私小説では、見ることで心境が動く対象として千恵が重要である。このような形で千恵の物語とナツの私小説は表裏一体に結び付き、お互いを必要としている。




5節. ナっちゃんの内面表現

 千恵の物語とナツの私小説が一体になっているとはいえ、千恵の物語も多くの部分がナツの目を通して描かれているということは、本作の大部分がナツの視点で語られているということになります。この節と次の節では、作品内の多くを占める『ナツから見た世界』についてより掘り下げてみようと思います。
 まずこの節では、ナツの心理が表現されている色々な描写を見ていきます。これによって、ナツの内面が作中でどれだけのウェイトを持っているのか分かるはずです。

 まず、最も分かりやすいのが心内語です。1節で触れましたが、ナツ以外の心内語表現は、志恵が3シーンで合計吹き出し9つ分だけです。それに対し、ナツは第3話を除く全ての話に心内語があり、吹き出しの数にして200を超えます。それだけ多くナツの心中は言語で表されているのです。
 また、吹き出しに入らないモノローグもいくつかあります。それらは、ナツの心中の言葉が吹き出しの中だけに留まらず、ナツの主観的な世界全体を支配するほど溢れ出ていることを表します。具体的には、「ちょっとくらい  ちょっとくらい  恵まれたっていいでしょ私たち」(p.140)や「こんなんだからちーちゃんもいなくなるんだろうなあ」(p.213)、および「なんで なんで」「私なんかに そんな顔して かけよってくれるの」(p.215)が該当します。いずれも、ナツの感情が特に高まった言葉であるのが分かります。
 その他に内面の言語が外界の描写と関係している表現として、ナツの視界に心内語の吹き出しがあるコマがあります。この表現には2種類あり、1つ目は「あっ  ちゃんと恥ずかしいんだ」(p.23)のように、コマの外側から吹き出しの足が出ているものです。これは、そのコマの情景をナツが目で見ながら頭で思考しているという一般的な表現です。
 もう1つが、視界に映る物や風景から吹き出しが出ている表現です。*6 例えば、掛け時計から「やっと放課後だ」(p.154)という吹き出しが出ているコマでは、時計という対象を見たことによってこの思考が引き出されたことが強調されています。この表現が出てくるのはナツの内面表現が深まっていく第6話以降で、初めて使われるのは「貧乏は罰なの?」(p.129)の吹き出しがさるぼぼから出ているコマです。そこから続く「わがままなのはわかってるけど 別にたった400円のお願いくらい 叶えてくれたっていいじゃない」以下(p.131)のコマも含め、時計の例と同じく、さるぼぼを見たことで、思考と記憶が否応なく引き出されたという表現です。その後の1000円札から出る「2人だけの秘密だよ」(p.132)も、お金を見たことで思わず昨日の自分の言葉が思い出されてしまったシーンですね。
 これらは個別の物を見て浮かんだ思考がその物からの吹き出しで表されていますが、他にナツが見ている漠然とした風景から吹き出しが出ているコマもあります。それが、p.210の2コマ目からp.211の4コマ目までですね。内面に溢れる自己否定の言葉が、ナツの見ている景色に重なって表されます。これらは、見た物に思考が誘発されたわけではありません。むしろ、目に映る風景よりも自分の物思いが大きすぎて、現実味がなくなっている感覚を表しているものだと思います。思考が肥大しすぎて、思考している今の自分を意識することすらできなくなっているのです。
 いずれの場合にしろ、ナツが見ている情景から吹き出しが出ている表現は、思考している自分への認識が薄く、見ている自分と見られている客体との境界が曖昧になっている状態を表していると言えます。

 言語以外のナツの内面の表現としては、心に浮かんだイメージを描いたコマがあります。すでに2度言及しましたが、リボンを付けた自分のイメージ(p.87)とリボンを誉められる自分のイメージ(p.142)が代表的です。これらはいかにも『想像してみた』感じで、現実感の低いタッチで描かれています。他にも、千恵にお金を差し出された時の、欲しい物が降り注ぐ海辺で笑う『満たされた私たち』のコマ(p.123)は、ナツのイメージです。前2つの意図的に思い浮かべた想像と違い、反射的に強く思い浮かんだイメージだったためか、現実のコマに近いリアリティがあるタッチです。また、「ずっとそっちに行きたかったんだね 旭ちゃん」(p.203)のコマもナツのイメージです。おそらく、以前に背を向けたまま「悪い  今日は1人で帰らさせてくれ」(p.118)と言った旭を思い出していたのでしょうが、その場にいない旭の姿を思い浮かべています。視覚的イメージと心内語の双方が合わさって、ナツの内面を表しているコマだと言えるでしょう。
 さらに、前節でも触れた通り、回想シーンもまたナツの心に浮かんだイメージだと言えます。p.85の4コマ目とp.94‐95では、小学1年生のクラスで千恵と初めて会話した日を思い返しています。また、p.129‐131では、小学3年生の時の家族旅行を思い出します。この2つの回想を比べると、前者は背景の描線が曖昧でナツと千恵以外のクラスメイトが黒塗りなのに対して、後者は背景が詳細でしっかりしており、周りの子供たちもちゃんと描かれています。ナツが「小学1年生のときに初めて同じクラスで喋ったんだっけ」「話しかけてくれたことがすごくうれしかったんだったかな」(p.95)と考える通り、前者の方が記憶が曖昧なのが分かります。後者の方が2年分成長しており最近であることはもちろん影響しているでしょうし、もしかしたら、手に入った『ふしぎの国のアリス』よりも、手に入らなかった光るおみくじの方がナツにとっては印象に残ったのかもしれません。
 この2つの回想に関しては逆に言えば、5年前の小学3年時のこともかなり詳細に思い出せるということです。他のイメージ描写と合わせると、実際に見た情景や強いイメージは高いリアリティをもって想像できるということが言えます。これは、前節の『ナツが描かれている日常的なコマの中にも、現在の自分を外から想像で見たナツ視点の絵がある』という論点を補強するものでもあります。

 ここまでは、原則的にナツの心中のことを心中のものとして表している描写です。内面の描写は一応は外界と峻別されています。しかし、前述したように、ナツの心理は世界の描写にまで影響を及ぼします。
 その一つとして、ナツのイメージが現実の情景に重なる表現があります。千恵を探し歩くナツがいる風景に、ナツの記憶の中の2人が現れる一連のシーン(p.197‐199)ですね。これまで見た場面ではコマで分かたれていた、現実の情景とナツの内面のイメージが重なって存在します。
 その他にナツの内面が外界の描写に侵食する場面と言えば、歪んでいく視界の表現です。藤岡たちと遊んでいる旭を見た後、p.202の小さく挿入された5コマ目でタイル目が歪んでいくことで、視界が揺らぐほどの動揺が表されます。さらに自己否定が深まるにつれて、p.203の1,2コマ目へと、どんどん視界が歪んでいきます。あるいは、歪む視界とナツ自身が共存するコマもあります。「何か足りないものはないの?」以下(p.146)のコマです。これは、歪んだ世界の中にいる自分という自己認識が反映されている場面です。
 心理面の異変がナツ自身に反映される描写もいくつもあります。多いのはナツが黒く塗り潰される表現でしょう。*7藤岡がお金を探していると聞き動揺する場面(p.147‐148)や、渦巻く自己否定に溺れる時(p.210‐212)など、ナツの感情が暗く沈んでいくのを表しています。また、強い動揺の表現として、千恵の差し出すお金を見る場面(p.122‐123)のように真っ黒になった上で歪んでいく場面もあります。自己認知の歪みが表れています。さらに、自身が黒く歪む上に背景も歪んだり描線がガタガタになったりするシーンもあります。p.121の6コマ目「ち」や、保健室のベッドで絶望に苛まれるシーン(p.150)、あるいは思考が自殺の想像まで行き着くシーン(p.178‐179)もそうです。自己と世界の両方に対して認知が歪んでいくわけです。その極致が「ちーちゃんが旭ちゃんに言ったんだ  絶対そうだ」のコマ(p.177)で、全ての形が崩れています。お金のことがバレたという極度の恐怖で世界と自身が崩壊しているのです。

 以上のように、ナツの心理表現が大量にあるだけでなく、ナツの内面に結び付いた形で世界が描写されている場面が多いこともお分かりいただけたと思います。これこそ、本作の片面がナツの主観的な内面を描き出す私小説であることの証左だと言えます。
 同時に、客観習慣の過剰ゆえに普段から自分の言動と思考を対象化して認識しているナツだからこそ、主客の曖昧化や自己認知の歪みを心理の変動として描くことができるとも言えるでしょう。ここにも、前節で述べた『自身の中では主観が優勢なために他者が見る客観視点で物語が語られる千恵』と、『自身の中では客観が優勢なために自分の主観視点を中心に私小説を語るナツ』という対比関係が成立しています。


《まとめ5》 ナツの心中は言語やイメージでとても頻繁に語られているのみならず、ナツの内面が外界の描写にも影響を及ぼしている。本作のそれほど多くの部分がナツの主観的な視点で描かれており、ナツはやはり私小説の語り手と呼ぶに相応しい。



6節. ナっちゃんの世界

 さて、本作の多くの部分がナツの視点に沿って描かれていることを再確認しましたが、それでは、ナツの目から作中の世界はどのように把握されているのでしょうか。言い換えれば、本作の半面であるナツの私小説は、どのような舞台の上で展開されているのでしょうか。この節ではそれを見ていきます。

 それぞれの登場人物がナツにとってどんな意味を持っているか見てみましょう。
 ナツにとっての千恵は、第2章の5節で書いたように、自分と同じく足りていないと思っている相手です。同時に、いつも一緒にいた友達で、最後まで側にいて肯定してくれる相手でもあります。どちらの観点でも、『私たち』として自分と同一化して安心を得る存在だと言えます。
 次に、ナツにとっての旭はどんな存在でしょう。
 ナツから見た旭は全てを持っています。満ち足りている人間の代表だと言えます。それゆえに、近くにいることも相俟って、ナツは旭に強い羨望を抱いています。同時に、「やっぱりすごいねー  旭ちゃんは」(p.117)に表れているように、そんな旭と同じグループにいることがナツにとっての自己肯定感に繋がっています。休日に電話が掛かってきた時に「! もしかして旭ちゃんかな!?」(p.190)と飛び起きた時のナツの明るい顔が、いかに旭に執着しているかを物語っています。ナツは漠然と『みんなに評価されたい』と思っていますが、その『みんな』の代表が旭だと言えます。ナツは千恵に対してはリボンを見せびらかして「私をみて」(p.137)と言えますが、旭には「旭ちゃんもリボン  何も言ってくれないな」(p.144)と思っても自分から言えません。旭に対しては冗談めかせず本気の言葉になってしまうのが分かっているからでしょう。
 それほどに羨望と執着を持っているからこそ、旭が自分から離れて行ったと思った時にはそれらが反転して、「本当  旭ちゃんは卑怯だよ」(p.203)という嫉妬と、「本当は私みたいなつまらない人間なんかと一緒にいたくなかったんだよね  旭ちゃん」(p.202)という自分が否定された感覚になるのです。いずれにしろ、ナツにとっての旭は、最も足りている存在であるがゆえに、強い感情を向ける対象だということになります。
 このような複雑な旭への感情がよく表れているのが、p.83の会話です。ナツの誘いを「先約があるんだわ  すまん」と断った旭に、「なんか最近  旭ちゃん遊んでくれないね  先週の日曜日もゴールデンウィークも··· なんかあったの?」と尋ねます。ここには当然、旭に相手をしてほしいという執着が含まれています。しかしそれだけではなく、恋人ができたから付き合いが悪くなったのかと聞きたい気持ちが『なんかあったの?』には入っています。そのことは、旭が「ああ  家族旅行でグアム行ってきたんだよ」とナツの意図とは違う答えを返した後に、水沢からもらったであろう旭のリボンがアップになるコマがあることで示唆されています。ナツは以前に旭が3年生の水沢といるところを見かけましたが、声を掛けることはしませんでした(p.41)。その翌日も、そのことについて旭に聞こうと思うも結局は黙ったままでした(p.45の3コマ目)。しかし、ずっと気になっていて、機会を捕らえてそれとなく尋ねたわけです。この態度には、自分には恋人がいないのに旭にはいるという隔絶感がまずあります。同時に、自分には男子と付き合っていることを話してくれないのかという嫉妬のような感情と、旭から話さないなら自分から聞いて気まずくなったり嫌われたりしたくないという、空回りする気遣いと執着があります。海外旅行に行っていたという返答からまた別の劣等感を膨らませることも含めて、ナツから旭への色々なものが入り交じった情緒が滲み出るようなシーンだと思います。旭と水沢の交際に関連してこのような錯綜した感情を抱いていたからこそ、旭から水沢といたところを見ていただろうと言われたナツは、反射的に「えっ! 知らないよ!  そんなの!」(p.118)と無意味な嘘をついてしまったのでしょう。
 それでは、奥島と如月に対するナツの感情はどうでしょう。ナツにとってはこの2人も間違いなく足りている側です。旭に「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)と言われるように、高く評価しています。しかし、旭と千恵にこの2人が加わって昼食を食べている時は「変なメンツ」(p.145)と考えているように、旭に対するほど仲良くなりたいと思っているわけではないようです。
 次は藤岡について考えてみましょう。ナツは藤岡に対して、第2章の6節で触れたように、恐怖心を抱く一方で羨望も感じています。恐怖心は、もともと藤岡たちに持っていた印象が、藤岡がお金を盗んだ犯人を捜していることで増大したものです。「ばれたら学校にこれなくされちゃうのかな」(p.150)というレベルまで恐怖は肥大し、反動で攻撃性にまで変換されました。一方の羨望は「どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金であんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ」(同)と、変わらず藤岡への認知は歪んでいますが、『うらやましい』という言葉の選択自体は本音でしょう。ナツからは藤岡が、自分の足りなさを手段を選ばずに満たす強い力を持った人間に見えているはずです。
 さて、宮沢と野村はどうでしょう。ナツは彼女たちを積極的に認識していません。ナツの思考が彼女たちに及ぶのは、グッズショップで会った時(p.86の2コマ目)と、旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た後(p.202の3コマ目)に、「藤岡さんたち」と総称するだけです。お金を受け取ったのがバレる恐怖が増大するに従って藤岡に忌避感と敵意が集中していった節があり、宮沢と野村はおそらくナツには『藤岡の取り巻き』くらいにしか意識されていないと思います。しかし、「藤岡さんたちだ  同じクラスだけどちょっと怖くて苦手だな──」(p.86)とグループに対して考えているので、藤岡へのものと同方向の恐怖と敵意と羨望を覚えていると考えていいでしょう。

 ここまでが、クラス内の登場人物に対するナツからの見え方です。人物が3つのカテゴリーに分けられることが分かると思います。1つ目が旭・奥島・如月という、ナツから見て全てを持っている、いわば『優等生』組。2つ目が、足りなさを自ら満たす力を持っている、藤岡・宮沢・野村の『不良』組。実際は不良でもそんな力があるわけでもないのですが、あくまでナツにはそう見えています。3つ目は『私たち』ことナツと千恵、p.135のナツの言葉を借りれば『下部組』です。
 ここで面白いのが、ナツが強い感情を向けているのは各カテゴリーの中のそれぞれ一人だけだと言うことです。優等生組の中では旭に強い羨望と執着を抱いていて、不良組の中では藤岡に恐怖心と敵意、羨望が集中しており、『私たち』の中ではもちろん千恵に同一視が向いています。さらに、奥島と如月に向ける感情は旭に向けるのと同じ方向性のものであり、宮沢と野村への感情は藤岡への感情の弱まったものです。ということは、ナツの心の動きを描く私小説は、語り手のナツと同胞の千恵、その外部に旭と藤岡という4人がいれば、最低限成り立つということです。
 しかしここで重要なのが、旭と藤岡の両方に対してナツは羨望の気持ちを持っていることです。羨望が変化した劣等感は、ナツの内面が語られる上で中核となる情動です。これを描こうにも、もし登場人物が4人だけだったら、『私たちが普通で、旭ちゃんは運良く全てを持っていて、藤岡さんはたまたま強い』となってしまい、劣等感が育ちません。そこで、旭と藤岡それぞれと同じ属性の登場人物を2人ずつ出してカテゴリーを作れば、『私たち』は『優等生』と比べても『不良』と比べても2:3で少数になり、『みんなは満ち足りていたり満たす力を持っているのに、私たちだけが足りないし強くもない』という形で劣等感を醸成できるのです。奥島と如月、宮沢と野村は、千恵の物語においてはストーリーを進めるための役割がありますが、ナツの私小説の中では、多数決でナツを負かすための最低限の人員として作者に用意されたキャラクターだと言えるのです。*8

 さて、ナツの内面でのクラスの構図が見えたところで、学校の外の人物についてもナツからの見え方を考えてみましょう。
 志恵はナツにとってどう見えているでしょうか。この2人はかなり親しいです。同じ団地住まいで幼馴染みと言っていい間柄であり、接点も多くお互い気を遣わずに喋れます。しかし、志恵からの電話を受けたナツは「なんだ 志恵ちゃんか」(p.190)と素っ気ないです。ただ、この時は旭からの遊びの誘いを期待したので仕方ないとも言えます。
 ところが、ナツが他の人物にはしているのに志恵にはしないことがあります。それは自分との比較です。何度も述べたように、ナツは自分と他者の境遇や能力を比べてしまう習慣が付いています。でも志恵と自分を比較して考える描写はありません。志恵はアルバイトして自分の使えるお金を得ており、スマートフォンも持っているのにです。高校生の志恵と自分は前提となる状況が違うという考えはあるのでしょうが、いずれにしろナツは、物理的な距離が近い割りに志恵に興味と注意を向けていないと言えます。
 もう1人学校の外の人物として、ナツにとっての母親を考えてみようと思います。第5話冒頭では母親に駄々をこねるもお小遣いを前借りできず、「お母さんなんて大っきらい!」(p.102)とまで言っています。しかし、翌々日の朝に学校を休む時(p.128)には普通に会話しており、さほど険悪な雰囲気を引きずっているようには見えません。ところが、その翌日にお金を受け取ったことがバレたと思ったナツは「みんな私を嫌いでしょ  後悔すればいいんだ  ちーちゃんもお母さんもクラスメイトも」(p.179)と、約束を破ったと思い込んでいる千恵と並べて母を呪います。おそらく『お母さんがお金をくれていればこんなことにはならなかったのに』という理屈が働いているのだと思いますが、学校での出来事によって二次的に母親への感情が左右されています。
 もう一つ言えば、ナツの母は作中で姿が描かれず、セリフと手紙の書き文字以外で登場しません。『ティーンエイジャーたちの間での出来事と感情を描いた作品だから大人は意図的に描写されていない』という考え方もありますが、それにしては、アパレルショップの店員(p.66‐)も、明らかに私小説側に寄ったシーンであるナツが教室に入る時(p.142‐143)の理科の先生も、しっかりデザインされたキャラクターとして登場しています。これはまたメタ的な読み方になりますが、ナツが語り手の私小説において母親の顔や姿が登場しないという事実から、ナツは自分の母を関心や感情を向ける相手として重視していないと考えるのは自然だと思います。

