深読みの淵

漫画とかを独断と妄想で語ります。

『ちーちゃんはちょっと足りない』深読み感想まとめ みんなは何が足りないか

目次


0.みんなは何が足りないか

 漫画『ちーちゃんはちょっと足りない』(阿部共実秋田書店)  について、以前つらつらと書いた感想文をまとめた記事です。
 主要な登場人物それぞれの持っている「足りなさ」について書いていきます。
 作者の意図を考察しようとするものではなく、深読みで独自解釈する文章ですので、その点ご了承ください。


1.ちーちゃんは何が足りないか

 この物語の主人公、ちーちゃんこと南山千恵は色々なものが足りません。学力、常識、身体の成長、所持金、文化的経験、親との時間などなど。では、一番足りなかったものは何でしょう?  要は、物語の中で最も重大だった千恵の短所は何かということです。
 答えは「客観習慣」です。つまり、他者がどう思うかを想像する習慣が足りなかったことが、千恵の最大の問題だったのです。

 ではまず、この「客観習慣の不足」が表れた場面を見てみましょう。それは、千恵が顔を覆って「かーっ」と赤面するシーンです。この描写は、オールキンタマ答案にナツがツッコんだ時と、マジカルラブドラゴンごっこの声が近所に響いていたのを姉に指摘された時の2回繰り返されています。
 ここで大事なのは、恥という感情は自分がどう見られているか想像するために生まれることです。つまり、恥ずかしがっている千恵は客観的に考える能力を発揮しています。ではなぜ、その客観性は他人に指摘されるまで出てこなかったのか。それは、行動を起こす前にそれを他者がどう思うかと考える習慣がないからです。これこそが「客観習慣の不足」です。

 では、なぜそれが千恵の最大の足りなさなのでしょうか。それは、千恵の最大の過ちであるお金の盗難が客観習慣の不足によって起こったからです。
 千恵と藤岡が和解したシーンを見てみましょう。藤岡は千恵のヘアゴムを奪い取って、盗まれた側の気持ちを経験させました。それによって千恵は自分の行いを反省し、お金を盗んだことを謝ることができました。
 ということは、盗まれた側の気持ちを最初から想像できていれば、盗難は起こらなかったと言えます。行動する前に他人の気持ちを考えるという客観習慣の不足によって、罪を犯してしまったのです。
 ここでは同時に、自分がナツにお金をあげたいという気持ちが先行して、盗んだお金を贈られたナツがどう思うかを想像できていないという過ちも起こっています。そして結果的にナツは追い込まれていきました。

 このように、千恵に最も足りないのは客観習慣だったのですが、ここにはひとつ希望があります。習慣は身につけていくものだということです。
 藤岡に諭されて他人の気持ちを想像し、反省することができたように、これからも千恵は失敗と学びを繰り返していくはずです。他の人よりはゆっくりでも、千恵には足りなさを克服していく余地があるのです。


2.ナっちゃんは何が足りないか

 次は、この物語のもう1人の主役である小林ナツについて、一番足りないものは何か考えてみましょう。

 と、このように書くと、違和感を持つ方もいるのではないでしょうか。「もう1人の」ではなく、ナツこそが真の主人公ではないだろうか、と。
 そういう印象を持つ方は多いと思います。しかし、私は千恵とナツの2人が主役だと考えています。といっても、この2人が完全に並列な主人公というわけではなく、物語の2つの面でそれぞれ別の役割を果たしているというのが私の解釈です。
 まず千恵は、先ほど見たように物語を通して変化しています。起承転結の中で失敗を乗り越えて成長する、典型的な物語の主人公だと言えます。
 これに対してナツは、自身は変化しません。積極的に動くことなく、身の周りで起きる出来事に対してモノローグで内心を吐露し続けます。いわば、私小説の視点人物だと言えます。
 つまりこの物語は、千恵が主人公の成長物語と、ナツが語り手の私小説が組み合わさってできているのです。この構造を踏まえて各登場人物の足りなさを考えていきます。

 では本題に戻って、ナツの最大の足りなさは何でしょうか?
 実は、ナツの足りなさは千恵と対になっています。つまり、客観習慣が不足していた千恵に対して、ナツの最大の問題は「客観習慣の過剰」です。

 具体的に見てみましょう。ナツの作中最大の過ちは千恵からお金を受け取ったことですが、これは客観習慣の過剰に端を発しています。
 直接的には、ナツがお金を欲したのはリボンを買うためです。ではなぜリボンが欲しかったのかと言うと、みんなから良く見られるためです。だから、学校に付けて行ってもみんなから言及されなかったことで、あんなに求めていたリボンをあっさり捨ててしまったのです。自分が何を欲しいかより、それを持っていることでどう見られるかが優先される、これが客観習慣の過剰です。

 また、ナツがお金を受け取った間接的な理由として、劣等感があります。「ちょっとくらい ちょっとくらい 恵まれたっていいでしょ私たち」というモノローグに表れているように、自分と千恵は他の人に比べて何も持っていない、だから多少人から奪って満たしてもいいのだ、と正当化しています。この「自分は人より足りていない」という劣等感は、自分を他者と比べる客観習慣から来ています。
 ナツは常に劣等感に苛まれています。お金がない、物を持っていない、勉強もできない、恋人もいない、旅行にも行かない、スクールカーストが低い······旭や奥島たちと自分を比べて羨みます。あるいは、藤岡たちなら欲しいものを手に入れる力を持っているだろうと想像を膨らませて妬みます。そして、自分は劣っているし性格もクズだと自己嫌悪に陥ります。これらは全て、自分を外から見て他者と比べる習慣から来ています。
 しかしこれは、現実の他者と自分を比較しているわけではありません。羨んでいる相手にもそれぞれ不足や不満があることや、「私たち」とくくっている千恵と比べれば自分は恵まれていることも、ナツは見ていません。決して客観性に優れているのではなく、あくまで客観習慣が過剰なのです。

 さらに厄介なことに、ナツの足りなさは克服することが難しいです。
 盗んだお金を受け取ったことを恥じ、人にバレて責められたくない一心で、ナツは藤岡や旭から逃げ出しました。その結果、和解の場面に立ち会えませんでした。藤岡たちの真意や善性を知り、自分の心中をさらけ出す機会を失ってしまったのです。
 客観習慣の過剰ゆえに人に対して取り繕い、それゆえに成長の機会を逃してしまうわけです。千恵が客観習慣の不足ゆえにどう思われるか考えず盗みの事実をバラしてしまい、結果的に成長の機会を得たことと、ここでも対照をなしています。


3.志恵ちゃんは何が足りないか

 次は、南山志恵の足りなさを考えてみましょう。彼女は千恵の姉ですが、まさに「姉であること」が作中での最大の足りなさです。

 志恵もまた、色々な不足を抱えています。その多くは環境に由来するものであり、妹の千恵と共通しています。お金が足りないこと、欲しい物が手に入らないこと、旅行などの文化的経験が乏しいこと、親との時間が少ないことなどがそうです。
 しかし、志恵はそんな少ない手持ちの資源の中から、多くを千恵に与えています。バイトと勉強で忙しいのに休日に買い物に連れて行き、ねだられればガチャガチャをさせてやり、なけなしのバイト代から千恵の靴の代金を出そうとし、何くれとなく世話を焼きます。常に姉であり続け、妹に献身するのです。

 それは長所であって足りなさとは逆だと思うかもしれません。しかし、志恵は姉として身を削ることに完全に納得しているわけではありません。
 志恵は千恵に口で諭して聞かせる場面もありますが、実力行使で指導する方が多いです。例えば、額を拳で小突くやり取りがそれです。他にも、千恵が片付けなかったカバンを高い所に置いてからかったり、「死ね」と発言した千恵に平手をかまして泣かせたりするシーンがあります。いつも千恵のためを思って行動していますが、それを素直に出さず、妹にちょっかいを出すような形で表しているのです。
 それがなぜかと言えば、親をやりたくないからでしょう。母親は忙しくてあまり家におらず、妹は人一倍手がかかる家庭で、半ば否応なしに千恵の親代わりとして世話をしているはずです。決して強制されたとは思っていないでしょうが、同年代の高校生の多くがまだ子供として生活しているのを横目にすれば、家庭内のケア役を努めることに不満もあるのが当然だと思います。だからこそ、あくまで親ではなく姉として接しているのだという気持ちが、千恵への態度に表れているのです。
 「千恵の姉でいざるを得ない」ことが、志恵にとって足りなさでもあるのは間違いないでしょう。