 このように、ナツの内面での志恵と母親の比重の小ささを考えると、ナツの感情は学校の自分のクラス内に優先して向いているのではないかと考えられます。
 実際に、作中でのナツの行動は、学外においても全てクラスメイトと関係しています。例えば、第3話でジョスコに行ったナツは一人で買い物か何かをしていたはずですが、千恵と出会うまでの行動は描かれません。グッズショップにも千恵と行き、藤岡たちと出会います。第8話は一人で行動しますが、千恵を探すのが目的であり、途中で旭と藤岡たちを見かけて心を乱されます。家にいる時も、学校での事件に引き出された思考を繰り返しています。「もう学校には誰もいないな  みんな大嫌い あーあ 学校行きたくないな 誰とも遊べない日曜は退屈で仕方ないけど  それでも月曜日なんて永遠にこなければいいのに」(p.190)と、日曜に自室で一人横たわりながら考えているのが象徴的です。
 このように、ナツの世界は決定的に、2年6組のクラスの枠の中に存在しています。これは、海外へ旅行に行ったり他学年に恋人ができたりしている旭や、部活で活躍しながらも家族を支えることを自分で選択した藤岡、あるいは自分の好きなもののために一人で遠出した千恵と対比的です。ここに来てやっと、第2章3節で指摘した、母親と志恵に対してナツの客観性が機能していない場面がなぜ起きたか説明できます。ナツにとって重要な社会は自分のクラスの中であり、その外にいる人間に対しては思考と感情のリソースを積極的に割かないため、客観的に内面を想像する習慣が働きにくくなるのです。もちろん客観習慣の過剰はナツ自身の性質なので、「お母さん  こんな一人娘でごめんね」(p.208)、「志恵ちゃんが私のことをいい人って言ってくれたんだ でも違うんだ」(p.209)に表れているように、学校の外の人物に関心を向けることはあります。*9 しかし、自分と比較して羨望や劣等感を持ったり、評価されて肯定されたいと執着したりするのは、クラスの枠の中にいる相手だけです。少なくとも作中においては、ナツの思考と感情はクラスの人間関係の範囲内をぐるぐると動き回るのです。*10

 ここまでを総合すると、『私たち』よりも満ち足りているか力を持っている人間しかいない教室の中だけが、ナツにとって重要な世界だということになります。つまり、ナツは初めから『私たち』以外に漠然と羨望を向けているのです。
 作中では羨望が生んだ劣等感や自己否定が増大していき、最後には千恵との関係に閉じ籠ることになりますが、ナツの世界の構造自体は最後まで変わることがありません。ナツの内面を描く私小説は、ナツの中にある2年6組の教室の中で変形しながら蠢き続けますが、教室の壁を突き破って外に飛び出すことはないのです。ナツが語り手の私小説は、世界の構造を広げることも変えることも壊すこともなく、主人公として自分と世界に変化をもたらした千恵の成長物語と大きな対比を形作っています。


《まとめ6》 ナツは、旭たちを満ち足りている存在と見なし、藤岡たちを足りなさを満たす力を持った存在と見なしており、いずれも千恵を含めた『私たち』より恵まれていると考えている。そして、クラスの内側の人間関係だけを重視している。そのようなナツにとっての世界の構造は最後まで変化せず、ナツの心境を描く私小説はその狭い内面世界の中で展開されている。

図:ナツの認識する世界
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おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 自分なりにこの作品の構造を説明してみました。
 最後の2つの節でナツの私小説の構造説明をしたのは、ここ以外でこの内容を入れるところがないと思ったからです。逆に、千恵の成長物語のより詳しい構造は、次章以降で他の登場人物の足りなさを説明する中で徐々に明らかになるでしょう。それこそが、『主人公は誰か』という話をこの章で先にした理由でもあります。
 
 ここから先は、第4章で志恵と藤岡の、第5章で旭の足りなさについて考えていきます。
 次回、志恵と藤岡の第4章はこちらになります。またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【タイトルロール】
 物語のタイトルに名前や呼び名が含まれる登場人物のこと。『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』『ゴルゴ13』『スーパーマン』『ハリー・ポッターと賢者の石』『ロミオとジュリエット』など、タイトルロール=主人公であることが圧倒的に多いですが、金田が主人公の『AKIRA』、則巻アラレが主人公の『Dr.スランプ』、実質的にバカボンのパパが主人公の『天才バカボン』など、タイトルロールだからと言って必ずしも主人公だとは限りません。

*2:【裏タイトルロール】
 例えば、『青野くんに触りたいから死にたい』(椎名うみ)では、タイトルロールは『青野くん』ですが、『青野くんに触りたいから死にたい』と考えているのは主人公の刈谷優里です。優里の名前はタイトルに含まれていませんが、タイトルの内容は優里を指すものであり、裏タイトルロールだと言えます。同じように、『女子高生に殺されたい』(古屋兎丸)の主人公・東山春人も裏タイトルロールだと言えるでしょう。その意味では、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(谷川ニコ)の主人公・黒木智子や、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(伏見つかさ)の主人公・高坂京介なども裏タイトルロールですが、タイトル中の『私』『俺』がそれぞれそう考えている主人公を指しているため、まず通常のタイトルロールの範疇であると言えます。

*3:シャーロック・ホームズ
 イギリスの小説家コナン・ドイル(1859–1930)の手による、おそらくは世界一有名な古典的推理小説。主人公の探偵ホームズの謎解きに読者と一緒に驚いてくれる視点役として、ジョン・ワトソン医師が語り手を務めます。ここから、推理ものの物語において、探偵役の推理の過程を読者に近い目線で見る登場人物を指す『ワトソン役』という用語が生まれました。

*4:私小説
 作者・阿部共実さんの極めて私小説的な作品として、本作完結の半年後に季刊漫画誌『もっと!』(秋田書店)に掲載された短編「どうせ幽霊は僕だけを殺してくれない」(単行本未収録)があります。おそらくは過去の作者だろうと思わせる漫画家志望者が自己否定を繰り返しながら壊れていくという内容です。ナツが繰り返すものと部分的に重なっている、足りない自分への否定と持っている他者への羨望が連ねられています。主人公の感情に合わせて身体描写が歪んでいっており、作者の思ったことをそのままアウトプットしたエッセイというよりは、語り手の内面を表現することを重視した私小説に近いと思います。ただ、作者は自分の経歴や私生活をほとんど明かしていないので、どこまで事実に準拠して描かれているかは想像するしかありません。

*5:土佐日記
 平安時代の貴族・歌人である紀貫之によって、10世紀に成立した日記形式の文学作品。作者の貫之が土佐から京へ帰る道中を描いています。貫之は男性なのに語り手を女性と設定して書いていることをはじめ、現実の出来事に脚色や虚構が入り交じる内容です。加えて、語り手の心情を表現することに重きを置いており、後の世で言う私小説の概念に当てはまる部分が大きいと言えます。

*6:【物や風景から吹き出し
 この表現は、作者・阿部共実さんの特徴的な手法です。次作『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々(死に日々)』(秋田書店)の2巻に収録されている第18話「8304」と第20話「7759」ではこの表現がさらに研ぎ澄まされ、両作において入り交じっている登場人物の内面世界と外界の風景を繋げる役割を果たします。

*7:【黒く塗り潰される】
 登場人物が真っ黒の影のようになるのは、作者の多用する表現です。前作『空が灰色だから(空灰)』でも、ネガティブな感情や極度の動揺、あるいは登場人物の思考や状況が読者の理解を絶していることを表す手段として、何度も用いられました。それに対して、キャラクターの輪郭が大きく歪んだり描線がぶれたりする手法は、『空灰』などではあまり使われておらず、本作に特徴的な表現だと思います。

*8:【多数決】
 このような、限定範囲のために少人数の動向によって決まってしまう『多数決』は、作者の前作『空が灰色だから』の3巻第29話「少女の異常な普通」でテーマとして取り上げられています。また、(2019年時点での)最新作『潮が舞い子が舞い』(秋田書店)の第1話「潮が舞い込む海のそばの田舎町」においても似た考え方が使われており、作者が繰り返し描いているモチーフの1つだと言えるでしょう。

*9:【学校の外】
 第2章9節で触れた、町の風景を眺めたことで救いを得た場面も、ナツが学校の外の世界に目を向けた事例だと言えます。ただし、その救いでは足りなさへの不満を抑え続けられなかったことも、そこで述べた通りです。

*10:【クラスの人間関係】
 ただ、地元の公立校に通う中学生の世界が自分のクラスの中だけに留まることは、決して珍しいことではないし必ずしも悪いことでもないと個人的には思います。現代の日本の義務教育は、基本的に所属クラスの範囲だけで学生生活が完結できるようにデザインされています。とはいえ、ナツのように他者からの視線を特に気にしてしまう子は、複数の場所に自分の世界を広げた方が楽になれるとは思います。しかし、塾やその他の習い事に通うのは、小林家の経済状況を考えれば難しいです。また、ナツは描写されている限り、取り立てて得意なことや大好きなものがあるわけではないので、部活動に所属することも躊躇しそうです。何より、第2章8節で述べた通り、客観習慣の過剰は対人関係の消極性にも繋がっています。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第2章.ナっちゃんは何が足りないか

目次



はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ、前回の第1章では南山千恵について考え、千恵の最大の足りなさは『客観習慣の不足』だと結論しました。

 この第2章では、小林ナツについて考えてみようと思います。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、上の第1章の『はじめに』をお読みください。

 今章の構成としては、1~3節で一応の結論が出ます。4~8節では例示と補足をしていき、9節で前回の第1章とこの第2章を合わせた結論が出る形になります。
 ではいってみましょう。



0節. ナっちゃんは何が足りない?

 小林ナツは、前章で取り上げた南山千恵と並んで本作の中心人物です。今章では彼女について掘り下げますが、やはり前章と同じように、ナツの足りなさを考えてみようと思います。
 ナツもまた、足りないものが色々あります。その中でも、ナツの最大の足りなさ、つまり一番の問題点とは何でしょうか。



1節. 足りない行動は?

 やはり前章と同じように、ナツの足りない行動から彼女の足りなさを探ることにします。ナツの最も足りていない、逸脱した行動はなんでしょうか。
 まず思い浮かぶのは、盗んだものだと想像できているのに千恵からお金を受け取ったことです。この選択を端緒にナツは追い詰められていきます。この行動も当然、ナツの最大の足りなさと大きく関わっています。しかし、ここではもう一つの足りない行動を取り上げたいと思います。
 それは、リボンを捨ててしまったことです。
 
 第4話で、ナツはグッズショップで売られていたブランドものの5000円のリボン(p.86)に出会い、欲しくなります。しかし、所持金が足りずにその場では買えませんでした。この出来事は、ナツの発言(p.90)から、5月中のことです。
 それから後日の夜に、ナツは母に翌々月分までのお小遣いの前借りを頼みます(p.101)。ここでは完全に駄々をこねており、「お母さんなんて大っきらい!」(p.102)とまで言っています。その次の登校シーンで旭が「どうしたナツ  目が赤いぞ」(p.103)と尋ね、ナツは「ちょっとね」(同)と返しています。これを、前夜に母親と喧嘩して泣いたためだと捉えるならば、ナツのお金の無心を千恵が聞いたのは盗難事件の前の晩だということになります。ナツが学校を休んだのがp.128の時計の表示から6月13日だと分かっており、盗難事件はその前日、お金の無心はさらにその前日なので、6月11日です。
 つまり、リボンを買いたいと思った5月のある日からお金をねだるまで、少なくとも11日の時間が経っています。
 ナツはリボンを見かけた時点で「来月と来々月のおこづかい 前借りできないかな」(p.87)と考えているので、もしかしたらその日の夜あたりに一度母親に頼み、翌月分までの前借りはできたのかもしれません。そこで一旦翌々月分は諦めたものの、時間が経ってやっぱり諦めきれなくなったということになります。あるいは、「売り切れちゃうかもしれないの!」(p.102)と言っているので、店にあったリボンが買われていって売り切れを危惧する状況だったのかもしれません。その場合、お目当てのリボンがまだあることを確認するために、買うお金がないのに店に通っていたことになります。
 いずれにしろ、ナツがリボンに相当強い執着を抱いていたのは間違いありません。10日以上ずっと欲しいと思い続け、時間が経っても諦められずに欲求が爆発し、母親に何度も頼み込んだ末に罵倒までしています。
 
 また、ナツが実際にリボンを手に入れた経緯も並みのことではありません。
 バスケ部の3000円がなくなったことを知った直後に、ナツは千恵から3000円を「あげる!」(p.121)と差し出されました。ナツは、千恵がこの前まで所持金一桁台で困窮していたのも知っています。どう考えても、千恵がバスケ部のお金を盗んだことを疑わざるを得ない状況です。現にナツは、千恵からお金が盗んだものだったと聞く(p.219)より前に、「ちーちゃんが私のためにお金とってきてくれたのに」(p.149)と、盗んだことをほぼ確実視しています。
 それなのにナツは、出所を深く追及することもなく、お金を受け取ってしまいます。普通なら絶対にありえない行動です。なぜそうしてしまったのかと言えば、欲しかったリボンが頭をよぎったからでしょう。リボンを買うために不足している1000円だけを受け取ったことからも、それは明らかです。
 この選択が倫理に反していることを、ナツは痛いほど理解しています。だから翌日は仮病で学校を休み、千恵と宮沢たちのいる教室から逃避します。それでも、「貧乏は罪なの?」(p.127)と自分の金銭的な足りなさについて考えることをやめられず、「私だってたまには好きなものくらい買ってもいいでしょう?」(p.132)と行いを正当化しようとします。
 また、ナツは「昨日の感じだとこの1000円バレないよね」(p.133)とも考えています。盗んだお金を受け取ったことを人から糾弾されるかもしれないという不安も、薄くではありますがナツの心に張り付いています。
 これほどまでに、千恵からお金を受け取ったことは、ナツの心に重くのし掛かっています。それでも、ナツはお金を千恵に返そうとは考えず、もらったお金を使ってリボンを買いました。

 以上のように、ナツはリボンにとても強く執着していました。そして、大きな精神的負担と引き換えにしてまで、やっとのことでリボンを手に入れました。
 にもかかわらず、それほど大切だったはずのリボンを、あっさりとゴミ箱に捨ててしまいました(p.149)。これは明らかに普通ではありません。何か大事なものが欠けている行動です。


《まとめ1》 ナツは、リボンに強く執着していたはずなのに、あっさり捨ててしまった。これはナツの『足りない』行動である。



2節. リボンを捨てたのはなぜ?

 では、なぜナツはリボンを捨ててしまったのでしょうか。
 その直接的な理由は分かりやすいです。
 リボンを捨ててしまったナツは、「結局  誰からもリボンに触れられなかった」(p.149)と思っています。その前に教室に入る時も、リボンを付けていることで注目され誉められ好意を抱かれる自分を想像していました(p.142)が、実際は誰もリボンに興味を示さなかったことで、顔を曇らせ「そんなわけないよね  わかってたよ」(p.143)と考えていました。その後に旭と会話しても、「旭ちゃんも  リボン  何も言ってくれないな」(p.144)と気にしています。
 つまりナツは、リボンを付けることで周りから誉められることを期待していたのです。しかし、リボンを付けても周りの自分を見る目は変わらなかったために大きな失望を味わいました。そして、落胆のあまりリボンを捨ててしまったのです。

 しかし、あんなに欲しがっていた物なのに、他人から誉められなかっただけで完全に興味を失ってしまうものでしょうか。それを考えるには、ナツがリボンに対してどういう感情を抱いていたかを見てみる必要があります。
 まずは、ナツがリボンに初めて出会った場面を見てみましょう。
 グッズショップに入ったナツは、色々なリボンが売られているワゴンを見て、「学校でリボン流行ってるよね」(p.86)と思います。その時に藤岡たちが例のリボンを取り上げ、「ねえ  これ  めっちゃ可愛くない?」「ブランドものだ  5000円もするぜ」(同)と話題にします。ここで初めてナツはあのリボンを認識します。その後にワゴンに近付き、さっき話題に上がっていたリボンを手に取って、藤岡たちの批評をなぞるように「かわいいなあ」(p.87)と思います。そして、「これつけていったら目立つだろうなぁ」(同)と考えます。
 ここでナツは、リボンを付けた自分の姿を想像しています(同3コマ目)。自分がそのリボンを気に入ったかどうかより、それを付けた自分がどう見えるかを重要視しているということです。もちろん、身に付ける物を選ぶ時に、身に付けた自分を想像するのは自然なことです。しかし、リボンが自分に似合うかどうかでなく、『つけていったら目立つだろう』という考えが先にきていることには、やはり注意が必要です。
 この価値観はその後も一貫して表れています。リボンを実際に買って帰る時のナツは、「みんなにうらやましがられちゃうかなあ」(p.133)と言っています。ここでも、周囲からの注目と評価を第一に期待しています。
 その後のシーンでも、中学生の女の子なら「オシャレしなきゃ」(p.136)と言ってリボンを千恵にお披露目しています。そして、「ほら  この前のショップにあった ブランドもののリボンだよ わかんないかー  ちーちゃんセンスないなー  すごくかわいいのに  リボンはやってるんだよ」(p.137)と自慢します。『ブランドもの』で『はやってる』ことを根拠に『センス』のあるものだと言っているわけで、オシャレを『しなきゃ』いけないという観念とともに、徹底して外的な基準を自分に投射して喋っています。

 以上のように、ナツがリボンに見出だしている価値は、自分の外の基準を持ってきて貼り付けているだけです。これは、千恵が自分の気に入っている『マジカルラブドラゴン リュー』のヘアゴムを、志恵(p.60)や藤岡(p.107)から子供っぽいと言われても気にせず身に付けていることと、好対照を成しています。
 そして、そのリボンにナツが望んだことも、自分の所有欲や着飾りたい気持ちを満たしてくれることではなく、周囲からの注目や羨望や好意の視線でした。ナツがリボンに期待した価値は、徹底して他者から見た自分の価値を上げてくれることだったのです。
 ここまで見てくると、ナツがリボンを捨ててしまったことに納得がいきます。リボンを付けて学校に行っても、ナツが周囲の注目や羨望を集めることはありませんでした。リボンはナツの価値を高める効果を発揮しなかったのです。この時点で、ナツがリボンに期待した価値は全くの無になりました。だから、ナツは役立たずのリボンへの興味をすっかりなくしてしまったのです。
 ここでの結論としては、リボンを捨てるという行動の原因になったナツの性質は、判断基準が他者の視線だけに偏ってしまっていることだということになります。つまり、客観的な視点が肥大しすぎていると言えるのです。


《まとめ2》 ナツは、周囲からよく見られるためにリボンを欲しがっていた。だから、注目を集められないとすぐにリボンを捨ててしまった。つまり、他者の視線を判断基準にするという客観性が大きすぎたことが、足りない行動の原因になっていた。



3節. 客観性が高い?

 それでは、客観性が強すぎることがナツの問題点となる性質なのでしょうか。
 実際、ナツは自分自身のことを外側から見て考えている場面が多いです。周囲に気を遣って想像力を働かせているようにも見えます。客観性こそナツの特徴的な性質であると言われて、全くの間違いだと言うことはできません。
 しかし、ナツは本当に自分や周囲を客観的に見られているのでしょうか。それには疑問を抱かざるを得ない描写がいくつもあります。

 まず、ナツの客観性が機能していない場面の例を2つ挙げます。
 1つ目は、第5話冒頭で母親にお小遣いの前借りをねだっているシーン(p.101‐)です。明らかに客観性をなくしていて、家の外まで響く大声で駄々をこねています。千恵と志恵に聞こえていることなど思ってもいないでしょう。ただ、このシーンは家庭内ですし、欲しいもののことで頭がいっぱいで客観性が働いていないという面もあると思います。
 それではもう1つ、帰ってこない千恵を捜す手伝いを志恵から頼まれているシーン(p.193‐)はどうでしょう。もしかしたら千恵に何かあったかもしれないという志恵の言葉を聞いたナツは、うっかり「交通事故とか?」(同)と言って志恵を泣かせてしまいます。直後にナツ自身も反省していましたが、志恵が尋常でなく心配しているのは態度で分かるはずで、これは明らかに不用意な発言です。この場面でナツは、相手の気持ちを想像することも、自分の言葉がどう聞こえるか省みることもできていません。
 以上のように、ナツは状況を客観的に見られていないために失敗する場面があります。*1 客観性に長けていて自分や周囲をフラットに見る能力が高い、というのとは違うように思われます。

 少し違うパターンとして、ナツが客観性を発揮しようとしているがそれが上手くいっていない、という場面もあります。その事例を3つほど見てみましょう。
 まず、奥島と如月と一緒に千恵の勉強を見ることになったシーンです。旭が先に帰ったことで、ナツは「あっもしかして私 空気読めてない感じかな ちーちゃんはともかく私は邪魔かなあ」(p.32)と考えます。そして、2人が勉強を教えている時に少し引いた位置に座っています(p.33の1コマ目)。状況を客観的に見て、自分に期待されている行動を考えようとするわけです。しかし、本当に客観的に状況を見れば、その気遣いは的外れです。まず、奥島と如月が本当に付き合っているかどうかは分かりません。旭が「委員長と副委員長だから 仕事とかじゃねえの」(p.30)と言うように、2人が付き合っているというのはナツからそう見えているだけで、確定事項ではありません。また、そのように思っている旭が2人に気を遣って帰るとは思えません。ここではまだ分かりませんが、実際には旭は付き合っている水沢と会いに行ったわけです(p.41)。そしてもちろん、奥島たちが本当に恋人同士だったとして、千恵に勉強を教えているだけの場面にナツがいたところで普通は邪魔に思うとは考えられません。つまりここでのナツは、客観的に状況を見られていないまま不要に空気を読もうとして、気遣いが空回りしています。
 これと同じ構図はその後もあります。千恵と帰宅している途中に、水沢と一緒にいる旭を見かけたシーンです(p.40‐)。この時ナツは、話しかけようとする千恵を制してまで、遠巻きに見るに留めます。先ほどと同じく、邪魔をしないようにと思ったのでしょう。また、翌日以降も旭に対してその時のことを話題にしないようにしています。*2 自分が男女交際と縁遠いためにその話題を避けている面はあるでしょうが、旭が気まずいだろうという気遣いも働いているはずです。しかし実際は、旭はナツたちが見ていたことに気付いていました(p.118)。ナツはあの場面で、自分を客観視するのに失敗していたわけです。それを指摘されたナツはとっさに「知らないよ!」(同)と嘘をつきますが、見ていたことをお互い分かっている以上意味のない嘘です。ここでは、客観的に見て適切だと思った判断が、客観性からどんどん逸脱していっています。
 もう1つ、ナツが藤岡について悪口を言うシーン(p.174‐175)も見てみましょう。藤岡の悪い印象を一気にまくし立てているのは、盗まれたお金を捜している藤岡を悪魔化することで罪悪感を軽減しようとする気持ちも働いているでしょう。情に厚く聡明な藤岡をついさっき見て知っている旭と千恵、読者からすれば明らかに的外れなことを言っています。しかし、ナツの発言は客観性を働かせようとした結果でもあります。旭が帰りが遅くなったことについて「まあ ちょっとな」(p.174)と言い、千恵が藤岡の名を出したことで、ナツは藤岡との間に何かあったことを察しました。そして、旭と藤岡たちの間の関係は、ナツの知る限り敵対的なものです。自分のいないところで藤岡たちと揉めたのだろうと考えたナツは、藤岡を悪く言うことで旭の味方であると強く示そうとしたのです。そのように、空気を読んだ結果として完全にズレた発言をしてしまったわけです。

 ここまでで見てきたように、ナツは自他を客観的に見る能力が高いというわけではありません。客観的に見て適切な行動を選ぼうとして不要に気を遣った結果、空回りして逆効果になる傾向もあります。
 客観性を保てていない偏った状態で、客観的に状況を見なければという強迫観念から逃れられない、いわば『客観習慣の過剰』*3こそがナツの問題点だと言えます。ナツの足りなさは、『客観習慣の不足』という千恵の足りなさと逆転して対になっていたのです。
 この足りなさは、様々な場面でナツの行動や思考に影を落としています。次節からは、『客観習慣の不足』がナツの言動にどのように表れているかを見ていきましょう。

《まとめ3》 ナツは客観性が高いわけではなく、自他を客観視しようとする思考の習慣が強い。それが逆に逸脱した行動に繋がることもある。つまり、ナツの足りなさは『客観習慣の過剰』である。



4節. 足りなさを嘆くのはなぜ?

 『客観習慣の過剰』というナツの足りなさについて、もう少し別の角度から見てみます。
 ナツはそれ以外にも色々と足りなさを持っています。テストの点はかなり低い方ですし、常識や教養も豊かとは言えません。家は母子家庭で、金銭的にあまり余裕はなく、旅行や行楽などの文化的な活動にも長らく触れていません。交友関係は狭く*4、恋人もいません。
 しかし、その多くは千恵よりは足りています。千恵より点数は高く、箸も使えてはいますし、母親の影がほとんど見えない南山家よりは母に構ってもらっています。親しくない相手に人見知りする千恵と違ってクラスメイトには普通に話しかけられますし、恋愛に対しても千恵よりは意識と知識があります。
 にもかかわらず、自分の足りなさへの劣等感や不満を表出するのは、千恵よりもナツの方が目立って多いです。
 例えば第4話では、千恵は23点を取って大喜びしていますが、42点だったナツは旭たちの点数を見て劣等感を抱きます(p.82)。その後も、ゴールデンウィークにレストランに行ったと満足げな千恵に「私もどこにも行ってないな」(p.85)と返し、「はぁ  私たちは なんだか私たちって」(同)と漠然とした劣等感を抱きます。それから立ち寄ったグッズショップでも、今付けている200円のヘアゴムで満足している千恵に対し、5000円のリボンを買えない自分を思って「はあ  私たちはなんだか私たちって」(p.89)と繰り返します。そして、この第4話以降、ナツの不満と劣等感の描写はことあるごとに溢れるようになります。

 このような、自分の足りなさに対する正反対の反応には、やはりこの2人の象徴的な性質である客観習慣の不足/過剰が影響しています。
 第1章の9節で言及しましたが、千恵は客観習慣が足りないために自分の足りなさをあまり見ずに済んでいます。自分と他者を客観的に比較して評価する習慣がないために、人より不足している境遇でも自分の基準を満たせば満足できます。
 ということは、ナツはその逆だということです。自他を比較して評価する習慣が強いために、自分が周囲より足りていないことを強く自覚してしまいます。「みんなすごいなあ 奥島くんも如月さんも旭ちゃんも頭良いし  教え方上手で優しいし しかもみんな恋人いるし 私なんか私なんか なんなんだろう」(p.82)という独白に全てが表れています。必要以上の部分まで人と比べずにはいられないのです。客観習慣の過剰という最大の足りなさが原因で、自分の様々な足りなさを強調して捉えてしまうというわけです。


《まとめ4》 ナツは千恵よりは足りているが、千恵よりも劣等感を持っている。なぜなら、ナツは客観習慣の過剰という足りなさによって自分を他者と比較してしまうために、自分の足りなさに敏感だからである。



5節. ちーちゃんと比べないのはなぜ?

 さて、ここで一つ疑問が生まれます。ナツが自分を人と比べる習慣を強く持っているなら、より足りない千恵と比べて自分の足りなさを慰めることもできるのではないか、という点です。
 しかし、意外なほどにナツのそういう考え方は描かれません。
 ナツが千恵の足りなさを指摘したり補ったりする場面はいくつもあります。第1話冒頭(p.4‐5)から、ナツは千恵の身長を補ってカバンを取ってあげています。また、千恵に問題を出して勉強を教えようとするシーンも繰り返されます(p.18‐19, p.33)。ですが、それらの行動によって、ナツが千恵に対する優越感を得ているかは明らかではありません。
 ナツが千恵に対して明らかに優越性を主張しているように見えるのは、リボンを自慢するシーンです。「わかんないかー  ちーちゃんセンスないなー」(p.137)と得意気に言います。しかし、その直後に「でも ちーちゃんのお金のおかげだよ ちーちゃん ありがとう」とお礼を言っているので、千恵に対する優越感を得るために自慢したわけではありません。何より、その後に「このままだと私たち子どものままだよ」(p.138)と言っています。『センスのない千恵は自分より子供だ』と言うのではなく、『私たち』つまり今の自分と千恵は同じく子供だと言っているのです。
 この『私たち』という言葉を、ナツは何度となく繰り返します。そして、『私たち』は常にナツ自身と千恵の2人のことを指しています。テストの点が平均に満たず、海外旅行に行ったことがなく、高価なリボンも買えない自分と千恵の境遇をまとめて「はあ  私たちは  なんだか私たちって 本当  何もないな」(p.93)とナツは嘆くのです。

 しかし、前述したようにナツと千恵は境遇が違います。千恵は、テストの点数や休暇の過ごし方、持っている装飾品については満足しています。何より、千恵と比べればナツには『何もない』ことはありません。ナツの点数は千恵より20点近く高いですし、千恵にない色々な物を持っています。
 例えば、2人の部屋を見れば違いは明らかです。ナツの自室には、物が大量に散らばっています(p.189)。お菓子や飲み物のゴミ、本や小物、電子機器やリモコンもあります。壁には額縁に入った絵か何かが掛かっており(p.190の4コマ目)、何かのポスターも貼ってあります(p.191の6コマ目)。本がたくさん入っている本棚*5の上には何かの大きな箱が載っており(同3コマ目)、人生ゲームもあります(p.134)。一方で、千恵が姉の志恵と一緒に寝ている部屋はほとんど物がなく、装飾と呼べるのは古びたタンスに貼ったマジカルラブドラゴンのシールくらいです(p.52)。*6
 所持品の格差もあります。まず携帯電話を持っているかどうかはかなり大きな差です(p.188)。さらに、ナツの家には自分の自由にできるパソコンもあります(p.104)。また、ナツは自前のリュックで学校に通っていますが、千恵は学校指定のもの以外カバンを持っておらず、遠出するにも手ぶらです(p.214)。服装に関しても、ナツはそれなりに小綺麗な私服で出かけており、靴もわりとしっかりしたものを履いています。一方千恵は、襟元の伸びたTシャツに同じパーカーと短パンで、ボロボロの靴を買い換えても結局マジックテープの子供靴でした。小学生の頃の2人をナツが回想するシーン(p.197‐198)を見ると、この頃からすでに親から買い与えられていた服にファッション性の差があるのが分かります。ナツの母は、余裕がないなりに精一杯ナツの望みを叶え、お洒落をさせてあげているのです。
 以上のように、千恵と比べればナツは明らかに『持っている』側になります。
 それなのにナツは、自分と千恵をまとめて「私たちって 本当  何もないな」(p.93)、「私たちだけ何も持ってないのは惨めだ」(p.139)と考えます。また、自分が千恵よりは持っていることを無視して「ただ何もない最低限の生活の惨めな私」(p.133)と自分の暮らしを評価しています。

 つまり、ナツは千恵を見る時だけ客観的に自分と比較する視点を持てていません。千恵との間にある差を無視して『私たち』として自分と同一視しています。*7 そして、『私たち』をまとめて周囲と比較しているのです。
 おそらくナツは自分を守る方法として、千恵を見下して優越感を得ることよりも、千恵と同じだと思って安心感を得ることを無意識に選択したのでしょう。「ちーちゃんだけは私のことを傷つけなかったのに」(p.190)というのは、千恵だけは自分と比較しなくて良いので楽だったという意味でもあります。千恵がグッズショップで欲しい物がなく、安いヘアゴムで満足していると示した時のナツの笑顔(p.89の4コマ目)は、高価なグッズに縁がないという意味で自分たちは同じだということに安心した笑顔なのです。
 この『誰かと同じでいたい』という気持ちは、「私もみんなと同じになりたいよ  私もみんなと同じがよかったよ」(p.212)と心中で呟くように、ナツの心を占めている欲求の一つです。一見、リボンに願った『目立ちたい』という望みと相反しているようですが、自分だけみんなと違うのは惨めだという発想に基づいており、周りから見た自分を良く見せたいという意味では同じ客観習慣から出てきている欲求です。
 このように、千恵と自分を同一視して評価するナツですが、千恵が自分より優越していると感じた部分は自分と同一化しません。例えば、「私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ」(p.212)と思う場面があります。大切なことを大声で主張できるという点で、千恵は旭たちと同じように自分より優れていると考えているのです。あるいは、「一人で電車だなんて私でも乗ったことないのに」(p.219)とも考えます。自分がしたことのない経験をした千恵と自分を比べて劣等感を覚えているわけです。自分が千恵より優れている時はその差を見ずに、千恵の方が優れている時だけその差を見てしまうという思考の習慣があるのです。
 以上のような形で、ナツは千恵と自分の差を無視して同一視しています。これらから言えることは、やはりナツは自他を客観的に見る能力が高いわけではなく、状況によって自分と他者を比較する客観的な視点を出したり引っ込めたりする偏った習慣を持っているということです。またその客観習慣は、他者が自分より優越している部分を認識する時に強く発揮されることも分かります。


《まとめ5》 ナツは千恵を自分と比べることなく、自分と同一視して安心感を得ている。このように、ナツの客観習慣は偏ったものであり、特に自分より足りている相手と自分を比べがちである。



6節. 劣等感と自己評価の変遷

 4節と5節より、ナツは偏った客観習慣の過剰のために、特に自分より足りている相手と自分を比べてしまいがちで、そのために自分の足りなさを強調して受け取ってしまう、ということになります。これはつまり、人と関わると様々な折に触れて劣等感を抱いてしまう思考の癖があるということです。
 そうすると当然、自己評価は低下する一方です。実際、自己評価の低さはナツの言動の端々に表れています。例えば、第2話の序盤で奥島と如月が千恵に勉強を教えるのに付き合うとナツが言った後、旭が先に帰ると言うと、ナツは自分が残ったのは空気が読めていないのじゃないかと考えます(p.31‐32)。実際は旭はおそらく水沢との約束があっただけなのですが、ナツは自己評価が低いので、自分と旭の選択が分かれた時、自分の方が間違っているのではないかという発想がまず出てきてしまうのです。
 この第2話から、ナツの劣等感と自己評価の低さは徐々に表面に出始めています。そして話数を追うごとに目立っていきます。この節では、ナツの劣等感と自己評価が物語を通してどのように変化していくか見てみましょう。

 まず第2話では、ナツと千恵の恋愛に対する足りなさが描かれます。奥島と如月の様子を見たことをきっかけに、ナツはメディアの情報や周囲の状況から恋愛をするよう焦らされているように感じると話します(p.37)。「遅れてるって気にしてる」(同)と表現しているようにそれは確かに劣等感ですが、穏やかに話せる程度の他愛ないものです。
 次に第4話では、テストの点数によって客観的に周囲より劣っていると示されたことをきっかけに、色々なことに劣等感を見出だす思考モードに入ります。旭や奥島と如月の成績の良さ、教え上手で優しいことから恋人がいることまで、その場で無関係なことまで羨んで劣等感を感じています(p.82)。さらにその後に旭が海外旅行に行ったことを聞いては休暇にどこにも行っていないことに劣等感を持ち、リボンを買うお金がなくては金銭的な劣等感を抱き、「私たちって 本当  何もないな」(p.93)と結論付けています。
 ここではいくつもの劣等感が連鎖的に湧いてきていますが、まだ日常的な漠然とした不満の範囲のものです。自己否定にまで至るほど深刻なものではなく、広い景色を望むことで慰められて薄らいでいきました(p.98)。