 ではなぜ、志恵は姉の役割から降りられないのでしょうか。それはきっと、足りなさを知っているからです。
 先ほど見たように、志恵は千恵の足りなさの多くを共有しています。また、身体的成長や学力の遅れ、精神的な幼さ、靴紐を結べない不器用さなど、千恵自身の足りなさについてもよく知っています。だからこそ、妹よりはまだ不足を満たす力を持っている自分が分け与えてやらねば、と考えずにはいられないのでしょう。
 それが表れているのが、足に合うサイズの靴がなくて泣く千恵に「泣くんじゃないの 中学生でしょ 靴くらいで 靴くらいで」と繰り返すシーンです。
 ここで志恵は、それが本当は靴くらいのことではないと分かっています。千恵の足の小ささは、身体や精神面、学力その他の能力など、諸々が複合した大きな足りなさの一端が表れたものだと気付いています。それは、志恵が気になったスカートを買えなかったのがそれだけのことではないのと同じです。服一着の諦めは、バイトに励んでいたり、国立大受験のために睡眠時間を削っていたり、あるいは妹の世話をしていたり恋人ができなかったりしたこととも繋がっています。
 だから、「いっつもちーだけイジワルする」という千恵の癇癪も本当は理解しています。それゆえに、姉としての献身をやめられないのです。

 まとめると、志恵は「足りなさを知っているがゆえに姉でいざるを得ない」ということになります。これが、志恵というキャラクターを特徴づける足りなさです。


4.藤岡さんは何が足りないか

 藤岡は、最初は不良グループのボスのように見えますが、終盤で優しさと聡明さが明らかになって印象が逆転する複雑なキャラクターです。彼女の足りなさは何でしょうか。
 実は、藤岡は志恵と同じ足りなさを持っています。つまり、「足りなさを知っているがゆえに姉でいざるを得ない」のです。

 まず、事実として藤岡は姉です。妹が3人おり、面倒を見ています。それだけではなく、家業の手伝いをしている上、祖母の介護もしています。そして、それらのために部活に参加できなくなりました。自らが犠牲を払って家庭内でケア役を務めているのは、志恵と同じ境遇です。
 また、藤岡は学校でも大人びています。宮沢と野村を常にリードし、旭と対立した時もそれとなく衝突を避けました。お金を出せなかった部員の分を補填し、千恵が返せなかった1000円も「やるよ」と言って済ませています。身を削ってでも場を収める姉としての振る舞いが習慣化しています。
 さらに、自分の立場に納得していないことを態度に表しているのも志恵と同じです。「万引きしねえ?」という悪趣味な冗談をはじめ、露悪的なまでに不良じみた言動には、周囲より一足先に大人にならざるを得なかったことへの抵抗が含まれているのでしょう。
 そして、足りなさを知っているからこそ姉として振る舞うことも志恵と共通しています。千恵のヘアゴムを取り上げて相手の気持ちを理解させ、「ちょっと足りなくたって どうだって 楽しんで生きていけるだろ」と諭すのは、不足と渇望を心底知っていて、向き合って生きてきたからこそできることです。

 加えて言えば、志恵が千恵の姉であるように、藤岡も千恵に対して姉として接します。ヘアゴムについて妹たちも好きだと言ったり、千恵が妹と気が合いそうだと言ったりなど、妹と重ねて見ているのは一貫しています。
 その上で、物語のクライマックスで千恵の過ちを諭して反省させるポジションにいます。藤岡は、千恵の成長物語の中で姉の役を務めているのです。
 ここで大事なのは、藤岡が志恵よりも姉として優れていたわけではないことです。藤岡がヘアゴムを奪った時、千恵は「お姉がくれた」からそれはだめだと言います。志恵から与えられた物だから大切で、それがあったからこそ藤岡は千恵の成長を促すことができました。いわば、志恵と藤岡はヘアゴムを媒介に千恵への献身をリレーしたのです。千恵の物語は、2人の姉に助けられて成長する主人公の話なのです。

 以上のように藤岡と志恵は、内に持つ足りなさも物語での役割も共有しています。直接の接点がないにもかかわらず、この2人は相似形をなすキャラクターなのです。


5.旭ちゃんは何が足りないか

 最後は、旭の足りなさを考えてみましょう。旭は一見、何も不足がなさそうなキャラクターです。家は金持ちで、休みには海外旅行に行き、テストはいつも90点台で、人気が高い恋人もいます。
 そんな彼女の足りなさは、実は志恵と藤岡の反転です。すなわち、「足りなさを知らないがゆえに姉でいられない」ことが旭の足りなさです。

 旭はいつも千恵を気にかけています。算数の問題を出して勉強させようとしますし、千恵が盗みを疑われた時は激怒して否定しました。しかし、その気遣いを素直に出さず、子供扱いしてからかうように千恵に接します。つまり、千恵に対して姉として振る舞おうとしているのです。
 しかし、旭は一番大事な時に姉でいられませんでした。千恵の盗みが発覚した時、反省させて成長を促すことができたのは藤岡でした。旭は千恵の物語で姉役を果たせなかったのです。

 それがなぜかと言えば、足りなさを知らなかったからです。千恵が盗みを告白した後、旭は「なんでなんだよ」と泣きながら繰り返しました。彼女には本当に、人の物を盗む理由が分からないのでしょう。奪ってでも満たしたいほどの不足と渇望を知る機会がなかったのです。だから、藤岡のように千恵を理解した上で諭すことができませんでした。
 皮肉なことに、と言ってしまうと意地悪ですが、旭は満ち足りているがゆえに、望んだ役割を得ることができなかったのです。


6.みんながそれぞれに足りない

 以上のように、この作品の登場人物はそれぞれに足りなさを抱えています。そして、それらは相互に関連しています。
 千恵とナツの足りなさは反転して対になっています。志恵と藤岡は同じ足りなさを持っており、それは旭の足りなさと反転して対応しています。(図1)

図1:それぞれの足りなさとその関係
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 お互いの足りなさが逆転している関係としては、千恵とナツが分かりやすいでしょう。千恵がナツのように客観習慣を備えていれば、お金を盗んだりそれをあっさりバラしたりといった愚行には及ばなかったはずです。逆に、ナツが千恵を羨むシーンもあります。終盤の橋の上で、ナツは「私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ」と考えます。しかし結局、周りを気にして千恵を大声で呼べませんでした。客観視点を振り切る力が自分に足りないことと、千恵はそれを持ち合わせていることにナツは気付いています。
 このような「私から見たあの子の充足は本人にとっては不足なのかもしれない」という、いわば足りなさの相対性は、この作品のテーマのひとつだと思います。

 しかしこれは、「何かしら足りないのは一緒なのだからみんな公平」ということではありません。
 例えばナツは橋の上で「未来がせまいよ」と独白しました。実際に、旭と比較すればナツの未来の選択肢は狭いと言わざるを得ません。しかし逆に、千恵と比べればナツはまだ広い選択肢を持っているのも確かです。諸々の現実の格差は厳然として存在しているのです。(図2)

図2:3人の格差
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 これは藤岡と旭を比べても同じことが言えます。作中では、旭が得られなかった役割を藤岡は果たすことができました。しかし、家族のケア役をしてきた経験から同級生を教え導けるよりも、何不自由なく育ってきたために友達の不足と渇望を理解できない方が、客観的に見て恵まれた子供なのは間違いありません。

 以上のようにこの作品には、現実の格差は存在しながら、それでも内に抱えた足りなさはそれぞれに切実だという重層性があります。そういった複雑さを損なわないままに、難解にはせずにキャラクターとストーリーに落とし込んでいるのがひとつの特徴だと言えます。その緻密な分厚さが作品の強度を支え、多くの人に印象を残す傑作たらしめているのではないでしょうか。


おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございました。
 最初に書いた通り、この文章は以前に書いた以下の複数の記事をできるだけコンパクトにまとめたものです。そちらでは、気付き得た限りの描写を引用して各登場人物の足りなさを検討しています。また、如月や宮沢などの脇役たちの足りなさについて妄想した追加記事もあります。お時間あればどうぞ。







『宇宙怪人みずきちゃん』を深読みする まるくんとみずきちゃんの隠れた関係

目次


0.  はじめに

 今回は、たばようさんの漫画『宇宙怪人みずきちゃん』(秋田書店)について書きます。
 この作品はとてもかわいい変態怪獣漫画です。倫理観にガンガン蹴りを入れられる読書体験ができる上、怪獣ものの特撮のパロディとしても秀逸で、知る人ぞ知る異色作にして傑作です。単行本2巻で完結していて読みやすいですし、未読の方はぜひ読んでみてください。