 本当に劣等感が暴走し始めるきっかけになるのが、千恵からお金を受け取ったことです。
 第5話の最後、千恵の手から1000円札を取った瞬間に、ナツは自分の中の2つの決定的な足りなさに直面することになります。1つは、盗んだものかもしれないお金を欲望に負けて受け取ったという道徳的な足りなさ。もう1つは、そうまでしなければ欲しい物を買えないという金銭的な足りなさです。その時の気持ちを、ナツは「私たちは世界で一番美しくない2人だな」(p.124)と表現しました。自分と千恵を同一化し、外的な基準を元に自分を外から見て評価する習慣を持つナツを、克明に表している一言だと思います。
 お金を受け取ったことで顕現した道徳的な足りなさと金銭的な足りなさが、お互いに結び付いて劣等感でナツを苛んでいるのが「貧乏は罪なの?」(p.127)、「貧乏は罰なの?」(p.129)という自問です。特に金銭的な劣等感を留めることができず、欲しい物を買ってもらえなかった小学生の頃の記憶までが蘇ってきています。
 翌日、リボンを付けて登校したことを契機に、また心境は変化します。
 ナツがリボンで果たそうとしたのが注目や評価を受けることだったわけですが、そもそもこれ自体が劣等感の補償という面があります。すでに見たように、学力や教養や金銭的余裕や恋人を持っている旭をはじめとした優等生たちは、ナツにとって劣等感を覚える相手でした。クラスの中で優越するものを持っており、誰かに選ばれているというわけです。
 その一方で、ナツは藤岡たちに対しても「いっそ藤岡さんみたいにグレれば楽だったろうな どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金で あんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ」(p.150)と、見え方は歪んでいるものの羨望を抱いています。ナツから見えている藤岡たちは、自分の足りなさを満たす力を持っており、それゆえに堂々と振る舞ってクラスの中で確固たる地位を占めているというわけです。
 そして、ナツは自分に対しては「最新ケータイや音楽プレイヤーも何も持ってないからな私たち  そんなにイモ臭いからクラスも下部組で交友関係もせまいし」(p.135)と考えています。旭たちのように何かを持っていないし、藤岡たちのように手に入れる力もない、そのために地味で目立たず、それゆえにいわゆるクラスカーストが低いというのがナツの自己評価です。つまり、リボンを持つことで注目を集め、それによってクラス内での評価や地位の不足を取り返したいというのがナツの考えだったのです。「私の華やかな中学生生活の始まりの はじめの第一歩になるといいな」(p.141)という言葉が、まさにその希望を言い表しています。
 しかし現実にはそうはならず、リボンを付けてもクラスメイトからの見る目は変わりませんでした。劣等感を払拭しようと行動したのに何も変わらなかったことで、反動で増大した劣等感に否応なく直面することになります。しかも、道徳的・金銭的な足りなさを背負い込んでまで手に入れたリボンで周囲の評価の足りなさを満たそうとしていたのです。望みが外れた結果、ナツは道徳的な劣等感・金銭的な劣等感に他者評価の劣等感を加えた3つに取り囲まれて苛まれることになります。
 この状態でナツは、箸の持ち方について指摘を受けます(p.145)。普段なら恥ずかしいとは思うでしょうが、深く落ち込むほどのことではないと思います。しかし、複合した劣等感に苛まれているナツは、「みんな知ってるんだ  私のお母さんそんなこと教えてくれなかったな」(p.146)という劣等感から、一気に「底辺だ バカで貧乏な私は品性まで欠けてて親の差まである  どうしようもないな」(同)という極端な思考に直結します。ここにきて劣等感は自己否定まで至っています。そして「奥島くんは私やちーちゃんみたいな底辺とかかわるの恥ずかしくないのかな  うざったらしくないのかな」(同)とさらなる劣等感を感じます。劣等感を持つことで自己評価が下がり、下がった自分を他者と比べてさらに劣等感を抱く悪循環です。負のスパイラルに沈んでいくナツの視界が歪みます。

 さて、ここまではナツが自分を苛み否定しているだけでした。しかし、藤岡がお金を盗んだ犯人を探していると言うのを聞いた(p.147)ことで、また状況が変わります。
 この時ナツは当然、盗みに加担したことで報復されることを恐れています。しかし同時に、盗んだお金を受け取ったとバレることはナツにとって、道徳的・金銭的な足りなさが晒されて卑しまれることでもあります。すでに見てきたように、ナツは客観習慣が過剰なため、自意識を外部からの視線に投影してしまう思考の癖があります。そんなナツの内側に足りなさに対する劣等感が渦巻いていたところに、外部から現実にそれを糾弾される危機が訪れたのです。結果、道徳的・金銭的な足りなさを他者から突き付けられる恐怖が一気に膨れ上がります。また、この2つの劣等感はすでにナツの中で、他者からの評価に対する劣等感と結び付いていました。この劣等感は、他者から注目され肯定されるはずだったのにそうならなかったという形でついさっき実感させられたものです。そこに自分の足りなさを他者から突き付けられるという意識が持ち込まれたので、周囲のみんなに「肯定されなかった」は容易に「否定された」へとナツの中で変換されます。そして、3つの劣等感はすでに混ざり合って自己否定まで至っていました。結果、「私はすべてに否定されてるんだ」(p.148)と、巨大な自己否定を外部に投影し、世界から否定されているという感覚に陥ったのです。
 自己否定を他者に投影するこの思考はその後も尾を引きます。この日の帰り道で、ナツは旭の態度からお金を受け取ったのが露見したと察します。そして「ちーちゃんが旭ちゃんに言ったんだ  絶対そうだ 絶対そうだ!」(p.177)と思い込みます。結果、「ひどいよ 約束を破るなんて」(同)、「ちーちゃんすら私を否定するなんて」(p.179)という思考になります。実際には千恵は最後まで約束を守りました。目の前の千恵も「帰ろ  いっしょに」(p.177)と笑いかけています。それでも、自己否定を外部に投射しているナツには、『千恵が自分を否定した』という結論しか見えなくなっているのです。その末に、「ちーちゃんなんて大嫌い」(p.179)と相手を否定し返す攻撃性にまで発展してしまいます。
 同じ構図の思考は、翌々日の日曜日に旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た時にも表れます。その前までのナツは、「旭ちゃんは私なんかと遊んでくれるわけない」(p.189)と自己評価の低さを旭に投影しながらも、電話が掛かってきた時には「もしかして旭ちゃんかな!?」(p.190)と顔を輝かせるくらいには、旭との繋がりを望んでいます。しかし、旭が藤岡たちといるのを見た後は、「本当は私みたいなつまらない人間なんかと一緒にいたくなかったんだよね  旭ちゃん」(p.202)、「妥協して私たちを選んだんでしょ  知ってるよ  旭ちゃん」(p.203)と、旭が自分を低く評価しているという想像を次々に溢れさせます。旭がナツに何か言ったり、約束を断ったりすっぽかしたりしたわけではないのに、旭からの視線に自己否定を貼り付けているのです。しまいには、「DVDのお返しに私も私の好きな映画を薦めたかったよ  私のセンスなんか信じてないもんね  私になんか何も期待してないもんね  旭ちゃん」(同)という些細なところにまで自分への否定を見いだします。そして、旭への嫉妬を吐露した末に「大嫌いだよ旭ちゃん」(同)と、相手から否定されたと思い込んで否定し返すことが再び起こります。

 さて、この時までは、自己否定を他者に投影して攻撃性まで発展することを繰り返したナツですが、これ以降はそういう思考は顔を出さず、単に自分で自分を否定することに没入していきます。これには3つ理由があったと考えられます。
 1つ目は、藤岡が妹たちと一緒にいるところを見た(p.180)こと。藤岡は、ナツが世界から否定されているという思考に陥るきっかけとなった人物であり、ナツの中では攻撃してくる他者の代表として極端に悪魔化*8されていて、攻撃し返す相手として認識していました。そんな藤岡が妹たちを可愛がり、慕われている姿は、ナツが投影したイメージとはかけ離れたものでした。否定してくる残酷な他者の代表として見ていた藤岡の印象が覆った結果、みんなが自分を否定してくるという世界観が根底から揺らいだのです。そうやって冷静さが戻ってきてしまえば、ナツの客観習慣は、藤岡に勝手にクズのレッテルを貼っていた自分自身を見つめざるを得ません。そうしてナツは「はいはい  どうせ私だけがクズですよ」(同)と心中で呟くのです。この出来事以降もナツの攻撃性が他者へ向かう場面はありますが、これがナツの否定が内向していくきっかけの1つなのは確かだと思います。
 2つ目の理由は、自己否定を他者に投影するのはいわゆる被害妄想なので、冷静になると鎮まっていったということ。ナツは、お金を受け取ったことがバレて報復されるかもしれないと思ったことで全てから否定されているという考えになり、バレてしまったと思ったことで千恵に否定されたと考えました。旭と藤岡たちを見た時も、前々日のいきさつから考えて、自分がお金を受け取ったことが彼女たち全員にバレたと思うのは自然で、旭はそちらのグループに行ってしまってみんなで自分を蔑んでいると想像したとしても無理はありません。いずれの場合もナツが半ばパニックになっていたのは確かで、そのために他人から否定されているという想像が過剰になり、相手に対しても攻撃的な思考になったと考えられます。よって、時間が経つと落ち着いていったというわけです。
 3つ目として考えられるのは、自分が他者を必要としていることに気付いたため、『みんなが自分を否定するから自分もみんなを否定する』という世界観を保てなくなったという理由です。
 ナツが必要とする他者の1人が千恵です。第7話終盤の帰り道では、ナツは千恵に否定されたと思っており、自分も千恵を否定しています。その後、第8話の序盤でも、ナツの中では「ちーちゃんとは絶交した」(p.189)ことになっています。しかし、千恵を探して馴染みの場所を歩くうちに、千恵とずっと一緒にいたことを思い出し、不意に「ちーちゃん どっか行っちゃうの?」(p.200)と千恵がいなくなることを想像します。さらに、そのすぐ後に旭と藤岡たちが一緒にいるところを見て、そのグループに千恵も入っていて自分だけが仲間外れにされているという、よりリアルな形で千恵が自分から去っていくことを想像します。そして、電話で千恵が旭たちといないことを聞いて、「ちーちゃんまでとられたら嫌だもん」(p.206)と安堵します。その時点で自分が千恵を必要としていることを再認識し、「やっぱり私にはちーちゃんがいないとダメだ」(p.207)と考えるのです。
 ナツが必要とする他者のもう1人が母親です。母からの置き手紙と1000円を見た時のナツは、どうせくれるなら頼んだ時にくれていれば今の窮状にはならなかったのに、というやるせない気持ちから「すごくイヤな気分だよ」(p.192)と腹立ちを口にしています。ですが、少し時間を置き、自分が千恵を必要としていることに気付いた後にもう一度手紙とお金のことを思い出して(p.208)、自分が母からいつも肯定され、守られていることを理解するのです。
 以上の3つの理由によって、ナツの自己否定の外部への投影が止まります。冷静になった上で、自分が他者を必要とし他者から肯定されていることに気付いたために、みんなから否定されているという思考が保てなくなったのです。

 こうしてナツは、自己否定と対峙する方法として、他者に仮託した上で他者を否定するという形を取れなくなりました。外部への投影と攻撃が消えた後には、単なる劣等感と自己否定だけが残り、それと向き合わざるを得なくなります。
 その上、自己否定を他者に投影したことは反動となって返ってきます。『自分には価値がないから相手から否定されているはずだ』という考えが、肯定してくれる他者や肯定されたい他者を認識したことで崩れ去り、『自分には価値がないのに肯定してくれる人がいるということは、自分が相手を騙しているのだ』という思考に変わったのです。こうなると、他者から肯定されること自体が罪悪感を生みます。「こんな親不孝者に優しくするのはやめて 余計に辛いから」(p.209)や「志恵ちゃんが私のことをいい人って言ってくれたんだ でも違うんだ」(同)にその心理が分かりやすく表れています。その結果、他人を騙して否定されるのを免れている分、自分で自分を否定しなければならないという思考に向かいます。
 このようにして、この数日間で自覚し続けてきた自分の人格の足りなさとそれを周囲に隠しているという罪悪感を、ひたすら自分で責め苛む螺旋に落ち込んでいきます。それが、p.206からp.213にかけて断続的に溢れ出す、大量の自己否定のモノローグです。その中心は「いい人っぽく見えてるだけで 私は何もしないただの静かなクズだ」(p.211)にあると言えるでしょう。そしてこの一連のシーンは、自分自身を対象化して評価せずにはいられないというナツの性質が行き着いた果てでもあるのです。

 延々と自己否定しながら町をさまよった最後に、ナツは千恵のことを考えます。「本当はちーちゃんも旭ちゃんや奥島くんみたいな人と友達の方がよかったんだろうな」(p.212)、「こんなんだからちーちゃんもいなくなるんだろうなあ」(p.213)とあるように、やはり自分は無価値だから千恵からも肯定されるべきではないと考えています。
 その直後、ナツの前に千恵が現れます。その屈託のない笑顔に自分への肯定を見出だし、ナツは救われた気持ちになります(p.215)。しかし、劣等感と自己否定自体が浄化されたわけではありません。現にナツはその場面でさえ、「思わずちーちゃんを抱きしめたくなっちゃったけど 私がそんなことしたら気持ち悪いよね」(p.217)と考えています。つまり、先ほどの自分が千恵から肯定されるべきではないという考えは、否定されたわけでも消えたわけでもありません。それでもナツは千恵に向かって「私たち ずっと友達だよね?」(p.220)と問いかけ、「うん」(p.221)という返事に涙を流して感謝を述べました。千恵に自分への肯定を求めたわけです。
 自己評価を無視してでも自分を肯定してくれる他者にすがって救いを得るという選択は、客観習慣の過剰ゆえに他者からの評価を優先せずにいられないナツの特質を如実に反映した物語の終わり方だと言えるでしょう。


《まとめ6》 ナツは客観習慣の過剰から他人に劣等感を抱きがちである。その劣等感は、千恵からお金を受け取ったことをきっかけに自己否定まで至った。ナツは自分を責め苛んだ末に、自己否定を抱えたままで、肯定を与えてくれる千恵に依存して救いを得た。



7節. 客観習慣の過剰と攻撃性

 6節でナツの自己評価の変遷を辿る中で、自己否定を他者に投影して、相手から否定されていると思い込んで相手を否定するという思考形態が出てきました。相手の視点を想像する考え方が相手への攻撃性に繋がるのは皮肉ですが、ナツが持っているのがあくまで客観習慣であり、能力としての客観性が高いわけではないことが再確認できます。
 しかも、ナツの客観習慣が他者への攻撃性として表出することは、意外に多いように思えます。そこで今節では、客観習慣から生じているナツの攻撃性を、3つのパターンに分類して見ていこうと思います。

 まず1つ目のパターンが、他者から奪うという形の攻撃性です。
 とは言え、ナツは作中で直接的に人から何かを奪ってはおらず、盗んだお金を受け取っただけです。ただし、宮沢たちがお金を探しているのは知っていて、盗んだものであることも察した上で受け取って使ってしまったので、加害に加担していることは確かです。つまりここでは、人のお金を不正に自分のものにすることへの言い訳という形で攻撃性が表れます。
 ここでのナツの言い訳の方向性は『自分は足りていないので他者から奪ってもいい』という理屈です。つまり、客観習慣によって周囲と比べて自分の方が足りないと考え、その不公平を是正するためには足りなさを満たす手段が不正でも仕方ないと正当化するわけです。お金を盗んだと露見した時に千恵の中から出てきた「ちーだってほしい!  ゲームくらいみんな持ってる!」(p.156)と同じ言い訳を、お金を受け取った当初からナツは心中で呟いていたということです。
 具体的には、小学生の頃の記憶を思い返して自分の家庭の余裕のなさを思った(p.129‐131)上で「私だってたまには好きなものくらい買ってもいいでしょう?」(p.132)と考えていることが当てはまるでしょう。p.139からp.140にかけての「みんな何か持ってるのに私たちだけ何も持ってないのは惨めだ」「良くないことをして得たお金かもしれない  でも」「ちょっとくらい  ちょっとくらい  恵まれたっていいでしょ私たち」という一連のモノローグも、同じ形の正当化です。さらに、劣等感を増幅して見てしまうナツなので、「ただ何もない最低限の生活の惨めな私に思わぬささやかな潤いがあった」(p.133)と、自分の足りなさを実際より強調したりもしています。自分の足りなさを『何もない』『惨め』と過大に捉えた上で、それを満たした幅を『たまには』『ちょっとくらい』『ささやか』と小さく見積もることで、手段の不正をできる限り正当化しようとしているのです。
 ここまでのナツは『自分の境遇は他者より足りないので満たされるべき』という発想をしています。他者から奪うことを正当化するという攻撃性はあくまでその手段として出てきたのであり、ただの開き直りにすぎないものでした。

 しかし、2つ目のパターンでは、他者に対する攻撃性が前面に出てきます。劣等感を突き付けられる出来事を経て、『自分は他者より下だから上昇するべき』というナツの思考は『他者は自分より上だから落ちてくるべき』へと裏返るのです。
 例えば、箸の持ち方を指摘されたことをきっかけに劣等感が吹き出したナツは、旭と奥島と如月を見ながら「何か足りないものはないの?  怖いものはないの?  嫉妬するものはないの? なんでみんな不満そうな顔すらしないの  そんなのおかしいよ  せこいよみんな」(p.146)と心中で呟きます。自分が足りないのがおかしいと思っていたはずのナツは、ここではみんなが満ちていることが『おかしい』と言い、『せこいよ』と攻撃性を表しています。
 また、旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た後の「本当  旭ちゃんは卑怯だよ  いっつもつまんなさそうな顔してさあ いい点とって海外旅行行って恋人もいて 新しい友達も作っててさ」(p.203)というセリフも同じです。自分の持っていないものをまるで当然のように享受している旭を『卑怯』と罵っています。
 以上のように、他人との差を思い知ったナツが相手のレベルまで自分を上昇させることを諦めた結果、『自分より多くを持っている相手がずるい』という嫉妬の形で攻撃性を他者に向けたのです。
 
 さらに、3つ目のパターンが第2のパターンと前後して現れてきます。それが6節で述べた、自己否定を他者に投影した上で他者を否定する形の攻撃性です。相手から何も言われていないのに否定されたと思い込み、千恵(p.179)も旭(p.203)も「大嫌い」と否定してしまったのは前節の通りです。
 この自己否定を投影して他者に攻撃性を向ける思考の果てが「自殺でもしよっかな みんな私を嫌いでしょ  後悔すればいいんだ  ちーちゃんも お母さんも クラスメイトも」(p.178‐179)という発想です。その後に続く「藤岡さんにおどされたって遺書書いたりして」(p.180)も、実際に藤岡には何もされていないのに、攻撃される想像を膨らませて反撃を企てています。もちろん、それらを実行に移すつもりはナツにはありません。しかし、『みんな私を嫌い』だから自殺を選択してみんなを傷付けるという発想は、自己否定から被害妄想を経て生まれた攻撃性の発露として、実に象徴的なものだと言えるでしょう。
 いずれにせよ、この第3のパターンの攻撃性は、親しい人も含めた外界全てに対する嫌悪や加害欲にまで行き着いています。やはり、客観習慣の過剰というナツの足りなさは、自己への否定だけでなく他者への否定をも生み出すのです。


《まとめ7》 ナツは、自分を他者と比べてしまうことで、奪うことへの開き直りや持てる者への嫉妬を覚えている。また、他者から否定されることを想像して他者を否定してしまう。このように、客観習慣の過剰は他者への攻撃性にまで結び付いている。



8節. 足りなさは満たされる?

 ここまで見てきたように、ナツの客観習慣の過剰は劣等感を生み出して自分を苛み、自己と他者の否定にまで至っています。では、第1章の9節で千恵の足りなさは少しずつ改善されていると結論したように、ナツの最大の足りなさも満たされていくのでしょうか。
 それはかなり難しいことだと言わざるを得ません。
 その理由の一つとして、客観習慣の過剰は幼さではないことが挙げられます。千恵の客観習慣の不足は幼さと相関していたので、成長に伴って習慣が身に付いていきます。しかし、ナツの抱える偏った客観習慣の過剰は、子供から大人に近付いていく過程で、自分の立場と適切な行動を周囲から読み取るために発達させてきたものです。これからさらに大人になっていく中で修正されたり変化したりはするかもしれませんが、過剰な客観習慣が目減りして中庸に至るとは考えにくいです。
 ただし、ナツの客観習慣は他者と自分を比較して劣等感を持つ方向に偏って発揮されがちで、それゆえに問題を抱えているので、そこをちょうどいい感覚に補正していくことができればよいはずです。それはつまり他者を自分より大きく見積もる癖をなくすことなので、現実の他者をきちんと見ることが大切になってきます。他者と積極的に向かい合うことで、全てを持っているように見えていた相手も足りない部分があると気付くはずです。そして、自分も足りない部分を含めて内面をさらけ出せるようになるのが理想です。そのようにして、足りない部分は指摘され、優れている部分は誉められれば、自分が足りないだけではないことも、他者からの視点が自分の想像と随分違うことも理解できるはずです。そうしていけば、いびつな客観習慣の過剰を、真に客観的なものの見方へと変えていけるでしょう。
 しかし実際には、客観習慣の過剰を改善するためにナツがこれらの行動を取ることは、客観習慣の過剰ゆえに困難です。

 まず、他者と積極的に向かい合うのはナツにはかなり難しいことです。
 第1章の5節で、羞恥心は客観性から生まれるという説明をしました。客観習慣の過剰なナツは、当然羞恥心を感じやすいことになります。色々な場面で、自分の行動は場違いなのではないか、こんなことをするのはキャラに合わないのではないか、と恥ずかしさや気まずさを避けようとします。*9 結果、行動が消極的になっていくのです。
 例えば、千恵の存在を求め、「大切なことを大声で叫びたいよ」(p.212)と願った時ですら、小さな声で千恵の名を呼ぶのが精一杯でした。その直後に求めていた千恵に出会えた時でさえ、抱き締めることを躊躇し、「私がそんなことしたら気持ち悪いよね」(p.217)と考えるのです。いずれも、自分を外から見てしまい羞恥心を捨てられないことで、積極的に他者を求めることができなくなっています。

 また、足りなさを含めた内面を他人にさらけ出すことも、ナツにとっては相当に困難です。
 客観習慣の過剰というナツの足りなさは、自分の足りなさを見ずにいられないという足りなさです。第1章9節序盤で言及した、足りなさのために足りなさを見ずに済んでいるという千恵の性質とは、ここでも対照をなしています。ナツは自分の足りなさを何より嫌い、劣等感を育てているのです。それゆえにナツは、自分の足りなさをさらけ出すことなど思いもよりません。自分の内面を醜いものとして必死で隠そうとします。
 思えば、盗んだお金を受け取ったという道徳的・金銭的な足りなさが人に知られそうになった時、ナツは他者から逃避することで足りなさを隠そうとしました。藤岡が犯人探しをしていると聞いたナツは、旭の心配も振り切って一人で保健室に逃げ込みます(p.148‐149)。その後も、誰にも会わないように保健室に残り続けた(p.154)ため、盗難事件が決定的な展開を迎えたことを知らず、他者を介して自らの足りなさと向き合う機会を逸します。他者の視点を持たない千恵があっさり盗みを告白し、許されて成長の機会を得たのと対照的です。その後の帰り道でも、旭からリボンについて問われたナツは、自分の罪と足りなさを突き付けられることを恐れ、旭と千恵を拒絶して一人になります。
 足りなさを自覚することが改善に繋がらず、足りなさを隠そうとしてより一層他者を遠ざける結果になっているのです。
 
 これらのように、ナツは客観習慣の過剰という足りなさが原因で、積極的に人と関わって自分を見せる機会を逃し、その結果としてその足りなさを変わることなく抱き続けるのです。
 足りなさから逃れられない循環は他にもあります。自分も大声で叫びたいと思いながらもそうできず自己否定する(p.212‐213)ように、ナツは自分の消極性自体に劣等感を覚えています。同じく、「いい人」と言われたことを自ら否定して(p.209)、「こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張できずに黙ってて」(p.211)と表現するように、自分の醜い部分を隠していることも自覚して自己否定の根拠としています。足りなさから生じた足りなさを自覚するがゆえにさらなる劣等感を抱くわけです。さらに、自分の足りなさを隠している自覚があるために、他者から優しくされたり肯定されたりしても自分が相手を騙しているからだと捉え、それもまた自己否定へと転じてしまうのは、6節で見た通りです。これも、他人と向き合えないという結果を生みます。
 このようにして、他者と向き合えないために足りなさを持ち続け、足りなさを持っているためにさらに足りなさに囚われ、囚われているために他者に向き合えない、という幾重にも重なった自己否定と孤立の循環をナツは巡り続けるのです。

 以上のように、物語の中でナツの足りなさはほとんど満たされる兆しが見えません。最後に千恵に受け入れられることで自己否定の繰り返しは一旦止まりますが、千恵からの肯定の視線を自分の中に取り入れたというよりは、受け入れてくれる相手にただすがりついたと言うべきでしょう。客観習慣の過剰や劣等感が改善に向かったわけではありません。
 しかし、そもそも客観習慣の過剰というナツの足りなさは、一般にありふれたものです。『周りの目が気になる』『自分がみんなより劣っていると思う』という悩みは、多くの人にとって覚えがあるものだと思います。だからこそ、私たち読者は多かれ少なかれナツに感情移入するのです。
 ということは、現実に多くの人がナツと同じ足りなさを抱えて生きていることになります。前述した通り、この足りなさは足りなさを再生産する方向性があるので、きちんと向き合って『解決』したという人ばかりではないでしょう。それでも抱えて生きていけるのは、きっと客観習慣の過剰が内面の問題だからです。千恵のように客観習慣が不足していると、頻繁に外界と摩擦を起こします。しかし、客観習慣の過剰は多少偏っていようと周りに気を遣う方向に働くので、大抵は他者との間に問題は起こしません。実際ナツも、千恵がお金を盗むという行動を起こさなければ、自分から道を踏み外すことはなかったでしょうし、自分の足りなさにこれほど苦しむこともなかったはずです。作中では他者を拒絶する方向で外界と摩擦を起こしてしまったわけですが、千恵がきっかけを作らなければ、ナツはいつものように外向けには足りなさを取り繕い続けたでしょう。
 そして、そうやって現実には問題なく生きられているということが強みになります。羞恥や不満や不安や劣等感が心の中で渦巻いていても、生きていけるし生きなければなりません。自己を否定する感情は消えなくても、日々の生活に思考を割く中で、それらを苦しみとして受け取る心を次第に鈍麻させていくのだと思います。例えば、『自分は人より劣っている、だがそれはしょうがない』『あの人に嫌われているかもしれない、でもどうしようもない』というように、諦めをもって痛みを和らげるのです。そのようにして私たちのうちの一部は、自分を傷付ける客観習慣の過剰を鈍らせた心でくるんで抱えたまま生きているのではないでしょうか。

 ナツは自殺という行動を考えましたが、実行はしませんでした。高まった自己否定の反転した他者への攻撃として思い付いただけだったので、実際にそれを選ぶことはありませんでしたし、これからも頭に浮かぶことはあっても実行することはないのだと思います。なので、ナツはこれからも生きていきます。それはナツの強みです。
 最終第8話は日曜日の出来事なので、翌日は学校があります。そうすれば、千恵と2人の関係性に閉じ籠っていることはできません。そこで旭たちと否応なく向かい合うことになるか、逃げ切ることに成功してしまうかは分かりません。ナツの内面に何が起こるか、足りなさが多少なりとも満たされるのか、それともより深まるのかも分かりません。
 ここから先のナツの人生は、もう語られることがない以上、想像するしかありません。ただ一つ言えるのは、生きている限りなんらかの形でなんとかなる、ということだけです。足りなさを抱えながらも、ナツの人生は続いていくのです。*10


《まとめ8》 客観習慣の過剰という足りなさが原因で、ナツは積極的に自分をさらけ出して人と向き合うことができない。そのために、いびつな客観習慣を真の客観性へと昇華する機会を逸している。つまり、足りなさゆえに足りなさを満たせず、ナツはこれからも足りなさを抱えて生きていく。



9節. 足りなさは足りないだけじゃない

 ここまでずっと、客観習慣の過剰がいかにナツに纏わりついて責め苛んでいるかを述べてきました。しかし、第1章9節の冒頭で千恵について言ったように、その人の根元的な足りなさはその人の特質であり、角度を変えれば長所としても働き得ます。客観習慣がナツにとって利点として作用している面を見てみましょう。

 まず、言語能力です。第1章7節で見たように、客観習慣の足りない千恵は相手に分かる言葉を検討せずに喋るので、伝わりにくい発言がしばしばあります。だとすると、反対に客観習慣の強いナツは、言語能力が高いと考えられます。
 実際にナツのセリフを見てみると、「割り算は大人リーグ一軍フルイニング出場だよ!」(p.11)、「答え全部が睾丸になるような腐れテストつくったら  先生瞬殺で懲戒免職だよ!」(p.23)、「大衆の面前でカウンターで合わせるのは酷だよ!」(p.74)など、語彙がとても豊富で文構造もしっかりしています。ナツが最初はツッコミ役*11として描かれていたことも大きいのでしょうが、客観習慣も言語能力に寄与しているはずです。相手に伝わるようセリフを構成してから話す習慣ができていると思われます。話したことが伝わらなかったり、言いたいことが途中で分からなくなったりした時の気まずさをナツはかなり恐れているはずなので、余計にそういう習慣が強いのでしょう。自分を心配する旭の声が耳に入らないほど動揺している時(p.148)でさえ「あのっ  私  また気分悪くなってきたから保健室行ってくるね」と、前日欠席し当日の朝も遅刻したことを踏まえて筋の通った発言をしているのが象徴的です。
 また、ナツは内面での思考も言語的に豊富です。その究極はp.210‐211の怒涛の自己否定でしょう。もちろん、漫画の心内語として表現されているために言葉として整っているのは確かです。しかし、千恵の心内語がもし語られるとしたら、これほど整理されて分かりやすい文章にできるとは考えられません。ナツは普段から自分の状況や心境を客観視点で捉え、言語化して把握する習慣がある程度付いているために、会話として外部に出る言語もより整えられたものになるのでしょう。
 例えば、藤岡たちと遊んでいる旭を見て混乱したナツは、旭に必要とされていないという心内語をいくつも並べた(p.202‐203)後に、「本当  旭ちゃんは卑怯だよ」(p.203)以降のまとまった独り言を口に出して言います。これは、動揺した内心をそのまま吐き出さずに心中で言語化して整理してから発言することと、誰に言うでもない感情も言語的に筋道立てて自覚すること、両方のナツの性質を示しています。
 これらのような、心の中で文章をある程度構成してから口に出すという習慣は、予想外の状況で動揺して言葉を組み立てられない時に、とっさの発言ができないという短所としても表れます。宮沢たちが千恵を疑ったときに「たいへん  そんなの違うよって言わなきゃ」(p.113)と考えながら言葉にできず、後から「この前だって ちーちゃんが疑われた時 旭ちゃんは怒ったのに私は怖くて黙ることしかできなかった」(p.210)と自己否定したところには、その側面が表れています。*12 基本的に言葉が達者な旭が、動揺した時には「うそだろ  うそだろ  うそだろ」(p.155)、「なんでなんだよ なんでなんだよ」(p.160)と会話にならない心の内をそのまま言葉にしてしまう、つまり客観性をかなぐり捨てられるのと対比的です。
 しかし、言語能力の高さは日常会話の中では間違いなく利点として働いているでしょう。同じ性質が長所と短所で表裏一体になっているのです。

 その他にも、客観習慣の強さが長所として出てきている場面があります。
 第4話のナツは、色々な出来事から自分の足りなさを感じ取り「はあ  私たちは  なんだか私たちって 本当  何もないな」(p.93)と劣等感を覚えていました。しかし、最後には「なんか別にどうでもいっか なんだかこの町もこの生活も 大して悪くないのかも」(p.98)と気持ちが楽になり、少し前向きになっています。そうなったきっかけは、自分の住む町の景色を眺めた(p.96‐97)ことです。それによりナツは、「なんだか私たちって  今一瞬だけ世界で一番美しい2人だったかも」(p.98)と思い、自分を肯定できたのです。
 ここでポイントになるのが、『私たち』のことを美しいと感じたことです。海を望む町の景色は確かに美しいものでしょう。しかし、それを見ている自分たちが美しいというのはどういうことでしょうか。
 それはつまり、美しい景色の中にいる自分たちを外側から見ているのです。p.96‐97の見開きの景色の中で、ナツの目に映っているものはガードレールより向こうの町並みと海です。しかしナツの脳裏には、ガードレールのこちら側の道路に立って向こう側を見る千恵と自分を含めた、あの見開き全体の絵が映し出されています。そして、『美しい景色の中の一部である私たちは美しい』という理路で、自分を肯定したのです。
 こういう思考は千恵にはできません。自分を外から見る習慣のない千恵の脳裏には、自分が見ているガードレールの向こうの景色がそのまま映っています。表紙のカバー下にも使われているあの見開きは、ナツと千恵が同じ景色を目に映しながら、心の中では別のフレームで景色を見ている場面なのです。
 率直な感想を言えば、『世界は美しいのでその一部である自分も美しい』という論理での自己肯定は、千恵だけでなくほとんどの中学生がまだ持ち合わせていない発想だと思います。それほどナツの客観習慣は過剰なのだと言うこともできますし、自分を救う方法として特異な強みだとも言えます。また、1節の序盤で説明したように、この日に生まれたリボンへの欲望が爆発して母に駄々をこねるまでに、少なくとも11日の間が空いています。ここで得た「なんか別にどうでもいっか」という救いが、それだけの間は心を慰め続け、自分の足りなさへの不満をなんとか抑えていたと考えられます。それだけ大きな救いを客観習慣によって得ていたと言えるでしょう。
 しかし、そもそもこの思考によって救われた苦しみは、客観習慣の過剰から生まれた劣等感です。つまり、客観習慣によって生じた痛みを客観習慣によって癒しているわけです。ここにも、ナツの特質は長所としても捉えられるが短所でもあるという両面性が見て取れます。

 ここまで、ナツの足りなさは長所としても働いていることを見てきました。そしてそのことは、千恵との比較によって分かりやすく浮かび上がってきました。これは、『客観習慣の過剰』というナツの足りなさと『客観習慣の不足』という千恵の足りなさが反転して対になっている以上当然のことです。
 つまり、ナツの足りなさは千恵にとって足りていることであり、千恵の足りなさはナツにとって足りていることなのです。だからこそ、この2人の間にはいくつもの対比関係を見て取ることができます。安いヘアゴムで満足する千恵と、高価なリボンが欲しいナツ。言葉が足りない千恵と、言語能力が高いナツ。空気を読めない千恵と、空気を読みすぎるナツ。感情のままに人との距離を詰める千恵と、誰とでも会話はしても一線を引いているナツ。罪を自覚できなかった千恵と、罪に苛まれたナツ。嘘でごまかすことができずに人と衝突した千恵と、自分を見せずに責められることから逃げたナツ。自分を外から見ることができない千恵と、自分を外から見て慰められるナツ。足りなさゆえに自分の足りなさに気付けなかった千恵と、足りなさゆえに自分の足りなさを見ずにいられないナツ。他にもきっと対比を見つけることができるでしょう。
 このように、2人の中心人物の足りないところと満たされているところが背中合わせにくっついていることは、物語の重要なテーマを示しているように思います。それはいわば、『足りなさの相対性』です。
 私は足りなさを抱えているけれども、それは絶対的なものではない。私にとっての欠点は、誰かにとっては長所かもしれない。私から長所に見えているものは、その持ち主にとっては欠点かもしれない。私が全てに劣っているなんてことはなく、きっと誰もが何かの足りなさを抱えている。そういう足りなさの相対性が描き出されていることが、この物語の一つの救いなのではないかと思うのです。


《まとめ9》 客観習慣の過剰はナツの性質なので、言語能力の高さや、自分を外から見て慰められることのように、足りなさだけでなく長所としての面もある。客観習慣が不足している千恵と過剰なナツは、長所と短所が逆転して対になっている。そのような足りなさの相対性は、作品全体のテーマである。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 千恵の第1章を書いた時は、さすがに第2章はここまで長くならないだろうと思ったのですが、いざ書いてみるとまんまと第2章の方が長くなってしまいました。
 千恵について考えることは他者について考えることですが、ナツについて考えることは自分について考えることでもあります。ところどころに私の感情が入りすぎたかもしれないとは思っています。まあ、もともと深読みの感想の文章なので感情が入りすぎたも何もないんですが。

 さて、これで中心人物2人の足りなさについて書きました。他の登場人物の足りなさについても考えていくんですが、その話は物語全体の構造についてお話した後の方が分かりやすいと思います。
 そこで次回は、『この物語の主人公は誰なのか?』を考えようと思います。
 次回第3章はこちらです。またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【客観的に見られていない】
 この2つの場面でなぜナツの客観性が働かなかったかについては、後ほど第3章6節で述べます。

*2:【話題にしないように】
 とはいえ、ナツは旭の恋人について聞きたいと思っており、本人に水を向ける場面もあります。そのシーンと感情の動きについても、次の第3章の6節で詳述する予定です。