 さて、ここからはネタバレ全開で内容を語ります。
 今回深読みと妄想で語るのは、2人の主人公であるみずきちゃんと、まるくんこと水乃まるの関係についてです。
 まるくんは物語が始まる前からみずきちゃんに懐いており、「すき」(1巻p.12)だと公言して、どんなに雑に扱われても付いて回ります。最終的には、能動的ではないにしろ、自分の父親を含むそれまでの人間としての人生を全て捨てて、破壊者としてみずきちゃんの側にいることを選びました。その選択の理由付けとしても、「ぼくはみずきちゃんが好きだから」(2巻p.199)と述懐しています。
 一方で、みずきちゃんはまるくんに対して特に愛着や執着を抱いていないように見えます。しかし、町を破壊する計画が人にバレそうになると殴って隠滅しようとするみずきちゃんが、まるくんには自分から計画を話しています。また、いよいよ町を壊す前にみずきちゃんは、まるくんの部屋に迎えに来て一緒に海に行き、巨大ポコドンを上陸させる時にもまるくんを拾いに来ました。わざわざそういう手間をかけてでも、破壊の楽しみをまるくんと分かち合おうとしたわけです。何より、人類を破壊し尽くしたにもかかわらずまるくんだけは手元に残しています。つまり、みずきちゃんにとってもまるくんは何らかの意味で特別な相手なのです。
 このように、まるくんとみずきちゃんは付き合いが短いながらもお互いを特別視しています。そこに理由はあるのでしょうか。
 考えられる理由としては、まるくんはプナドラから生まれており、怪獣・怪人の要素をもっているということがあります。しかし、みずきちゃんが山の子と敵対したり、ニニニニリオンに至っては食料扱いしているように、知性のある怪人・宇宙人同士であってもお互いに友好的だとは限りません。
 まるくんとみずきちゃんの間には、より強い関係があります。具体的には、同じ怪獣の遺伝子を持つ親戚同士なのです。それを今から説明していきます。



1.  確認・まるくんとプナドラの関係

 まずは、作中で明示されたまるくんとプナドラの関係についておさらいしましょう。
 まるくんは、再生大怪獣プナドラと人間である水乃副隊長の交配で生まれた子供です。副隊長がプナドラの子宮内に突入して射精したことで誕生しました。
 検査の結果まるくんは99%ヒト(地球人)だという結論が出ました(2巻p.155)。逆に言えば、残り1%はプナドラの要素を受け継いでいるということです。
 交配したにもかかわらずプナドラの要素が1%しかないことについては、環境に合わせて形質が容易に変化するというプナドラの特徴に起因すると思われます。死ぬ間際のプナドラの生殖機能は副隊長の精子によって受精し、子供が発生しました。その際、副隊長の遺伝子が優先して発現したか、もしくは副隊長の遺伝子を模倣してプナドラ側の遺伝子が変異したということです。その根拠として、飛び散った肉片から発生した新生プナドラの外見がまるくんに酷似していたことが挙げられます。肉片からの再生は元のプナドラの有性生殖機能を経てはいないでしょうから、肉片に付着していた副隊長の精液の残滓の遺伝情報を体細胞が取り込んで、それを元に外形を形作ったと考えられます。分裂発生の際に混入した遺伝情報を元に形質を変えることができるのですから、交配発生の際に相手の遺伝子を優先して発現させることもあり得るでしょう。副隊長の遺伝子を優先させた理由としては、ヒトの方が地球の先住民で環境に適応している可能性が高いことや、副隊長が現に体内に侵入して本体を殺そうとしている強い生物であることが考えられます。
 要するに、まるくんの中のプナドラの要素が薄いことは、プナドラの遺伝子が生き延びる可能性を上げるためにそうしたと考えられるのです。加えて言えば、出生時点のまるくんの身体がプナドラの肉体からできていたことも確かです。また、水中で数分間呼吸が止まり仮死状態になった時に、胸部への雑な衝撃一回で蘇生して何事もなかったように活発に運動している(1巻p.100)ところを見ると、まるくんはプナドラの強靭な生命力をかなり色濃く受け継いでいると思われます。
 総合して言えば、まるくんは決してプナドラが少量混じっただけの地球人というわけではなく、あくまでヒトとプナドラの交配体なのです。



2.  プナドラとポコドンの関係

 ここからは、作中に明示されていない関係性を深読みしていきます。
 まずはプナドラと、ポコドンこと水棲怪獣チンポコドンの関係について考えます。
 この2種類の怪獣は、作中では直接関係していません。プナドラは作中時間の5年前より以前に発生し始めて人類社会のほとんどを壊滅状態に追い込み、副隊長に撃破されたものの絶海の孤島で生き延びていました。一方のポコドンは、おそらく最近になって飛来したみずきちゃんによって地球に持ち込まれ、町の破壊計画に使用されました。

 このように無関係に見えるこの2種類ですが、実は多くの共通点があります。
 1つ目は生殖形態です。ポコドンは雌雄同体で、任意の2体をつがわせることで、即座にほぼ同じ大きさの個体が口から生まれます。孤島にいたヒト型のプナドラも全く同じように、見た目には全員が男性器を持っていて、そのうちの2体でつがうことですぐに同じ大きさの個体が生まれていました。また、直方体状の巨大プナドラにも子宮があり、受精直後に赤ん坊の状態まで育ったまるくんが生まれたことから、交尾を行って即時に子供ができるのはもともとプナドラに備わっていた機能だと言えます。これに対して、数が減ったとはいえ数万体は残っていたはずなのに計画を断念せざるを得なくなったニニニニリオンは、これほど簡単に個体数を殖やすことができないと思われます。つまり、極短時間での生殖は怪獣や異星人に一般的な性質ではなく、プナドラとポコドンのみの共通項だということです。
 2つ目に、仲間意識のなさが共通しています。ポコドンもプナドラも生殖が簡易なので、作中では群れでいる場面が多いですが、お互いに同族だという意識はまるでなく、容易く共食いをします。プナドラは孤島で共食いによって群れを維持していましたし、ポコドンも共食いで大きくなっていきました。これも、ニニニニリオンが強い仲間意識を持っていたり、さほど知性を見せなかったヌシラも山の子の指示に従っていたことと対照的で、2種のみの共通点です。
 3つ目に、巨大化する点です。直方体形態のプナドラは多数の小さい個体が融合し、巨大な一体になりました。ポコドンも同様に、殖えた多くの個体が共食いを繰り返すことで一体の巨大ポコドンになりました。融合の方法こそ違えど、多数が合体して巨大化したという意味では同じです。このようなサイズの可変性もまた、ニニニニリオンの個体の大きさが全員ほぼ等しく、姿を変えるのに群体になる性質と対照を成しています。
 4つ目に、生命力の強靭さがあります。プナドラは「再生大怪獣」の名の通り、頭が無事ならば身体が欠損してもすぐに再生します。一方ポコドンは、部位が再生する描写こそありませんが、多少雑に扱っても意に介さない丈夫さがあります。頭蓋内に入り込まれて脳を掻き回されても生命活動に支障をきたさない様子は、体内深くに侵入されてなお余裕の態度だった巨大プナドラに近いものがあります。この2種については、身体機能が単純ゆえに多少のダメージは生命に影響を与えないという印象があります。
 5つ目に、生命活動の自己完結性も共通しています。ポコドンは水があれば成長と生殖が可能であり、有機物を他から摂取しなければならない地球の生物と違って独立栄養*1が可能な動物だと言えます。一方のプナドラも、いくら身体を削っても瞬時に再生することから、自身で有機物を作り出して体組織を再現しているものと思われます。孤島で共食いと繁殖によってただ1種で生態系を維持していたことも、この自己完結性に関連しているでしょう。
 6つ目に、食用になることです。ポコドンが美味で食用にされているのは序盤から描かれています。そしてプナドラも、2巻カバー下の怪獣大図鑑で、肉が美味で食用家畜として飼っている星があることが書かれています。これは同時に、脅威的な破壊をもたらせる怪獣でありながら、上手く管理すれば安全に飼育して利益を得られるという二面性が共通しているということでもあります。
 さらに7つ目の共通点として、他種との交雑が容易であることが挙げられます。プナドラの子宮内で副隊長が射精したことによってまるくんが生まれたのは先述の通りです。ポコドンについては、本編完結後に週間少年チャンピオンに掲載された番外編(単行本未収録)にて、みずきちゃんの下から逃げたポコドンが拾われた少年の精液を取り込んで半人半獣の子供を産むストーリーが描かれました。
 
 これら多くの共通点を説明するヒントとなるのが、星間移動する地球外生命体であるという8つ目の共通点です。ポコドンは、みずきちゃんが宇宙船で飛来した際に地球に持ち込んだものです。*2 プナドラについても、2巻カバー下の怪獣大図鑑にて星から星へと移動することが明言されています。
 そして、プナドラの大きな特徴の一つが、環境に応じて急激に形態を変化させることです。*3  つまり、星間移動したプナドラがある天体の環境に適応して変異したものがポコドンなのではないかと考えられます。
 孤島でのヒト型プナドラは一種で生態系を循環させており、おそらく二浜隊員が来るまで海を越えて島外に出て行ってはいませんでした。ということは、もともとプナドラは水環境が得意ではないと思われます。星間移動したプナドラが水に覆われた天体にたどり着いたとしたら、環境に適応するために大幅な形質の変化を行うはずです。そのようにして、水中での活動に適応し、水中呼吸が可能になり、成長や生殖といった生命活動を水の存在に依存するようになったプナドラの変種こそが、水棲怪獣チンポコドンなのではないでしょうか。*4
 生物として同じルーツを持つと考えれば、プナドラとポコドンの間の数多くの共通項に全て説明がつくのです。



3.  ポコドンとみずきちゃんの関係

 次に、ポコドンとみずきちゃんの関係について考えます。
 この二者は家畜(軍用・食用)と飼い主という関係にありますが、両者の間にも実は共通点・類似点がいくつもあります。それらを列挙してみましょう。
 1つ目の共通点は、活動が水に依存していることです。ポコドンの成長や繁殖に水が必須であることは、これまで見た通りです。一方のみずきちゃんも、体内の水が不足すると精神バランスが崩れ、不機嫌になります。このように両者は正常な活動に水を必要としますが、実は水がなくても死に直結するわけではありません。ポコドンは水がなければ成長と繁殖を行わずに現状を維持しますし、みずきちゃんも水分不足の際に海水がいいとわがままを言って真水を拒んだ上に自主的に海水を摂ろうともしなかった(1巻p.135)余裕を見ると、渇きが即座に生命の危機というわけでもなさそうです。このように、両者における生命活動と水との関係は、かなり細かいところまで類似しています。
 それと関係しますが、2つ目の共通点は水陸両棲であることです。*5 ポコドンもみずきちゃんも、陸上でも海中でも呼吸ができて活動が可能です。
 3つ目もここまでと関係しますが、呼吸器官の形状が似ています。みずきちゃんが水に入ると、後頭部の左右から触手のようなものが数本伸びます。1巻の怪獣大図鑑(p.193)には「耳のあたりから鰓(えら)のようなものを露出することで水中でも自在に活動できる」とあるので、これらが水中での呼吸器ということになります。ウーパールーパーなどにある外鰓(がいさい)なのでしょう。これらは、形・数・位置の全てがポコドンの頭部の突起物に類似しています。ポコドンのものも鰓であり、みずきちゃんのものと相同器官*6だと考えるのが自然でしょう。
 4つ目に、食性が似ています。みずきちゃんは基本的に生きた動物を食べる捕食者で、ある程度新鮮なら死肉も食べますが、植物性のものは食べませんでした(1巻p.151)。ポコドンも、同族のぶつ切りや大ダコの肉片など、基本的に新鮮な肉を食べています。*7  さらに、みずきちゃんを丸呑みし、まるくんも呑み込もうとしたことや、みずきちゃんがニニニニリオンの人間体をポコドンの餌にするために生け捕りにしておいたことを見ると、もともと生きた動物を食べる捕食者としての習性を持っているはずです。
 5つ目として、繁殖形態が似ている可能性が高いです。ポコドンは交尾をすると即座に出産します。誕生に卵を介さない胎生の生物です。一方のみずきちゃんがどのように生まれたのかは語られていませんが、ヒントはあります。それがおへそです。みずきちゃんにはへそが3つありますが、へそは胎児の時に母親からへその緒で栄養をもらっていた痕ですから、胎生である証拠です。さらに、へそが3つあるということは3本のへその緒で栄養をもらっていたと考えられるので、母胎内での成長はかなり早く、受精から出産までの期間は短かったのではないでしょうか。
 最後に6つ目の共通点は、同じ宇宙船で地球に来たことです。素直に考えれば、みずきちゃんの母星にポコドンが棲息していたということになります。ただ、ポコドンは前述のように他種の手で星間移動させられ、複数の星や種族で知られているようなので、みずきちゃんが母星外でポコドンを入手してから地球に来たとも考えられます。しかし、みずきちゃんがポコドンのことをよく知っており扱いも熟練している様子を見ると、やはり母星にポコドンがいて身近な存在だったと考えるのが自然だと思います。

 以上のように、ポコドンとみずきちゃんの間には多数の共通点がありますが、それはなぜでしょうか。
 6つ目の共通点により同じ星から来た可能性が高いので、同じ環境で進化した結果似た機能や習性を備えたとも考えられます。確かに、水への一定程度の依存や水陸両棲といった特徴は、水域が大きいが陸地もある、あるいは干上がることがあるような環境に適応すれば必然的に類似してくるでしょう。食性についても、動物型の生物が多数の環境であれば、両者ともに捕食者として進化するのは自然なことです。しかし、繁殖形態の類似と、何より鰓の形態が酷似していることは、直接に生物的な繋がりがあるからだと考えるべきでしょう。つまり、ポコドンとみずきちゃんは同じ祖先から分かれた生物だということです。
 この両者が生物的に近縁だという傍証として、ポコドンを繁殖させるのがちょっと苦手だというみずきちゃんの発言(1巻p.32)が挙げられます。ポコドンをつがわせるのは幼児のまるくんにもすぐできるくらい簡単で、現にみずきちゃんも簡単にやって見せているので、技術的にではなく心理的に苦手だという意味でしょう。
 考えてみてほしいのですが、人間の性交を目の前にすると動揺や嫌悪を覚える人は、ネコやカメやトンボの交尾を見ても同じように感じるでしょうか?  もちろん感じる人たちもいるでしょうが、その特に繊細なグループにみずきちゃんが入るとはとても思えません。要するに、対象が自分に近い生物だからこそ、その生殖行為に対して忌避感を抱くのです。
 それどころか、腐ったタコの肉片に上半身を突っ込んだり、ポコドンに関しても胃の中で寝たり脳を素手で掻き回したりは意に介さないみずきちゃんが、つがわせる時だけはゴム手袋まで装着していることを考えると、心理面だけでなく身体的にも現実に影響があるのかもしれません。つまり、ポコドンの精液が肌に触れるだけで受精して妊娠してしまう可能性があるほど、みずきちゃんはポコドンと近縁の生物だと言うことです。*8

 ポコドンとみずきちゃんの間の遺伝的な系統関係は、いくつか考えられます。
 まずは、同一の祖先からそれぞれ進化した可能性。水の豊富な星に飛来したプナドラが、成長と繁殖の早さに特化したポコドンと高い知能を備えたみずきちゃんの種族に枝分かれして環境に適応したパターンです。しかし、ポコドンとみずきちゃんの間にはプナドラにはない共通点も多いので、両者がプナドラから別々に進化した可能性はあまり高くないと思います。
 次に、ポコドンがみずきちゃんの種族から分化した可能性。ヒト型のみずきちゃんの一族が先に存在し、その中から脳と四肢が退化したポコドンが発生したというパターンです。しかしこれも、地球での生物進化と完全に反対の方向ですし、あまりありそうな可能性ではないと思います。
 それとは逆に、ポコドンから分化してみずきちゃんが生まれたというパターンが、最も可能性が高いと思います。その原因としては、環境の変化によって陸上での機敏な動きや高い知能が有利になったか、あるいは別の星に移動するために宇宙船を作り操縦する能力が必要になったなどが考えられます。もしくは、ポコドンが他のヒト型生物と交雑した末にみずきちゃんが生まれたということもありえます。
 そもそも、みずきちゃんに種族と呼べるような同じ形質の仲間がいるのかも分かりません。ポコドンやプナドラ、ニニニニリオンは群れが登場しますし、山の子やヌシラ、大ダコも、1巻の怪獣大図鑑では複数個体が存在する「種」であることを前提に書かれています。しかし、みずきちゃんだけは、出生や地球に来た経緯などが全く語られておらず、同種の他個体に関連する描写が何もありません。つまり、みずきちゃんは突然変異や一代のみの交雑によって、ポコドンから一体だけ生み出された特殊個体の可能性があるのです。*9  みずきちゃんの形状と機能を備えた生物は、宇宙にみずきちゃん1人だけなのかもしれません。
 いずれにせよ、ここまでの推測が正しければ、ポコドンとみずきちゃんはどちらもプナドラの遺伝子を継いでいます。環境への適応や遺伝子の取り込みによって急激に形質が変化するプナドラの性質を持っているならば、見た目が全く異なるポコドンとみずきちゃんが生物的に近縁だとしても、全く不思議はないのです。