*3:【客観習慣の過剰】
 ここでは、ナツの足りなさについて、千恵の『客観習慣の不足』と対比するために『客観習慣の過剰』と表現しました。もし、『過剰』が『足りなさ』だという言い方に違和感があれば、『主観習慣の不足』と読み替えてもらっても意味はそう違わないと思います。いずれにしろ、自分がどう思うかという主観よりも、周囲の他者から見てどうかという客観的な視点を過剰に優先する思考の習慣のことです。

*4:【交友関係は狭く】
 ナツの交友関係が狭いことを示す描写としては、直接的には「クラスも下部組で交友関係もせまいし」(p.135)という本人の心内語があります。間接的な示唆としては、旭と水沢が付き合っているという情報を、旭とは親しくない宮沢が何らかのルートで知っていた(p.115)のに、ナツはたまたま2人を見かけるまで噂なども聞いていなかったことが挙げられます。これはおそらく、部活に所属しているかどうかの差が大きいのでしょうね。ただし、ナツは一学年上の有名人である水沢のこと自体は知っていた(p.41)ので、そういった噂のネットワークから全く疎外されているわけでもないようです。そのあたりもまた、千恵と比べれば足りているところではないでしょうか。

*5:【本棚】  
ナツは旭に「なんかオススメの漫画とか貸すから言ってね」(p.103)と言っていることからも、やはり漫画などをそれなりに揃えていることが伺えます。姉の志恵が友達からもらってきた雑誌をさらに千恵が盗み読んでいる南山家の状況とは、かなりの差があるように見えます。また、旭に対して「私の好きな映画を薦めたかったよ」(p.203)と考えているので、ナツの本棚にある『漫画とか』の中には映画のDVDも入っているのかもしれません。もし『好きな映画』が手元にないものであっても、中学生で人に薦められる映画があるのは、それなりの文化的体験があると言えると思います。描写が少ないので恣意的な比較になってしまいますが、日曜朝の女児アニメごっこに熱中している千恵とは、やはり対比的に感じられます。

*6:【部屋】
 千恵とナツの自宅は同じ団地の一室であり、その点では同等の2人が一戸建てに住む旭と対比されているように見えます(p.32)。しかし、実は千恵とナツの住居にも差はあります。前提として、2人の住む団地は、p.52の1,2コマ目が分かりやすいですが、かなり汚れて古そうに描かれています。また、p.4の1コマ目で分かるように5階建てで、p.127の1コマ目のように居室2室おきに階段室があります。このような構造で5階建てまでの古い団地には、おそらくエレベーターがありません。そして、小林家の居室はp.101の3コマ目で1階にあると分かります。一方、p.42の2コマ目には南山家の表札があり、「3ー502」と表記されています。これは素直に読めば、第3棟の5階の端から2番目の部屋ということになるでしょう。ただし、p.52の2コマ目では、千恵のいる部屋のベランダの庇に上の階の柵の脚部のような物が見えています。もしこれが上階の柵なら、他のコマでは屋上に柵はないので、千恵の部屋は最上階の5階ではないことになります。その場合、部屋番号に忌み数の4を当てることを避けたために4階の部屋が500番台になったと想像でき、南山家は4階となります。いずれにしろ、エレベーターのない集合住宅の1階と4階あるいは5階では、生活の利便性にかなりの差があり、家賃にも違いがあるでしょう。千恵とナツは住居自体にも密かに格差があるのです。

*7:【差を無視して】
 この傾向は、第2話で『あほ』を演じるために千恵に真似られた際のナツの反応にも表れています。ナツは「ちーちゃん 私のことをあほだと思ってたの──!」(p.48)と単純に抗議します。しかし、もしも旭が千恵に同じことをされれば、「あほはお前だ」(p.159)のような意味のことを言ったはずです。客観的に見て、千恵よりはナツと旭の方が学力も思考力も判断力も高く、比較すれば千恵の方が『あほ』ということになるでしょう。だから、『そういう千恵の方があほだろう』という呆れと訂正がむしろ普通の反応です。それなのにナツはそういう反応せず、『あほ』扱いに対する純粋な怒りの表現をするのは、もともと千恵の方が『あほ』だという自分との比較を避けていたからだと考えられます。

*8:【悪魔化】
 ナツが藤岡のことをいかに恐ろしい相手だと思い込んでいるかは、保健室に逃げ込んだナツのモノローグで分かります。「どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金であんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ ばれたら学校にこれなくされちゃうのかな」(p.150)です。現実の藤岡と全く違うものを見ています。だからこそ、「藤岡さんにおどされたって遺書書いたりして」(p.180)自殺するなどという尋常でない攻撃手段を思い付いたりできるのでしょう。その後の「まあ  あの人はそんな心あるわけないから無意味か」(同)に至っては全然知らないのに人格を全否定しています。

*9:【恥ずかしさを避ける】
 作者の前作『空が灰色だから』1巻収録の第1話「スーパー宇佐美物語伝説」でも、恥ずかしがりであるために人と関わることを避けてしまい、そのために恥ずかしがりを克服できない主人公が描かれます。これも一種の客観習慣の過剰によってその過剰を適切化できない状態であり、ナツの足りなさと通じるものがあります。

*10:【人生は続いていく】
 不幸や不足は解決されるとは限らず、抱えたまま生きていくものだという考え方は、作者の作品に繰り返し表れます。例を挙げれば、『死に日々』2巻収録の第18話「8304」では、主人公のけんちゃんは強く執着していた松田と心を通わせたように見えたものの、結局2人の人生は離れていって交わらなかったことが最後に示されます。そのことを痛みとして抱えながらも、自分は大人になれないと言っていたけんちゃんが、大人としての自我を獲得して生きていることが分かります。
 また、そういう考え方が語られた作者本人の言葉もあります。児童文学誌「飛ぶ教室」(光村図書)の2017年冬号に掲載された阿部共実さんのインタビューの中に、ネガティブなテーマを意図して選んでいるわけではないという話の流れで、次のような一節があります。「学校で仲が良かった友達と、ちょっとしたきっかけで疎遠になったり、勇気が出せなくて誰かを傷つけてしまったり、傷つけられたりなどということは、小学生や中学生で経験することは少なくないと思います。それを特殊な不幸とは思わないし、そしてみんながそれに対して善処しきれるわけでもなくて、大人になっても後悔や苦い思い出として残るのが事実で、そうやって人は年を重ねていきます。これもまた日常だと思います。」 足りなさや不幸、ネガティブな感情や思い出は必ずしも克服するものではなく、持っているのが普通のことだという作者の考えが分かります。

*11:【ツッコミ】
 作品後半の闇に飲まれかけた状態でも、「死んでなお殺される幽霊が不憫だな──」(p.120)、「おはしが武闘派シーフのダガーナイフの持ち方みたいになってる!」(p.145)のような華麗なツッコミを時たま見せてくれます。

*12:【怖くて黙る】
 もちろん、とっさに言葉を組み立てられなかったという理由の他に、ナツ自身が思うように怖くて黙っていたというのも事実でしょう。ナツは対人関係に消極的で羞恥心が強いので、その場の空気に臆して何も言えずにいたという面は大きいと思います。そして、怖くて話せないという気持ちと言葉が上手くまとまらないという状況は繋がっているものでもあります。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第1章.ちーちゃんは何が足りないか 

目次


はじめに

 阿部共実さんの漫画『ちーちゃんはちょっと足りない』(全1巻/秋田書店)は、私の一番好きな漫画です。
 『このマンガがすごい!2015』オンナ編1位と2014年度文化庁メディア芸術祭新人賞の受賞をはじめ、多くの称賛を得たこの作品ですが、いくら語れども尽くせぬ奥深さを持った作品だと感じています。
 今年2019年は、この作品が完結して単行本が出版された2014年から数えて5周年の年です。同時に、作中の時間軸である2013年と、日付と曜日が一致する初めての年です。例えば、クライマックスである第8話の内容は6月16日の日曜日の出来事ですが、今年の6月16日も日曜日なのです。さらに、2019年度は主人公たちが20歳になり、成人する年でもあります。『ちーちゃんはちょっと足りない』について、何重にも記念すべき年だと思います。
 この機会に、この作品について私が考えてきたことを、できる限り文章にしてみようと思います。1つの投稿記事を1章として、5章構成にするつもりです。お付き合いいただければ嬉しいです。
 もしこの漫画を読んでいないのなら、この文章はあなたにとって何の意味もないので、今すぐ『ちーちゃんはちょっと足りない』を読みましょう。1巻完結ですぐに読めて、思わず長い長い感想文を書いてしまうくらいの名作です。

 これから書いていく文章では、主にそれぞれの登場人物について考えていくつもりです。各々のキャラクターにとって『何が足りないのか』をキーワードに掘り下げ、そこから作品全体の構造を明らかにしていこうと思います。
 ただし、これから述べることは完全に私の独断に基づいた深読みであることをご了承ください。
 注意点として、この文章は読む人が『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで内容を把握しているか、手元に単行本があることを前提にして書いています。つまり、当然のようにネタバレします。
 ただし、『ちーちゃんはちょっと足りない』以外の作品については、本文中では基本的に言及しませんので、この作品を読んでいれば本文の内容は全て分かるようになっています。文中で『本作』という言葉を使った場合、『ちーちゃんはちょっと足りない』を指しています。
 本作以外の関連する作品に言及する場合は『脚注』で行います。他にも、情報の引用元なども脚注で書きますが、本文に入りきらなかった注釈という名の余談が圧倒的に多くなりそうです。
 また、文中に(p.100)のように指示する数字は、セリフや情報を引用した単行本のページを指しています。「かぎかっこ」が付いている語句は作中のセリフや心内語などの引用、『二重かぎかっこ』が付いている語句は強調のためのものです。

 前置きが長くなりましたが、以下から深読みを始めていきます。
 ちなみにこの第1章では、核心となる部分は1~5節です。6~9節は例示や補足に充てたので、5節までで結論には至ります。 
 ではいってみましょう。



0節. ちーちゃんは何が足りない?

 まずこの第1章では、タイトルロールである『ちーちゃん』こと南山千恵の足りなさについて考えます。
 千恵には何が足りないでしょうか。
 少し考えただけでも、千恵に足りないものはたくさんあります。計算能力や言語能力、それらを含む総合的な学力、身長をはじめとした身体の成長*1、体力*2、集中力*3、手先の器用さ*4、自制心、状況判断力や危機意識、恋愛や性への知識と意識、自身の金銭と家庭の経済力、携帯電話やゲームなどの所有物、父親の存在と母親に関わる時間*5、旅行などの文化的な経験、教養や常識·····。同年代の水準と比較して、ほとんどのものが足りないと言っていいでしょう。
 しかし、その中でも最も重要な足りなさ、千恵という人間を象徴する欠如とは何かを考えていこうと思います。



1節. 善悪の規範が足りない?

 千恵の最大の足りなさを考えるには、千恵の作中での最も足りない行動を見てみるべきでしょう。それはなんでしょうか。
 言うまでもありません。千恵の最大の逸脱は、女子バスケ部が集めていたお金を盗んでしまったことです。
 ここから最も単純に考えると、千恵に最も足りないのは善悪の観念だということになります。常識的な物事の是非と言い換えてもいいでしょう。この社会では人の物を盗むのは悪いことだとされていますが、そのことを理解していなかった千恵は何屈託なくお金を取ってしまったという見方です。野村(もしかしたら宮沢)が口にした「なんか悪びれもなくそういうことしそうだわ」(p.113)という千恵観がこれに近いと思います。

 しかし、この考え方には欠陥があります。千恵自身がお金を取ったことを隠そうとしていることです。例えば、お金を盗んだことを旭や奥島に咎められた時には、バレてないから心配ないと発言しています(p.156)。旭が宮沢たちに千恵の犯行を報告した時には、「いうなよ」(p.159)と旭を詰っていました。
 これだけなら、お金を取った時には悪いことだという認識はなかったが、藤岡が盗んだ犯人を締め上げると発言した(p.147)ために発覚を恐れるようになったとも考えられます。しかし、バスケ部のお金を取る前にも、千恵は母の財布からバレないように500円取るという『盗み』を犯しています(p.91)。そして、そのことで姉の志恵に怒られてしまうとナツに指摘されています(p.92)。そのことを千恵が完全に覚えているかは分かりませんが、バスケ部のお金を取った時に、人の物を取るのがまずいことだという認識が全くなかったとは考えづらいと思います。
 さらに、千恵はバスケ部のお金を盗んだ時、実際に教室に誰もいない機会を捕らえて、人に知られないように行っています。
 これらを合わせて考えると、千恵には盗みが悪いこととされているという最低限の認識があったのは確かです。


《まとめ1》 千恵は最低限の善悪の規範を持っており、盗みが悪事だとされていることを理解していた。



2節. 道徳心が足りない?

 すると、次に浮かぶのは、千恵に最も足りないのは道徳心だという考えです。モラルの欠如している千恵は、悪いことだとされているのは理解しながらも、全く罪悪感を感じることなく人の金銭を盗んだという見方です。
 この考え方は、バスケ部のお金を盗んだことを旭たちに打ち明けた時の千恵を見ると、当を得ているように思えます。本当にお金を盗んだのか旭に確認された時の千恵は、「おう とったぞ!」(p.155)と答えます。上気した笑みを浮かべ、鼻息を荒くして得意気です。
 この様子を見ると、悪事を首尾よくやり遂げたことを誇っているように見えます。まさに、道徳心がなく罪悪感が欠如しているという千恵観です。

 しかし、この捉え方も正しいとは言えません。千恵は盗みに対して罪悪感を感じないわけではないのです。
 母のお金を取ったとナツに告げた時、千恵は「テスト頑張ったご褒美に」(p.91)お金を取ったと言いました。もしも千恵が盗みに全く罪悪感を感じないのであれば、テストを頑張ったからという理由付けをする必要はありません。第1話で所持金が8円しかない(p.8)時点で母のお金を盗めばよく、3円に減り(p.38)、ジョスコでガチャガチャが回せない(p.61)時までその中でやりくりする必要はないのです。
 にもかかわらず、千恵はテストを頑張った時だけ、それを理由にしてお金を盗みました。これはすなわち、テストを頑張ったという『いいこと』で盗みという『悪いこと』を相殺しなければならないと考えているということです。つまり、千恵が盗みに対して罪悪感を抱く道徳心を持っているということに他なりません。

 これは実は、バスケ部のお金を盗んだ時も同じです。
 たまたまナツがお金を欲しがっているのを聞いてしまわなければ、そして、志恵から「ナっちゃんに恩返ししなきゃね」(p.102)と促されなければ、千恵がバスケ部のお金を盗んでいた可能性は低いと思われます。現に千恵は、盗んだ3000円を初めは全額ナツに渡そうとしていました。
 つまり千恵は、通常クラスメイトのお金を盗むのは悪いことだと分かっていますが、よくしてくれているナツの望みを叶えるという『いいこと』を目的としてそれを行えば、手段の罪悪が相殺されると思っていたのです。お金を盗んだことを旭たちに報告した時の得意気な顔は、それが千恵の中で善行と一連の行為だったからです。ナツの「ありがとう」(p.137)の一言で、千恵の心中の罪悪は浄化されていたのです。


《まとめ2》 千恵は悪いことに罪悪感を抱く道徳心を持っていたが、善い目的や理由があれば悪いことの罪を打ち消せると考えていた。



3節. 盗みを告白したのはなぜ?

 前節の内容からは、千恵には道徳心や罪悪感がないわけではないが、道徳や善悪のバランス感覚がかなり通常から外れていると言えるでしょう。千恵に最も足りないのは常識的な感覚であると言うこともできます。
 しかし、ここで終わらずにもう少し考えてみたいと思います。残された疑問として、なぜ千恵はお金を盗んだことを旭たちに話したのか、という点があります。
 千恵の中では、この盗みは善なる目的によって正当化されています。しかし、旭たちはその目的を知りません。ナツと約束した以上、千恵はお金を渡したことを話すつもりはなかったはずです。実際、ナツにお金を渡したことは最後まで言いませんでしたし、お金を誰かにあげたこと自体、問い詰められるまで喋ろうとしませんでした(p.163)。ということは、盗みの目的を旭たちが知ることは、千恵にとっては本来ありえなかったはずです。
 つまり、千恵の想定では、旭たちが聞くのは千恵がお金を盗んだという行為だけでした。これだけでは、千恵の道徳観からしても、留保のない悪事であるはずです。ならばなぜ、あんなにあっさりと得意気に旭たちに話してしまったのでしょうか。
 考えられるのは、旭と奥島と如月は自分に親切にしてくれる友達なので、多少の悪事を打ち明けても咎められることはないと思っていたということです。確かにそういう甘えの気持ちもあったかもしれませんが、それが主たる理由とは考えづらいです。

 その根拠を挙げる前に確認しておきたいのが、千恵は記憶力がそんなに悪いわけではないということです。
 確かに授業内容の暗記は不得意ですが、ナツたちに口頭で問題を出してもらった「天下の台所」(p.33)は、表記が不完全ながら覚えていました(p.81)。また、ナツと交わした約束は決して忘れずに守っています。他にも、おそらく前日に聞いた『お金がほしい』というナツの望みと恩返しを促す志恵の言葉を、お金を手に入れるチャンスに思い出して行動に移しています。さらに、わずかに混同しながらもナツの言葉をほぼ完全にオウム返し*6したり(p.19)、意味をあまり理解していないであろうナツの言動を、翌日になってから単語を拾って再現*7したりする(p.46)場面もあります。
 これらを総合すると、千恵は、具体的な出来事と結び付いた記憶や、会話の中での聴覚的な記憶は、かなり正確に覚えていると言えます。同時に、特にナツの言葉には常に耳を傾けており、記憶に残しているということも言えます。
 このことを前提に、千恵が盗みを告白した主な理由が友達としての甘えではないことを説明します。

 まず、以前にナツに母親からお金を盗んだ報告をした時でさえ、「テスト頑張ったご褒美に」という言い訳を付けていることが挙げられます。
 母親の財布から500円玉を抜き取るというのは、もちろん悪いことですが、家庭内のことで金額も小さく、まだ怒られて済む範囲のことです。それを話した相手も、一番親しい友達のナツです。それでも千恵は努力の報酬であるという正当化をしながら報告しました。そして、それでもナツは「そんなのダメだよ─────!」(p.91)と強く千恵を咎めました。さらに「それは使わずに返したほうがいいと思うよ」(p.92)と諭され、少なくともその場では素直に従い、盗んだお金を使うのをやめています。
 ナツとの会話内容に高い記憶力を発揮する千恵が、この出来事をすっかり忘れて、旭たちから咎められないと思って盗みの報告をするでしょうか。
 加えて、打ち明ける相手のうち奥島と如月は、ナツほど親しい相手とは言えません。そして、3000円という額は千恵にとって間違いなく大金ですし、それを学校でよく知らないクラスメイトから盗むことは、母親の財布から硬貨を抜くのとは比べ物にならないほど重大です。正当化する理由も付けずに打ち明けて、友達だから責められないと千恵が考えていたとは、ちょっと考えにくいです。

 さらに付け加えれば、千恵は奥島が「すき」(p.36)で、奥島からも好かれたいと思っています。そして、ナツから「お金に汚い女の子は(中略)奥島くんに嫌われちゃうよ」(p.39)と諭され、お金への執着を断ち切ろうとしています。
 これも千恵の記憶に残りやすいナツとの会話です。このやりとりを千恵が全て覚えていたとは断言できませんが、少なくとも奥島に自分の汚い部分を見せたくないという感覚はこれ以降も持っているはずです。その千恵が、現金の盗難というお金に汚い悪事をほとんど自発的に奥島に晒したことが、許してもらえるだろうという甘えからだけだったとは、やはり考えづらいです。


《まとめ3》 千恵は、自分の悪事を旭たちが責めずに許してくれるとは思っていなかったし、そもそも悪事を知られたくないと思っていた。



4節. 盗みを悪事だと思っていなかった?