4.  プナドラとみずきちゃんの関係

 2節ではプナドラとポコドンの繋がりについて、3節ではポコドンとみずきちゃんの繋がりについて述べました。ここまでの内容から、当然プナドラとみずきちゃんの間にも生物的に繋がりがあるということになります。
 ただ、前述のように、プナドラから進化したポコドンからみずきちゃんが生まれた可能性が高く、プナドラとみずきちゃんの間にはそれほど多くの類似関係はありません。とはいえいくつか共通点はあるので、今節ではそれらを見ていこうと思います。

 まずは、ポコドンも含めた三者に共通する特徴を2つ挙げます。
 1つは生殖形態ですね。この三者が全て卵を介さずに子供を産む胎生動物だということは、ここまでで述べた通りです。また、プナドラの怪獣大図鑑(2巻カバー下)には、「胎内には頭と触手があり、そこで直接子供を育てるため効率のよい繁殖ができる」とあり、実際に巨大プナドラの子宮内には頭部と何本もの触手が生えています(2巻p.149)。この触手が胎児への栄養補給にも使われるとしたら、へその緒の役割を果たす管が複数あることになります。へそが3つあるみずきちゃんが育った母胎も、そのような構造だったのではないでしょうか。
 もう1つ三者に共通しているのが、突起物の形状です。ポコドンとみずきちゃんの鰓の形態が似ているのはすでに指摘しました。この二者の鰓と形が似ているのが、プナドラの子宮内の触手です。円柱形で太さがほぼ一定、先端が丸くなっているのもそっくりです。他の生物の触手状器官といえば大ダコの腕ですが、それと比較すれば三者の突起物がいかに似通っているか分かります。また、ポコドンとみずきちゃんの鰓が後頭部の同じ位置から生えているのもすでに見ましたが、プナドラの子宮内頭部も、触手の根元と思われる管が後頭部から出ています。加えて、みずきちゃんの鰓は水に入ると伸びて露出しますが、伸縮が可能な性質はプナドラの触手と共通しています。これらのことを考えると、プナドラが胎児の養育に使っていた触手という機構が、水中活動に適応する過程で鰓としての役割を持つようになったのではないでしょうか。触手は表面積が大きい形状ですし、胎児の養育の際に母胎との栄養などのやりとりにも触手が使われていたとすれば、呼吸器としてガス交換に適応させるには最適です。

 次に、ポコドンには当てはまらないプナドラとみずきちゃんだけの共通項を3つ挙げます。
 1つ目は知性です。「とても頭が悪い」(1巻p.84)とされるポコドンと違って、みずきちゃんは言語でコミュニケーションを取り、宇宙船をはじめとした機械や道具を使いこなし、確かな知識と技術を元に計画を遂行します。これに対し、プナドラの知能は一見ポコドンに近いように見えます。孤島のヒト型プナドラは言葉を使わず、本能のままに食べ、生殖していました。直方体型の旧プナドラも、外見は人とコミュニケーションを取れる知性を備えているようには見えません。しかし、巨大プナドラの胎内にある頭部は言語によるコミュニケーションが可能で、人間的な感情を見せます。*10  加えて言えば、動物的な生活をしているように見えるヒト型プナドラも、食物を火で調理するという知性は持っています(2巻p.106)。総合すると、プナドラはもともと高い知的能力を持ち合わせているが、その知能が必要とされない環境では脳の形成にコストを割かず、ヒト型やポコドンのような知能の低い個体群になるのでしょう。しかし、高い知能を司る遺伝子は持ち続けているので、環境や状況に応じて発現し、みずきちゃんのような知性を持った個体が現れるのだと思われます。
 2つ目の共通点は、能動的な星間移動を行うことです。みずきちゃんは、自ら宇宙船に乗って地球に飛来しました。一方のプナドラも、どのような方法でかは分かりませんが、「星から星へと移動」(2巻カバー下)する習性を持つことが明言されています。どちらも、みずきちゃんの手で移入されたポコドンと違い、主体的に星を渡っています。その結果として地球に到着したことも同じです。
 3つ目は、積極的に破壊を行うことです。みずきちゃんは言うまでもなく、町を破壊すること自体を目的に行動しています。一方プナドラも、5年前の時点で防衛隊基地のある町以外の人間の拠点をほぼ全滅させました(2巻p.146)。「プナドラが住み着いた場所には他の生物が住めなくなってしまう」(2巻カバー下)とされますが、ただプナドラが繁殖しただけで人類は生存競争に負けて滅んでいったと考えるにはあまりに変化が急すぎますから、先住種の集団を積極的に壊滅させてから繁殖し、更地にした星の上を埋め尽くしていくのだと思われます。再生能力があるので積極的に攻撃しなくても他種との争いに負ける可能性は低いにもかかわらず、「全身を覆う目からの光線を備えて」(同)いるという殺意の高い進化を見るに、破壊そのものが半ば自己目的化した生物だと言えます。ヌシラ(山の子)やニニリン(ニニニニリオン)が交渉のための示威行動として建造物を破壊したのと比較しても、破壊そのものを目的として積極的に行うのは、プナドラとみずきちゃんのみの特異な共通項だと言えます。

 以上のように、みずきちゃんはポコドンに比べて身体的な特徴はプナドラに近くないが、思考や行動においてはプナドラに類似しています。これを説明する仮説を立ててみましょう。
 プナドラは水の豊富な星に適応してポコドンに進化しましたが、戦闘能力や知能は必要ない環境だったので、それらを持たない形態になりました。しかしその後、星がポコドンで飽和したか、あるいは環境の変化で住みにくくなったため、他の星に移住する必要が出てきました。*11 その目的のためにプナドラから変化して生まれてきたのがみずきちゃんです。宇宙船を作って操縦する知性も、星間移動や他種を滅ぼす破壊の志向も、他の星に移住して侵略し繁殖するという生態に特化したものです。ポコドンの遺伝子に刻まれていたプナドラの本能が危機的状況に応じて発現した、一種の先祖返りだと言えます。
 以上はあくまで想像ですが、一定の整合性はあると思います。
 いずれにせよ、みずきちゃんもまたプナドラとの共通点をいくつも持っているのは、今節で見た通りです。やはり、みずきちゃんがプナドラの遺伝子を受け継いでいる可能性は高いと言えるでしょう。*12



5.  結論・まるくんとみずきちゃんの関係

 ここまでの話をまとめると、まるくんとみずきちゃんの間はプナドラとポコドンを介して繋がったことになります。まるくん・ポコドン・みずきちゃんは皆プナドラ系統の生物であり、近縁な遺伝子を持っているということです。同一の祖先から分かれた2本の枝は、それぞれ全く違う進化のルートをたどった末に似通ったヒト型の姿を獲得し、別々に降り立った宇宙の片隅の星で、まるくんとみずきちゃんの姿で偶然の再会を果たしたのです。
 これが、まるくんとみずきちゃんがお互いを特別視する理由です。相手が同種の遺伝子を受け継いでいることを無意識に理解し、惹かれ合っているのです。

 まるくんがみずきちゃんを慕う感情の中には恋愛感情、有り体に言えば性欲が含まれていると思われます。もちろんまるくんはまだ5歳なので、第二次性徴も迎えておらず、ヒトとしてはまだ生殖への関心は生まれていないでしょう。しかし、プナドラは親とほとんど同じ大きさで誕生し、おそらくは生まれた直後から生殖が可能です。まるくんの中のプナドラの部分はすでに繁殖できる状態にあるわけです。その根拠として、同種とのみ交尾し、二浜や他の防衛隊員などの純粋な地球人には性的興味を示さなかったヒト型プナドラが、まるくんに対しては交尾行動を取った(2巻p.181)ことが挙げられます。プナドラはまるくんを生殖能力のある同種だと判断したのです。*13
 このように、まるくんの中のプナドラの部分は、近縁な異性*14であるみずきちゃんを生殖の相手として認識した可能性が高いです。プナドラの部分が抱いた性欲を、ヒトの5歳児の思考で言語化した結果、「よくわかんないけどすき」という表現になったのでしょう。

 一方のみずきちゃんのまるくんに対する感情は、これもまた生殖の相手と捉えていた可能性が高いです。前述のように、みずきちゃんはポコドンと生殖できる可能性が高いですが、彼女はそれを望んでおらず、ポコドンの繁殖に忌避感を抱いていました。おそらく、自分と同じような姿で知性を備えたヒト型生物の方が生殖相手として望ましいと思っていたのでしょう。だから、人類は滅ぼしてもまるくんだけは配偶者として残したと思われます。
 とはいえ、まるくんは地球人の血が濃いので、みずきちゃんも初めは彼を拒んでいました。それでもまるくんが好意を示し続け、「なんでもいうこときく?」(1巻p.17)という問いに頷いたので、計画を共有する同胞として認めたのでしょう。まるくんは自覚していませんでしたが、あれは「ヒトと怪獣どちらの帰属を選択する?」という問いかけだったのです。
 これらのみずきちゃんの感情を裏付けるのが、彼女が計画を開始したタイミングです。第1話の冒頭の時点でまるくんはみずきちゃんと面識があり、彼の「このあいだこのアパートに引越してきた*15」(1巻p.6)というモノローグがあるので、みずきちゃんはまるくんより前からアパートに入居していたと考えられます。さらに、第1話でまるくんがみずきちゃんを追いかけ回していた時間が数日間あります。にもかかわらず、その間みずきちゃんは町の破壊計画に着手していません。*16  本格的にポコドンの育成を始めたのは、まるくんに計画を話した翌日(第2話)からです。
 これは、破壊の後の目的に関係していると思います。降り立った星を侵略するプナドラの本能からすれば、先住民の社会を破壊した後にくるのは当然繁殖という最終目的です。しかし、みずきちゃんと同じ種族は地球にいませんし、彼女がもし突然変異的に発生した特殊個体だとしたら、同じ遺伝子と形質を併せ持った生物は宇宙のどこにもいません。ポコドンとは交配したくないみずきちゃんは、プナドラの遺伝子からくる破壊の欲求を抱えながらも、その後にセットでやってくる生殖に向き合いたくなくて、破壊計画の開始を先延ばしにしている状態だったのではないでしょうか。そんな時に自分と同じ遺伝子を引いているまるくんに出会い、味方になることを確かめたことで、彼を交配相手として認めたのでしょう。*17  そうして破壊の後の生殖を受け入れたことで、計画を始動させたというわけです。この考えが正しければ、まるくんがみずきちゃんに付いたことが人類滅亡の最後の引き金になったと言えます。

 以上のように、まるくんとみずきちゃんは無意識にしろお互いを生殖の相手と認識しており、性欲で繋がっています。
 最終話で人類社会を破壊し尽くした後に、2人は子供を作るのでしょう。更地になった地球上に、宇宙怪人の世界を築いていくのです。
 まるくんとみずきちゃんは新世界のアダムとイブで、この物語は怪獣と怪人たちの創世記なのです。

 ここまで書いてきて気付いたのですが、まるくんのみずきちゃんへの慕情を性欲ではなく母親への希求だと捉えることもできます。
 まるくんは生まれた時から母親がいません。父親からはネグレクトを受ける中で、不在の母への憧憬があったとしても自然なことです。そんな時に母方の遺伝子を引いている相手が現れ、しかも年上の女性の姿をしていたら、母親のイメージを重ねてしまっても無理はありません。
 さて、それではこの文章では、まるくんのみずきちゃんへの感情を生殖相手への性欲と捉えるか、母親への思慕と捉えるかということになりますが、両方を取ります。まるくんは性欲と母への情がごちゃ混ぜになったものをみずきちゃんに向けていると考えます。
 性癖(近年の用法)の坩堝たる本作において、欲望が二通りに解釈できるのならば、両方が重なっていると取るのが筋というものでしょう。
 『宇宙怪人みずきちゃん』は、おねショタでマザコンで人外の半異種姦の創世記だと結論付けて、この文章を締めたいと思います。
 ここまで読んでいただいてありがとうございました。




脚注(余談)

*1:【独立栄養】
 他の生物を食べずに自分で有機物とエネルギーを作り出すことを独立栄養と言います。代表的な独立栄養生物は、光合成を行う植物や藻類ですね。対義語は従属栄養で、他の生物を食べて有機物を取り込む必要があるものは、草食動物も肉食動物も含めて全て従属栄養生物です。ポコドンは捕食も行うので、正確には独立栄養と従属栄養の両方が可能な混合栄養生物だと言えます。

*2:【星間移動/ポコドン】
 作中のポコドンは、みずきちゃんの手で兵器兼食料として地球に持ち込まれました。1巻p.84のポコドンの怪獣大図鑑には「宇宙美食家の間では広く好まれている」とあり、詳しいことは分かりませんが、複数の天体の複数の種族に食材として重視されているものと思われます。つまり、食用家畜として他種に利用されることで分布域を広げているということです。自ら飛行したり宇宙船を作って飛ばしたりは決してしないだろうポコドンですが、他種の手を借りて星間移動を果たすのです。
 そうすると、ポコドンが非常に美味で硬骨がなく可食部率がほぼ100%の上に調理をせずに生で食べられるという、食物として優秀すぎる性質を持つのも、もともと美味だったプナドラが環境適応力によって、食用家畜という生存形態にさらに最適化したからだと考えることもできます。
 また、あおいちゃんが分析に用いた危険生物リストに、地球での出現記録のないポコドンが正式名称で登録されている(1巻p.158)ことも、複数の星でよく知られている生物であるという裏付けになります。ニニニニリオンについては既存のデータがなく(2巻p.37)、一から性質を分析していったことと比較しても、宇宙規模ではポコドンはメジャーな怪獣だと言えるでしょう。

*3:【形態を変化させる】
 この根拠となるのは「プナドラは周りの環境に合わせて繁殖し  合体  巨大化する」(2巻p.169)という副隊長の説明です。ここでは姿形を変えることまでは明言されていませんが、実際に直方体型からヒト型に変化していることから、「環境に合わせて繁殖」には形態を変えることが含まれていると考えられます。
 ヒト型プナドラは「見た目は人間に近いですが例の怪獣のデータと一致しました」(2巻p.168)、「分析の結果はまるくんとは逆」(同p.169)と言われています。つまり、身体組成や遺伝子の1%はヒト(外形を作るのに用いられた副隊長由来の遺伝子)だが、残り99%はプナドラのものという意味でしょう。組成や性質がほぼプナドラのままでありながら、外形は全く別のものになっているということです。このことからも、プナドラには状況に応じて形態を急激に変化させる性質がもともと備わっていたと考えられます。

*4:【変種】
 この場合、ポコドンはプナドラから進化した種、もしくはプナドラの亜種(同種の生物だが形質に違いがある集団)ということになります。しかし、形質が容易かつ急激に変化するというプナドラの性質上、同種か別種かという区別はあまり意味を持たないと思います。それどころか、「安定した交配が可能な生物の集合」という地球の動物に使われる種の定義自体が、完全に別グループの生物とも交配が容易なプナドラとポコドンに対しては当てはめられないと言うべきでしょう。

*5:【水陸両棲】
 ポコドンは地球生物で言えば両生類に近い見た目をしていますね。一番似ているのはアホロートルウーパールーパー)でしょう。一方みずきちゃんも、1巻の怪獣大図鑑(p.193)によると、少し生臭いという何となく両生類を思わせる特徴を備えています。

*6:【相同器官】
 別種の生物の身体の器官で、同じ祖先の同じ部位に由来するもの同士を相同器官と言います。例えば、ヒトの腕・ネコの前脚・鳥の翼は、形状も機能も全然違いますが、全て祖先となる魚の同じヒレが変化してできたものであり、相同器官です。逆に、ヒトの目とイカの目は、とても似通った構造と機能を持っていますが、生物の進化の過程で全く別々にできあがったものであり、相同器官ではありません。

*7:【基本的に】
 ポコドンは、まるくんが食べさせた焼きそば・クレヨン・洗剤・灯油などを平然と平らげました。しかしこれは、ポコドンがみずきちゃんと違って雑食なのではなく、知能が低いために与えられた物を何でも食べてしまうのだと思われます。

*8:【妊娠】
 なにせチンポコドンですから、生殖能力がどれほど強くても不思議ではありません。そう考えると、みずきちゃんがはめたゴム手袋にもメタファーを読み取りたくなりますね。