 前節で述べたことは、実際の千恵の行動と明らかに矛盾するように見えます。実際には千恵は、ほとんど自分から盗みを告白したじゃないか、と。
 しかし、この矛盾を解消する考え方があります。そもそも千恵は、自身の行為を旭たちが悪事と見なさないと思っていた、という捉え方です。
 どういうことかというと、まず、千恵の中では、『お金を盗む→ナツにあげる』という一連の行動が善行としてラベリングされています。なので、そのうちの前半部分だけを相手に伝えても、それは善行の一部として受け取られる、少なくとも罪悪は打ち消された状態で伝わる、というのがここでの千恵の感覚なのです。
 もちろん、後半部分を知らない旭たちにとって、前半の千恵の行為は何ら酌むべき事情のない単なる悪行です。しかし千恵は、自分と相手との情報差を意識していません。自分にとっての善行をやり遂げたことに満足している千恵は、自分にとっての善行は旭たちにとっても善行だというところまでしか思考がたどり着いていないのです。つまり、相手の立場から自分の行動がどう見えるか、という想像をしていないのです。
 また、言うまでもないですが、恩返しとして友達に贈るという目的を知ったところで、旭たちは盗みの罪悪が相殺されて善行になるとは考えませんし、それが一般的な感覚です。そういう意味で、千恵は二重に相手の認識を測り違えていたと言えます。
 このように、ここでの千恵には、自分が他者からどう見えるか、相手の立場ならばどう考えるか、という発想がはっきり不足しています。一言で言えば、『客観性』の欠如です。

 そしてこの客観性のなさは、千恵の最大の逸脱であるお金の盗難とも繋がっています。
 千恵は道徳や善悪の観念を持っているが、そのバランスが著しく偏っていると先に述べました。これはすなわち、自分の中の道徳観を周囲の人や世間一般と比べて客観的にすり合わせることを行わなかったということです。その結果、恩返しという善い目的によって盗みという手段の罪悪が相殺されるという、明らかに規範から逸脱した考えに基づいて行動してしまいました。
 また千恵は、自分がお金を盗む相手のことを全く考えていませんでした。千恵は、自分が藤岡にヘアゴムを奪われ、妹にあげるためにもらっておくと言われて初めて、盗まれた側にとっては目的が手段を正当化しないことに気付きます(p.168)。つまり、自分と違う立場の人間の気持ちを想像して自分の行為がどう捉えられるかを考えるということをしていなかったために、人の物を盗む際に躊躇しなかったのです。やはり、客観性のなさが盗みという過ちに通じていると言えます。


《まとめ4》 千恵は、旭たちが盗みを悪事だと捉えないと考えて告白した。また、盗む時に持ち主の気持ちを考えなかった。どちらも、他人の視点からどう見えるかという考えの欠如である。つまり、千恵は客観性のなさによって、規範を逸脱した行動を引き起こした。



5節. 客観性が足りない?

 さて、いよいよ核心に近付いてきました。
 千恵の重大な逸脱行動は、客観性のなさによって引き起こされていました。
 それでは、千恵の最大の足りなさとは客観性の欠如なのでしょうか。千恵は本質的に、他者から自分がどう見えるか、相手がどのように考えているかを想像する能力に欠けているのでしょうか。

 それを考える上で参考になる描写があります。
 第1話の後半、理科の小テストが全く分からない千恵は、「図から読み取る」(p.19)というナツの助言の断片を思い出し、図中の膀胱の形から陰嚢を連想、答えのうち一つは陰嚢だと考えて全ての解答欄を『キンタマ』で埋めました。そのことをナツに突っ込まれた千恵は、驚いた顔をした後、「かーっ」と赤らめた顔を両手で覆って俯きました(p.23)。
 同じ描写がもう一度あります。第3話の冒頭、自宅の一室で一人でマジカルラブドラゴンごっこに興じていた千恵は、志恵が部屋に入ってきて声を掛けた瞬間に真顔に戻り、やはり「かーっ」と赤らめた顔を両手で覆って俯きますが、志恵は「団地中に轟かんばかりの勢いで聞こえてるから」と追い討ちを掛けます(p.54)。
 この2つの場面、それぞれの前半はまさに千恵の客観性のなさを描いています。ナツが言う通り、答え全部が睾丸になるテストなんてありえませんし、たとえ千恵が真面目に点を稼ごうとしたとしても、採点する先生からしたら中学生女子らしからぬ下ネタでふざけているようにしか見えないでしょう。また、そう広くはないであろう千恵の家で、隣室に志恵がいることを知らないとは思えず、ふすま一枚隔てただけの志恵に自分の大声が聞こえているのは、普通に考えて分かることです。
 それぞれの場面で、千恵は自分の考えや遊びにのみ集中し、周囲の人間にそれがどう伝わるかを全く意識していない、客観性のない状態だったのです。
 それでは、その後の赤面して顔を覆う千恵はどうでしょうか。これは明らかに、恥ずかしがっている態度です。
 この『恥』という感情はどこからくるのでしょうか。Wikipediaの『羞恥心』の記事の冒頭が参考になるので、以下に引用させて頂こうと思います。
 “ 羞恥心(しゅうちしん、英: shame)、恥、恥じらいとは、対人場面における何らかの失態の結果や、失態場面の想像によって生じる対人不安の一種である。”*8
 ここで恥とは、対人関係での失態に対する不安だとされています。つまり、自分が何か失敗したことに対して、相手がみっともない、おかしい、期待外れだと思うことを想像して、人は恥の感情を抱くのです。もちろん、『自分で自分が恥ずかしい』という感情もありふれたものですが、これも、自分を対象として外から評価するというメタ認知に基づいたものです。いずれにせよ、恥ずかしいという感情は、自分を見る他者の視点を想像する客観性によって引き起こされると言えます。
 ということは、恥の感情を発露する千恵は、客観性を発揮しているということになります。分かりやすい羞恥の態度が二度繰り返されているのは、千恵に他者からの視線を想像する能力があることの明示です。 
 ここにきて私たちは、なんとなく共感していただけのナツのモノローグ「あっ  ちゃんと恥ずかしいんだ」(p.23)を理屈で説明することができます。この時のナツと我々の気持ちを冗長に言えば、『千恵は他者の視線を想像する能力を持っていないと思っていたけど、実はちゃんと自分を客観的に見て羞恥を感じることができたんだ』ということなのです。

 このように、千恵には客観性が備わっていて、相手の立場や自分への視点を想像する能力があります。それでは、千恵が実際に客観性に欠けた行動を取っているのはどういうことでしょう。
 もう少し詳しく見てみましょう。
 オールキンタマの答案を書き、それを得意気にナツに見せたところまで、千恵は客観的な視点を欠いています。しかし、ナツが突っ込んだところで初めて気付いた表情になります。ここで、ナツという他者の指摘を受けることによって、千恵は客観性を取り戻します。そして、復活した客観性に苛まれて赤面するのです。
 第3話でも同じです。一人でマジカルラブドラゴンになりきっている千恵は客観性が引っ込んだ状態です。そこに志恵という他者が現れた瞬間に、千恵は客観性を取り戻して恥ずかしさを感じます。隣室の志恵や近隣の住人に自分の大声が聞こえていたことも、さっきまでは意識していませんでしたが、客観性が戻ってきて赤面している状態では理解しているはずです。
 要するに千恵は、能力として客観性を備えているが、それを発揮できていない時が多いということになります。そして、他者からの視点を意識した瞬間に客観性を取り戻すのです。
 つまり、千恵の足りなさは、自分を見ている具体的な他者の存在を意識しなければ客観性を発揮できないところにあります。それゆえに、客観性をもって判断して行動するべき場面で、必要なレベルの客観性を働かせることができないのです。一言で言えば、『客観習慣の不足』です。

 この客観習慣の不足によって、千恵は、行動する前に自分のことを相手や第三者の視点で見てみることをしませんでした。
 具体的には、一般的なバランスの取れた道徳観を考慮することができませんでした。お金を盗む前に盗まれた相手の立場に立って考えることもしませんでした。また、盗んだお金を贈られた相手が純粋に喜ぶだろうか、と想像してみることもしなかったはずです。さらに、自分にとっての善行が見え方の違う他者にとっても善行か、と考えてみることもしませんでした。
 それらの結果として千恵は、お金を盗んで友達に贈った上に盗んだことを人に話すという、普通ならありえない重大な逸脱行為に至りました。
 客観習慣の不足こそが、作中での千恵という人物を象徴する最大の足りなさなのです。


《まとめ5》 千恵は能力としての客観性自体は備えているが、それを適切に発揮する習慣が付いていない。この『客観習慣の不足』が、千恵の最大の足りなさであり、足りない行動の原因である。



6節. 客観習慣の不足と実際の行動

 前節で見たような、客観能力がないわけではないが客観習慣が不足しているという性質は、最も足りない行動であるお金の盗難以外にも、千恵の様々な言動に反映されています。それが分かりやすい4つの例を順番に見てみましょう。

 まずは、第1話中盤の蜂にまつわる騒動です。
 授業中に定規とペンで遊んでいる(p.12)千恵は、自分だけの世界に入っていました。その後、教室に入ってきた蜂に向かって進み出て、ナツを見て自信ありげに頷いてみせた(p.13)時点では、ナツからの視線だけを意識しています。しかし、蜂を叩き落とし、「南山さんすげぇな」(p.15)という男子の声を聞いた時に、クラス中から注目を集めている自分に気付き、ノリノリでポーズを決めます。その直後に蜂に刺されてしまうと、大声で泣きながら「おしっこかけて──」(p.17)と叫んでおり、周囲の目を全く気にせず恥を感じない状態になってしまっています。その後の昼食の時間にナツに「わんわん泣いちゃってさ」(同)と言われ、「? 泣いてないが?」と答えた時は、クラスメイトの前で大泣きしたことを恥ずかしく思う気持ちは取り戻していますが、それをみんなが見ていたのでごまかすことはできないという想像力までは働いていません。
 以上のように千恵は、基本的に状況を客観的に見て行動できていません。ただし、周囲の発言などで具体的な他者からの視線を意識することで、客観性のレベルが上がっています。周囲への注意と想像を自分で適切にコントロールする習慣の不足だと言えます。

 2つ目の例として、第2話では、奥島にもてようとする千恵が描かれます。
 もともと千恵は奥島にただ懐いていました。それが、男の子と付き合うことについてナツと話したことで、奥島から好かれる自分になることを意識し始めます。ナツの「ファッション誌読んだり」(p.38)しないと恋人ができないという言葉を参考に、志恵のファッション誌で『天然娘』の特集を読み、志恵の解説の結果『あほになればもてる』という結論にたどり着き、奥島の前で『あほ』を演じます。
 まさに第2話全体が、相手からの見え方を気にする習慣のなかった千恵が、他者の指摘によってどう見られるかを考えて行動するようになるシークエンスなのです。しかし、もともと自分を客観視する習慣の足りない千恵なので、自分の論理の繋がりや、自分が本当に魅力的に見えるかを客観的に検討しておらず、結果的に大幅にズレた行動を取ってしまいました。
 同時に、男の子と付き合いたいかとナツに訊かれた千恵が「············ もうすでに付き合っていた事実!」(p.37)と「ばればれの見栄」を張った一コマの中でも、同じことが起こっています。おそらく男子と交際することなど考えたこともなかった*9千恵は、ナツから話を振られたことで『すでに付き合っている方がかっこいい』と自分の見え方を考えて嘘をつきました。しかし、相手から見るとその嘘がばればれだというところまでは考えなかったわけです。

 3つ目の例として、第3話で、志恵に買ってもらった靴とヘアゴムを千恵がナツに見せつけようとするシーンがあります(p.73)。
 普段の千恵はお洒落に興味を示さず、小学生の頃から履いていたボロボロの靴にも自分から不満を言うことはありませんでした(p.54)。これは、自分の格好を客観的に見て評価する習慣がないということです。しかし、自分の気に入った新しい靴とヘアゴムを入手した千恵は、さらにそれを見てくれる具体的な相手であるナツが現れたことで、相手から見た自分を強く意識したのです。
 
 4つ目の例は第6話にあります。ナツが欠席していた時のことを説明しようとする千恵は、「昨日  旭とおぐじまとぎざらぎと3人でたべた  ひるごはん」(p.144)と発言して、「ちーちゃんがそこにいなかったことになってるよ」と突っ込まれてしまいます。
 自分を数に入れずに人数を数えている時、千恵の頭の中では主観的な自分の視界を思い出し、自分から見えている人を数えているのでしょう。自分を含んだその場の全員を客観的に想像せずに説明しているということであり、典型的な客観習慣の不足です。

 事例を挙げるのはこの辺りまでにしますが、この他にも細大さまざまな行動に、客観習慣の不足という千恵の性質は表れていると思います。


《まとめ6》 客観習慣の不足は千恵の様々な行動に影響しており、通常からズレた行動を取ってしまっていることが多い。



7節. 客観習慣の不足と言語能力

 さらに、客観習慣の不足は、千恵の言語能力とも関わっています。
 千恵は会話が得意とは言えません。言葉が足りずに言いたいことが伝わりにくいことがよくあります。また、長い文章を話すことは少なく、「休んだ学校なんで!」(p.134)のように、単語やフレーズの順番がバラバラだったりして繋がりの分かりにくい発話が多いです。
 
 ただ、千恵の言語能力の低さは、単語や文法の知識が足りないことが直接の原因ではないと思います。
 確かに千恵は『天然』が分からないなど、単語知識の不足はありますが、発言内容を見ると、日常会話が困難なほど語彙が乏しくはなさそうです。また、「高2にもなって 彼氏いたことないくせにー  この前も好きな人に彼女がいたって ごはんも通らないほど落ちこんでたくせに──」(p.6)のように、反撃のために用意していた文章であれば、長くて文法的にも筋の通っている発言ができています。他には、「フリーソフトドリンクのこと!  一回はらったらのみほーだいという事実!」(p.104)なども文法の混乱のない発言ですし、千恵には難しそうな言葉も、日常的に馴染みがあれば意味も含めて理解していることが分かります。
 それでは、千恵の話すことが分かりにくくなる原因は何なのでしょうか。

 千恵の伝わりにくい発話は、2つのパターンに分けることができます。
 まず1つ目は、必要な言葉が抜けるパターン。抜ける言葉は主に主語です。例えば、通学途中に出会った旭に言った「彼氏いないいないって言ったらなみだめで出ていってよ─── ふまれたけどぜんぜん痛くないし 笑えるだろ!」(p.7)という発言。旭には「は? 意味わかんねー」(p.7‐8)と言われてしまいます。この文章は『お姉に』という意味上の主語が抜けています。それさえ補えば、笑えるかどうかはともかく、千恵が朝から姉妹喧嘩をしたことは伝わったでしょう。また、教室から出てきた旭に「旭 おわった!」(p.29)と声を掛けたのも、「何が?」「千恵は相変わらず言葉が足りねえな」(同)と返されています。『何が?』も『言葉が足りない』も主語がないという指摘です。これも『旭 掃除はおわったか!』とでも補えば意味が通じます。
 そして2つ目の伝わりにくい発話パターンは、言葉の順序の入れ替わりです。これは頻繁に起こっていますね。「欲しい! ファッション誌  したい! オシャレ」(p.38)、「じゃあお母のとって サイフから ためるのでそれで」(p.136)、「ほしい  新しいゲームとか オモチャとか  もっと」(p.161)などで顕著です。述語、特に自分の行動や願望を文の最初に持ってきて、目的語を後ろに回す発言が目立ちます。もちろん、多くの発言で起こっているので、先に挙げた「休んだ学校なんで!」のように、他者の行動を言う述語が先に来る場合もあります。
 また、「するな みんな しんぱい ないから バレて」(p.156)のように、焦っていると語順の混乱が強調されるようにも思えます。

 この2つのパターンの不規則な発話はどうして起こるのでしょうか。
 まず1つ目の主語が抜けるパターンを考えてみます。自分が喋っている時は、何について喋っているのか自分はもちろん分かっています。なので、その話の主体が『何をした』『どうだった』ということを伝えようとします。しかし、それを聞く相手は、何についての話かという前提を共有していません。それゆえに、主語がないことで話が伝わらないということが起こるのです。つまり、相手と自分が前提として持っている情報の差を考慮していないということなので、典型的な客観習慣の不足に起因する状況です。
 もう1つの、語順が混乱するパターンも原因はほぼ同じです。何についての話かを飛ばして『何をした』『どうだった』を話そうとするので、文頭に述語が来ます。その後に、それだけでは伝わらないことに気付いて目的語や修飾語を入れるので、語順がバラバラになるのです。自分が言ったことが不十分だと気付いて補足する分、主語がないパターンよりは相手のことを考えていると言えます。しかし、自分が話すことを口から出す前に、伝わるかチェックする段階を踏んでいないという意味で、客観習慣の不足によって引き起こされていることに変わりはありません。
 自分の願望を言う時や焦っている時に語順の混乱が強くなるのも、自分の感情だけで精一杯の状態で発言しているために、普段よりさらに客観性が働いていないからだと考えられます。

《まとめ7》 客観習慣の不足によって、千恵は相手が分かるかどうかをあまり考えずに話すので、伝わりにくい発言になることが多い。



8節. ちーちゃんはずっと足りないまま?