*9:【特殊個体】
 そもそも、みずきちゃんは元は違う形状の生物だったという考え方もできます。つまり、私たち読者が知るのとは別の姿で地球に降り立ったみずきちゃんは、潜伏のために原住民である地球人に擬態してあの姿になったということです。プナドラの変種であればそれぐらいできても不思議はないでしょう。
 この説の根拠の1つとして、作中でニニニニリオンが実際に地球人に擬態していることが挙げられます。
 また、みずきちゃんの外見が地球人にそっくりであることもこの説を補強します。異星人のニニニニリオンは地球人とは似ても似つかない姿ですし、同じ地球原産の山の子でさえ、ヒトとは身体構造がかなり違います。そんな中でみずきちゃんだけがヒトと見分けがつかない姿なのは、意図的に外見を似せたための必然だと考えるのが自然です。
 さらに、みずきちゃんが乗ってきた宇宙船の形状も、この説を補強する傍証と言えます。宇宙船は小型の円盤型で特に厚みが小さく、床に横たわった様子(2巻p.122)を見るとみずきちゃんの身長程度の高さがあるかどうかです。大気圏突入に必要な外壁の厚みを考えれば、内部でみずきちゃんが立つことはおろか座れるかどうかも怪しいです。もちろん宇宙飛行中はずっと横になって長期睡眠状態だったとも考えられますが、中でヒト型の生物が過ごしやすいデザインになっていないのは確かです。
 この擬態説の応用として、地球に着いたみずきちゃんはたまたま見つけた女学生を捕食し、取り込んだ遺伝子を元に体を再構築したという考え方もあります。この説を採用すれば、みずきちゃんが制服一着だけ持っていることに説明がつきます。
 さらにこの説を推し進めると、みずきちゃんの本体はもっと小さく、地球人の女学生に寄生して操っているのではないかと考えることもできます。人に寄生できるサイズならばあの宇宙船の大きさで十分ですし、他の生物の体内に入り込んで行動を操るというのは、みずきちゃんがポコドンに対して実際にやっていることです。
 ただ、これらの説を採用するなら、へそが3つあるという地球人と異なる形状をわざわざ取っている理由を説明しなければならないという弱点があります。

*10:【胎内にある頭部】
 子宮内に脳と感覚器を備えた頭部があるということは、当然その形態が胎児の成長に有利に働くということです。頭部が胎児の状態を直接見て判断し、触手を用いて繊細に養育するのでしょう。プナドラは環境などに応じて姿が大きく変わりますが、その性質を最大限活かすために、頭部が周囲の状況を判断して恣意的に胎児の身体を変化させているという可能性もあります。
 また、胎内の頭部が言語能力を持つということは、母体が胎児と直接コミュニケーションを取るということになります。子宮内で身体的に成長させるだけでなく、同時に教育まで行うということです。この「胎教」で出生時までに知性を獲得させるというプナドラの形質を、もしみずきちゃんの親個体が発現していたとしたら、ヒト型プナドラやポコドンが親とほとんど変わらない姿と大きさで生まれてくることも合わせて考えると、みずきちゃんは見た目よりも年齢が低い可能性があります。あれで実はまるくんより年下なんてこともあり得なくはないのです。

*11:【他の星に】
 みずきちゃんが生まれたのがポコドンの棲息している星であり、そこが水の豊富な環境だったのは確かだと思います。ただ、そこがポコドンの原産地かどうかは分かりません。ポコドンが他種の手で家畜として運ばれている可能性が高いのはすでに見た通りですので、そのように移入されて定着した星でみずきちゃんが生まれたというパターンもあり得るのです。

*12:【プナドラの遺伝子】
 プナドラの怪獣大図鑑(2巻カバー下)の最後には「最近人間型の種類のものも見つかったらしい」という一文があります。その横にまるくん型プナドラの画像がありますし、孤島で繁殖していた集団のことを指していると受け取るのが自然でしょう。しかし、怪獣大図鑑は作者の視点で書かれており、登場人物が知り得ないような情報まで載っています。そう考えるとこの記述は、プナドラの遺伝子を引いて最近進化したと思われる人間型の生物、すなわちみずきちゃんのことを指しているとも取れます。

*13:【同種だと判断】
 単に仲間と姿が似ていたから、という学習による勘違いの可能性もありますが。

*14:【異性】
 ただし、ヒト型の繁殖を見る限りプナドラは雌雄同体なので、みずきちゃんがもし男性型だったとしても、まるくんは同じように性欲を抱いていた可能性が高いです。

*15:【引越してきた】
 水乃副隊長が一人で乳幼児を育てられるとは思えないので、出生の事情も合わせ、まるくんは防衛隊関連の施設で育てられていた可能性が高いと思います。二浜やナナ河などの防衛隊員がまるくんの顔を知っていたのもそのためでしょう。5歳になってある程度自活できると判断されたため、父である副隊長の家で暮らすことになったと思われます。つまり、もともと防衛隊副隊長が一人暮らししていたアパートに、町の破壊を企む異星人のみずきちゃんが入居したのが、偶然の因縁だと言えます。ただ、ワーカホリックで家に帰らない副隊長とみずきちゃんの間に直接の関係が生まれることはなく、息子のまるくんが偶然の邂逅を果たしたというわけです。

*16:【着手していません】
 育成計画を始めていたならポコドンは複数体いるはずで、まるくんが加わってから単体精液を最初の一体に注入する必要はありません。その期間は計画の準備を進めていたと考えることもできますが、ポコドンを育てるのに必要なのは水と容器くらいで、何日も掛けて用意する必要はありません。操作装置とリモコンを作っていたという可能性もありますが、あれも無ければ無いでどうにかなる物なので、早く町を壊したいはずのみずきちゃんが計画を遅らせる理由にはなりません。

*17:【交配相手】
 とはいえ、みずきちゃん個人の欲求はあくまで生殖ではなく破壊にあるので、交配相手のまるくんのことも特に大切に扱うことはありません。まるくんが溺れて死んだと思った時に投げ捨てて帰ったのも、死んでしまったならもう必要ないという冷徹な合理性によるものでしょう。
 ただ、交配相手にポコドンよりまるくんを選んだように、みずきちゃんは相手とコミュニケーションを取ることをある程度大事にしています。それは彼女が「約束」を重視している(1巻p.16,17)ことや、「生きてたんだー  よかったねー」(1巻p.101)と感情移入を示すことにも表れています。何より、みずきちゃんは町の破壊という自分の好きなことを、まるくんと共有しようとしています。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第5.2章. 他のみんなは何が足りないか

目次


はじめに

 前回5.1章では、如月と奥島の足りなさを考えました。

 この5.2章では、残る登場人物たちについて掘り下げていこうと思います。
 まだ触れていないキャラクターと言えば、藤岡の取り巻きの宮沢と野村ですね。また、キャラクターと言えるかは微妙ですが、ナツの母親についても考えてみます。さらに、おまけのおまけ程度に旭の彼氏の水沢先輩にも触れます。
 いよいよ描写されている部分が少ない登場人物たちですが、かれらの足りなさは何なのでしょうか。
 
 1節では宮沢、2節では野村、3節で水沢、4節でナツの母について考えます。
 ではいってみましょう。



1節.  宮沢さんは何が足りない?

 まずは、宮沢の足りなさについて考えてみます。
 宮沢と言えば、千恵にお金を盗まれた直接の被害者なので、本来なら千恵の物語で重要な登場人物であるはずです。しかし彼女は、メインキャラと言うにはどうにも影が薄いです。
 視点の多くを占めるナツにとって、また多くの読者にとっても、『藤岡の取り巻きその1』という印象が強いと思います。実際、宮沢の被害者としての立ち位置が弱いのも、盗難事件への対応を藤岡が率先して担っていることが大きいです。そして、千恵の物語においてもナツの私小説においても、主要な役割を持つのは藤岡であり、宮沢は副次的な位置に留まることは、本編の第5章4節と第3章6節でそれぞれ見た通りです。
 このように、他の登場人物や読者からは、宮沢は主となる藤岡に対して従となる位置にいるように見えているのです。そして、宮沢自身もその位置にいることを望んでいるように見えます。
 宮沢の個性として明らかなのは、『藤岡のことが大好き*1』という部分です。バスケ部員のために、また家族のために、身を削って貢献する藤岡の姿を旭に説いたのは宮沢です(p.166, 172)。盗難のことに藤岡は関係ないだろうと言った旭に「関係あるよ!」と反論し、藤岡がお金を出してくれたことを敢然と言い募る場面(p.165‐166)が、宮沢という登場人物のハイライトだと思います。また、旭と藤岡たちが休日に遊んでいる一コマ(p.201)で、楽しげな藤岡の顔を嬉しそうに見上げる宮沢の表情・構図を見ても、*2宮沢が藤岡を深く慕っていることは強調して表されていると言えるでしょう。*3