 ここまで見てきたように、千恵の最大の足りなさは客観習慣の不足でした。そして千恵は、この足りなさが原因で、重大なものから些細なものまで様々な逸脱した行動や発言をしてしまっています。それでは、この足りなさはどうしようもないのでしょうか。千恵は、客観習慣の欠如をそのまま抱えて生きていくのでしょうか。
 その答えは、明確にNOです。なぜなら、習慣は変えられるからです。
 千恵に足りないものが客観性という能力自体だったなら、それ以上向上することはなかったかもしれません。しかし、客観性を働かせるという習慣であれば、周囲の環境や意識的な習慣付けによって改善することができるはずです。
 そして、実際に作中には、千恵が少しずつ客観習慣を身に付けていることを示す描写がいくつもあります。それらの例を見てみましょう。
 
 まずは、繰り返しの言及になりますが、千恵が盗みを謝罪したシーン(p.168)です。
 この場面の前までの千恵は、自分がお金を盗んだ相手のことを全く考えていませんでした。しかし、藤岡に盗まれた側の気持ちを体験させられたことで、自分にお金を盗まれた相手の立場に考えが至り、心から反省して謝ることができました。違う立場を経験することで、相手の立場に立って考えることができるようになったわけです。これはつまり、客観的な視点を得ることができたのだと言えます。
 そして、この経験は千恵にとても強い印象を与えたはずです。もしも次に他人の物を盗む誘惑に駆られたとしても、千恵はこの時のことを思い出すでしょう。そして、盗まれた相手のことに考えが至り、盗むことをやめるに違いありません。だとすれば、特定の状況で他者の立場に立って想像を働かせることを習慣付けることができたということになります。

 このような、他人の気持ちを想像するという形で客観習慣を身に付けていくには、他者に共感する能力が大きな助けになります。そして、千恵は高い共感能力を持っています。
 例えば、小学1年生の時の千恵は、同じ団地に住んでいるだけのナツに対して、喋る前からすでに仲間意識を抱いていました。そして、偶然なのか、それとも何かを察したのか、ナツが心の中で欲しがっていた『ふしぎの国のアリス』を取ってきてナツに手渡しました(p.94)。
   また、ナツが「お母さんなんて大っきらい!」(p.102)と駄々をこねるのを聞いて、「かわいそう  ナツ!」(同)と同情するシーンもあります。 
 最も強く共感能力が発揮されるのは、終盤にナツと橋の上で出会った場面でしょう。笑顔でナツに駆け寄ってきた千恵は、ナツが泣いているのを見て泣き出してしまいます。その理由を尋ねられた千恵は、「だって泣いてるから ナツ」(p.218)と答えるのです。
 これらのような高い共感能力は、描かれている限りでは最も親しいナツに向けられることが多いです。そして、ナツへの仲間意識と同情がお金を盗む引き金となったのも事実です。
 しかし、自分が盗まれた側に立ったことで相手の気持ちを理解したように、共感をナツ以外に及ぼすこともできていますし、それによって客観習慣を拡張できています。これから多くの人と関わって様々な経験をすることができれば、千恵の共感能力は客観習慣を身に付けていくための強い助けとして働いていくはずです。

 その他にも、作中で客観習慣が身に付いていっている描写があります。
 例えば、6節では客観習慣の不足の例として挙げた第2話の千恵の行動も、見方を変えれば客観習慣の発達の過程でもあります。
 奥島にもてようとする千恵の計画は上手くいったとは言えませんが、男子から自分がどう見えているかを意識したこと自体が、千恵に足りていない客観視点の導入だと言えます。恋愛についてのナツとの会話の中でその視点を意識し始めたわけです。そして、奥島に好印象を持たれるためにある人格を『演じる』という行動選択は、明らかに客観習慣の強化によって現れた発想です。

 物語を通じて千恵が客観習慣を発展させる描写はまだあります。
 第4話では千恵は、社会のテストで23点を取って大喜びします(p.80)。もちろん、クラスメイトと比べれば相当低い点数です。しかし千恵は、いつもの自分の点数と比較して高得点だと喜んでいるのです。他人と比べて見ることをせず、自分の基準だけで自分を評価していると言えます。
 その後に、ナツとグッズショップに行った千恵は、「ちーちゃんは何か欲しいものあった?」(p.89)と尋ねられ、首を振って自分の頭の『マジカルラブドラゴン リュー』のヘアゴムを指差します。これがあるから他の物はいらないというわけです。一般的に見て、女児向けアニメの200円のガチャガチャのグッズは、中学生が身に付ける物ではありません。しかも、目の前には学校の女子たちの間で流行している1000円以上のリボンがあります。それでも千恵は、自分が可愛いと思ったヘアゴムで満足していると胸を張るのです。ここでもやはり、周りと比較せずに自分の基準だけで考えています。
 以上のように、第4話時点での千恵は、自分を客観的に他者と比べることはせず、自分が主観的に満たされているかどうかだけで自分の境遇を評価していました。これはまさに、客観習慣の不足の一側面だと言えます。
 それに対して、第7話で盗んだお金を返すよう言われた千恵は「ちーだってほしい!  ゲームくらいみんな持ってる!」(p.156)と叫びました。また、藤岡たちに盗みが明らかになった後に、「ちーだけ おこづかい すぐなくなる」(p.161)「もっともっともっと いっぱいいっぱいほしい ちーにはなにもない  なんで!」(p.162)と語ります。
 ここでの千恵は、自分を他者と比べています。自分を『みんな』と見比べて、『みんな持ってる』ものを『ちーだけ』持っていないことに気付いています。そして、そのことを理由に『もっといっぱいほしい』と言っているのです。つまり、自分を外的な基準である他者と比較し、その間にある差を認識して、不公平を是正するよう主張しているわけです。この時点では明らかに、自分と他者の境遇の差を客観的に評価する視点が千恵の中に現れています。
 この時の千恵の発言は、お金を盗んだことを責められた時に出てきたものです。千恵の中でお金を盗んだことは、ナツに贈るという目的によって正当化されていますが、それを話すわけにはいきませんでした。またその目的は、自分が持っている2000円を返さない理由にはなりません。そのために別の言い訳として千恵が持ち出したのが、人より持っていない自分が不公平を均すために人から奪ったというものでした。
 また、2000円という自分にとっての大金を急に手に入れた時、千恵はプレステ3を買うことを考えています(p.135)。それまでは全くの非現実だっただろうゲームを買うことを、一定の現実味を伴って考えてみた上で、お金が全然足りないという現実に直面しました。このことも、みんなが持っているものを自分は全く持っていない、ということを意識するきっかけになったのではないでしょうか。
 これらの直接間接のきっかけによって、他者と自分を比較してその差を認識するという見方が現れたのです。
 ただし、自分を他者と比べる発想が、それ以前の千恵になかったわけではありません。第3話時点で、気に入った靴が足に合わなかった千恵は「いっつもちーだけイジワルする  なんで!」(p.70)と泣き叫びました。『ちーだけ』と、他者と比較する視点がすでにあります。しかし、ここではまだ、漠然と自分が他者より恵まれていないという不満を吐露しているにすぎません。他者と比較しての具体的な差を認識していない、ごく不明瞭な客観視点です。
 それに対して、前述のきっかけを経た千恵は、『ゲームなどの他の人が持っている物を自分は持っていない』という風に、自他を比較する基準を明確にして、具体的な格差を言語化できました。千恵の中に存在した客観的な視点が、経験によってより強く明瞭に表に出るようになったわけです。まさに、客観習慣が発展していると言えます。


《まとめ8》 客観習慣は経験によって獲得できるし、千恵はそのための素地を持っている。実際に作中でも、いくつもの場面で客観習慣を身に付けていっている。



9節. ちーちゃんは大人になる

 さて、前節の後半を読んで、多くの方は『客観習慣を得ることで他人と比べてしまって不満を抱くのなら、客観習慣が足りないままの方が良かったのでは?』と思われたことでしょう。これは一面では正しいです。
 客観習慣の不足は千恵の最大の足りなさであり、重大な失敗の原因になりました。しかし、千恵という人物を象徴する大きな特徴でもあります。千恵が単なる迷惑な奴や悪人ではないのと同じく、客観習慣の足りなさという性質もただ有害というわけではないのです。
 例えば先ほど述べたように、自分を客観的に他者と比べる習慣がなければ、他人より劣っていたり不遇だったりすることを気にせず、純粋に自分が満足すれば幸福に生きられます。これはつまり、足りなさゆえに自分の足りなさを見ずに済んでいるとも言えます。
 また、千恵は、奥島や如月、和解後の藤岡、小学1年生の時のナツなど、多くの人にすぐ懐いています。相手に遠慮したり空気を読んだりといった客観的な習慣がないことで、屈託なく相手の懐に入り、親しくなれる部分があると思います。
 このように、客観習慣が足りないことは、千恵の人生にプラスの影響も与えています。しかしそれでも、千恵は作中で少しずつ客観習慣を身に付けていますし、これからも身に付けていくでしょう。なぜなら、客観習慣の不足は幼さでもあるからです。

 幼い子供は、物事を主観的に感じ取ることで精一杯です。そこから少しずつ思考力が育つ中で、直接見ることのできない他人の考えを想像したり、自分が外からどう見えるか考えたりする客観性を獲得します。そして、適切に客観性を働かせることを習慣化することで、大人として自分の立場を自覚し、周囲から期待される行動が取れるようになっていきます。
 千恵は、身体も中学生にしては小さいですが、精神の成熟も同年代の水準に達しているようには見えません。千恵が精神的に幼いのは、客観習慣が育っていないことと相同関係にあると言えます。
 例えば、7節では千恵の客観習慣の不足が言語能力に表れていることを述べましたが、語の脱落や語順の混乱といった言語の未発達は、まさに幼い子供に特徴的なものだと言えます。*10
 また前節では、千恵は作中で自分と他人の境遇を比べる視点を身に付けたと言いました。しかし、他のみんなが持っているから自分も得られなければ不公平だという考え方は、ナツは小学3年生ですでに身に付けていたものです。旅行先で光るおみくじを母親にねだる回想シーンの「ほかの子だってたくさん買ってるもん」(p.130)というセリフにそれが表れています。比較すると、千恵の客観習慣の成長が遅いことが分かります。
 子供は子供ならではの無邪気さや喜びなど、大人にないものを持っています。しかしそれは基本的に子供のうちだけ持っているもので、そのままそれだけを持ち続けている訳にはいきません。千恵が客観習慣の足りなさから得ているものの多くは、子供としての強みです。むろん、客観習慣の足りなさは千恵自身の人格の特徴でもあるので、完全に捨て去るべきというわけではありません。しかし、千恵はこの先、客観習慣を少しずつ身に付け、大人としての強みを優先していくことになるでしょう。
 
 そして、千恵は徐々に、しかし着実に大人に向かっていっています。客観習慣が物語の中で身に付いていったことは前節で述べた通りですが、それ以外にも千恵の成長の兆しは表れています。
 例えば第6話の終盤では、奥島が「来年  受験だから  南山さんが放課後とかに勉強教えてって」(p.151)と言っており、千恵が学力を向上させようと自主的に行動しているのが分かります。これは第3話で志恵に「来年は受験だからね  しっかりするんだよ」(p.57)と言われたことと、欲しい靴を買ってくれたら勉強を頑張ると約束したこと(p.67)を受けてのことでしょう。千恵は勉強がとても苦手ですが、姉からの働きかけをしっかり受け止め、少しでも成長するために自ら努力をし始めているのです。
 また、第8話の終盤、千恵は一人でバスと電車を乗り継いで遠出をし、「すごいだろ ちー!  大人!」(p.218)と誇ります。ナツもまた「ちーちゃんも変わろうとしてるんだね」(p.219)と成長を感じ取ります。第6話で努力し始めた千恵が描かれ、第7話でも千恵の客観習慣の成長という幼さの克服が描かれていたので、物語の終盤では千恵が大人に近付いていく描写が重ねられていると言えます。そして、色々な経験をすることは、また少しずつ客観習慣を身に付ける助けになるはずです。
 ナツが感じ取った成長と言えば、オールキンタマのテストに突っ込まれて赤面している千恵(p.23)もそうです。あの恥ずかしがるという感情が客観性の発露だというのは前述の通りです。それに対してナツが「あっ  ちゃんと恥ずかしいんだ」(同)と思っているので、ナツにとってこの反応が意外だったと分かります。7年来の付き合いのナツからしても恥ずかしがる千恵が新鮮だったということは、客観性が恥という形で表れる思考の習慣が最近身に付いたものだと想像できます。第1話に至るまでにも、千恵の客観習慣は成長してきていたということです。
 それから、最終第8話の後にナツと一緒に団地に帰った千恵は、行き先も告げずに出かけて長時間帰らなかったことで、志恵にこっぴどく叱られるでしょう。しかし、志恵が本当に自分を心配していたことを、千恵は強く感じ取るはずです。そうして、自分の行動が誰かを心配させないか考えるという、客観的な思考の習慣へ少し近付くでしょう。その結果、出かける時には行き先と帰宅時間を言っておくという、具体的な習慣としても身に付けていくはずです。物語が終わった後も、千恵の成長は続いていくのです。
 以上のように、千恵はこれまでも少しずつ客観習慣を身に付けてきていて、作中での経験でこれまでより大きく成長し、これからもさらに適切に客観性を発揮できるようになるでしょう。それによって、自分を省みてより良い行動を取ったり、相手の気持ちを慮ったりできる人間に成長していくはずです。他の人よりゆっくりとですが、確実に千恵は大人になっていくのです。


《まとめ9》 客観習慣の足りなさは幼さでもある。しかし、千恵は物語が始まるまでも、物語の中でも、あるいは物語が幕を閉じた後も、客観習慣を少しずつ身に付け続けている。つまり、千恵は着実に大人になっていっている。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 文脈から大きく外れない範囲で、私が思い付く限りの千恵という人間の性質と事例を盛り込んだので、こんなに長い文章になりました。
 できればそのうち、肉付けを剥ぎ取って骨子だけに編集したショートVer.も作ろうかと思っています。

 しかしその前に、第2章を出します。
 第2章はナツです。『ナツは何が足りないか?』を考えました。
 この第1章の続きに当たりますので、読んでいただければ嬉しいです。

 



脚注(余談)

*1:【身体の成長】
 千恵は同級生の誰と比べても相当身長が低く描かれています。また、足のサイズが18cmもないと言われています(p.69)が、これは6歳児の平均程度です。

*2:【体力】
 人と歩いていてすぐ疲れてしまう描写がp.57とp.90の2回あります。

*3:【集中力】
 授業中に文具で遊んでいるシーン(p.12)と、「いっつも授業中でもチョロチョロしてる」(p.108)という藤岡の発言で、千恵が普段の授業に集中できていないことが分かります。ただ、千恵の学力を考えれば、集中したところで授業内容を理解できないという問題もあるのでしょうけど。p.143の1コマ目は教室の前半分の光景ですが、集中力のない千恵と一人だけ態度の悪そうな男子生徒の席が教卓の真ん前にあり、千恵の逆隣にはクラス委員長の奥島がいて面倒を見ている(p.32)という席順は、担任教師の学級運営の手法としてかなりリアルなものを感じます。

*4:【手先の器用さ】
 靴紐を結べないことに言及されている(p.66)ほか、箸を上手く使えていない描写(p.145)があります。

*5:【父親の存在と母親に関わる時間】
 明言されていませんが、南山家は母子家庭だと思わせる描き方をされています。ゴールデンウィークの過ごし方について千恵が「お母とお姉と行った!  レストラン!」(p.84)と言うように、父親の存在は徹底して言及されません。また、もう1人の主要人物であり、千恵と比べるとまだ経済的余裕のあるナツの家が母子家庭であることも、南山家にも父親がいないことを想像させます。もちろんシングルマザーだからと言って貧困だとは限らないですが、両者に強い相関があるのは統計的事実です。母子家庭の貧困やその他の足りなさは、作者の出世作空が灰色だから』(秋田書店)1巻収録の第3話「空が灰色だから手をつなごう」でもクローズアップされていました。千恵の母がナツの母と違ってセリフすら作中に登場しないのも、「お母さん今日もパートだ  いつ休んでるんだろ」(p.192)と娘に心配されるナツの母よりもさらに忙しく働いていることを思わせます。

*6:【オウム返し】
 「心臓は胸のあたりでしょ  もっと問題の意味を文や図から読み取らないと」(p.19)というナツの発言を、「じんぞうは胸のあたり  もっと問題の意味を文や図から読み取る」と、心臓と腎臓を混同した以外はほぼ完全に繰り返しています。また、その後のテスト中に膀胱の図に注目しすぎてオールキンタマになったのも、「図から読み取る」の部分を覚えていたからだと思われます。

*7:【再現】
  p.37でナツが男子との交際について思うことを語っているセリフを、千恵は翌日の学校で真似しています(p.46)が、再現は断片的で内容を理解していたとは思えません。ここで注意したいのは、ナツが話している時の千恵は真似するつもりで聞いていたわけではないということです。この後に帰宅して志恵と会話して初めて、千恵にはナツを真似する必要が生じます。つまり、理解せず覚えるつもりもなく聞いていた話の単語や言い回しを、後から思い出して再現できたということです。これは千恵が普段からナツの言葉に注意を向け、無意識に記憶していたということを示しています。

*8:【引用元】
羞恥心 ‐ Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%9E%E6%81%A5%E5%BF%83
2019.6/12に参照

*9:【考えたこともなかった】
 第1話冒頭で、千恵が志恵を「彼氏いないくせに─── 彼氏いないくせに───」(p.6)と挑発し、「おめえもだろ!」と返されるシーンもこのことを示しています。失恋を気にしている志恵に対しては『彼氏』を持ち出して攻撃しますが、自分自身が男子と付き合うことは想像の外だったためにこういうことが起こります。同時にこの場面も、千恵に自分を省みる客観習慣が足りないことが分かる好例の1つです。

*10:【言語の未発達】
  幼い子供の言語能力の未熟さについては、作者が本作と一部重なる時期に連載していた『ブラックギャラクシー6』(秋田書店)でも描かれています。第11話「今を次世代に託すシックス」で小学1年生の弥和が語順の混乱した喋り方をし、それを主人公のギドラが「倒置法の使用率がすごいね」(単行本p.58)と形容しています。