 そう考えると、宮沢が藤岡からお金を徴収する場面の会話にも秘められた感情が見えてきます。藤岡は自分で言うようにバスケ部では完全に幽霊部員であり、公的な部費でもない顧問のプレゼント代など、出さなくても本来全く問題はないはずです。それでも宮沢が藤岡から徴収しようとした理由は、「藤岡も一応女バスなんだから」(p.106)というセリフに全て表れていると思います。家庭の事情で参加できなくなっても藤岡は部活の仲間であり、遠慮して除外せずに部員として扱うべきだという、宮沢なりの義理の立て方でしょう。同じコマの野村はあまり納得していなそうな顔で宮沢を見ているので、藤岡からも徴収すべきというのは宮沢の意見だと思われます。誰よりも宮沢が、藤岡が家族のために部活に来られないことに割り切れない思いを抱いていることが分かります。
 しかし、宮沢が部員として扱ったことで、藤岡には金銭の負担が掛かっています。それも、詳しい経緯は分かりませんが2人分のお金を出すことになっています。宮沢の善意が空回りしたとは言いませんが、結果的に想定した以上の負担を掛けることになったのです。
 これと同じ構図の出来事は他にもあります。藤岡がお金を出していることを宮沢が旭に説明した後に付け足した「その1000円は藤岡のだからね!」(p.166)というセリフです。これは、藤岡は無関係だという旭の発言への反論として『千恵が返せない1000円は藤岡が出したものでもある』という意図で発されたものです。藤岡が誤解されるのが我慢ならなかったのでしょう。これは、実際にその1000円が藤岡の所有物だという意味ではありません。千恵が盗んだ時点で3000円は宮沢が集めて保管していたものであり、その中のどの1000円が誰のものだったかなど区別できません。よって、本来なら宮沢の責任の下に千恵にきっちり全額を返させなければならなかったはずです。しかし、藤岡はそのような形で摩擦が長引くことを望みませんでしたし、その場で千恵に許しを与えた上で教え導こうとしました。そのために、『その1000円は藤岡の』という言葉を『その1000円は藤岡に裁量権がある』と読み換え、自分が1000円を千恵に譲渡するという形でその場を収めました。この一種の詭弁により、藤岡は千恵を救うと同時に、宮沢が抱えなければならない面倒事をも潰したわけです。そういう手段を取ったことは藤岡自身の選択です。しかし、藤岡を誤解から守りたい一心で発した宮沢の言葉が、藤岡が負担を引き受ける*4きっかけとなったのは事実です。
 さらに、宮沢が意識せずに藤岡に負担を掛けようとしている場面がもう一つあります。宮沢たちと旭が揉めているところに藤岡が来て、一触即発の空気が流れる場面(p.116)です。ここでの宮沢は、「あっ藤岡!  旭さんがいきなり暴力ふるってきて」と報告し、藤岡の「お前  けっこうこいてるよなあ」という旭への威圧に応えて「どうする?」とお伺いを立てます。発言が完全に三下です。旭に近付いていく藤岡を見る(p.116の5コマ目)時など、悪い小者の顔になってしまっています。発言も表情も、明らかに藤岡が旭にやり返してくれることを期待しています。とはいえ、宮沢が特に好戦的なわけではなく、旭が千恵に掴みかかった時に「ちょっとちょっと 落ち着いてよ  泣いてるじゃない」(p.160)と割って入る姿を見れば、普段は穏健派なのが分かります。逆に言えば、いつもは喧嘩などするタイプでないからこそ、旭に胸ぐらを掴んで怒鳴られた(p.114)ことで強く動揺したのでしょう。だからこそ、信頼を寄せる藤岡が現れたことで安心し、トラブルの解決を藤岡に頼る気持ちになってしまったと思われます。しかし、ここでもし藤岡が実力行使に出たとしたら、事が大きくなった時に処罰されるのは藤岡です。そこまで具体的に期待していなかったとしても、『暴力ふるってきて』という完全に嘘ではないが角の立つ報告をした時点で、藤岡を積極的にトラブルに巻き込む形になっていることを宮沢は気付いてもよかったと思います。
 以上のように、宮沢は藤岡に強い仲間意識と信頼を抱いています。それゆえに、常に藤岡を立てようとしますが、それが過剰に頼ることに繋がり、藤岡に予期せぬ負担を掛けてしまうことがあるのです。

 そもそも、宮沢は藤岡を常に上に見ている節があります。
 それも無理はないでしょう。藤岡は家業の手伝いと妹たちの世話を抱えて多忙な状態で、それでも部内で一番バスケが上手かったのです(p.172)。間近で見ていた宮沢からすれば、その時点で特別な尊敬の対象になって当然です。その上さらに、祖母の介護まで引き受けて部活に来られなくなったのです。宮沢は自分事ではないながらも、やるせない思いを抱え、藤岡が少しでも幸せであってほしいという祈りも抱いたでしょう。同時に、自分よりも責任を負った大人として藤岡を見上げたはずです。*5
 そして藤岡は、実際に宮沢よりも大人です。同級生の誰よりも優しく聡明で、問題解決能力に秀でています。宮沢が知らず知らずのうちに藤岡に負担を掛けてしまった先の3つの事例でも、宮沢が期待した以上にスマートにその場を収めています。宮沢が半ば依存に近く見えるほど絶大な信頼を藤岡に寄せるのも、むべなるかなと言えます。
 しかし、藤岡にとっては、そのように宮沢から頼られ見上げられているのは、あまり望ましいことではありません。第4章で述べましたが、姉として大人として振る舞わざるを得ないことは、藤岡にとっての足りなさです。宮沢に頼られることは大人としての態度を求められることであり、それは進んで果たしたい役目ではないでしょう。藤岡も自身が宮沢たちより大人なのは自覚しており、現在の関係性も決して嫌がってはいないでしょうが、積極的に頼られる立場でいたいとは思っていないはずです。
 そういう藤岡の感覚が垣間見えるのが、宮沢と旭が揉めていた時の対応です。宮沢に「旭さんがいきなり暴力ふるってきて」(p.116)と言われた藤岡は旭を威圧しますが、お金がなくなったことを聞いて捜索を優先させ、その場を収めます。ここで考えてほしいのですが、友達が『いきなり暴力をふるわれた』と言ってきたら、まずどういうことをされたのか確認すると思いませんか?  殴られたのか蹴られたのかビンタされたのか、まだ痛むのか怪我をしたのか、そういった暴力の種類と程度が気になると思いますし、それを聞いてから対応しようとするのではないでしょうか。しかし藤岡はそういうことを何も聞かず、結局は旭をスルーしました。実際に宮沢の言う『暴力』は胸ぐらを掴まれたことだったわけですが、藤岡は宮沢が大したことをされていない*6のが分かっていたと思われます。『暴力ふるってきて』という宮沢の言い方と、旭が「暴力なんかふるってねえだろ」(同)と否定したことから状況を感じ取ったのでしょう。ある意味で、友達の宮沢の言うことと敵対的な旭の言うことを同程度に信用したわけです。そういう判断に至ったのは、宮沢なら自分に甘えて多少大げさに言うだろうという想像が藤岡の中にあったからでしょう。宮沢が過剰に自分に頼っていることを、藤岡はある程度認識していたのです。
 そう考えると、その場面での旭への攻撃的な物言いも、宮沢と野村の期待を慮ったパフォーマンスとしての面があるように見えてきます。「お前  けっこうこいてるよなあ」(同)は完全に喧嘩をふっかける時のセリフですが、そうやって威嚇しておきながらそれ以上のことはしなかったところを見ると、むしろ宮沢たちのメンツのために敵対的な態度を取って見せたように思えます。さらに、「こんな奴相手するよりそっちが先だろ」(p.117)は明確に、状況を収拾させる意図で言っています。『こんな奴』と相手を矮小化することで、衝突を避けつつ宮沢たちの感情にも同調してみせて、自然に場を収めています。
 このように宮沢は、藤岡の欲している関係を与えられず、意図せずに余計な負担を掛けてしまっています。とはいえ、そのような関係性を宮沢が望んで築き上げたわけでもないと思います。藤岡が家族をはじめ周囲のために身を削っていることを宮沢はよく知っているので、できるなら自分は藤岡の助けになりたいと思ったはずです。*7 しかし、藤岡は精神的に成熟していてだいたい何でもできるので、宮沢が助けるまでもなく自分のことをやり、人のことまで助けてきたのでしょう。それを間近で見てきた宮沢が、尊敬と信頼の念を強めると同時に、藤岡の助けになることを徐々に諦めていったとしても仕方のないことかもしれません。そしていつの間にか、助けるー助けられるという一種の上下関係が固定され、宮沢は藤岡に頼ってしまう習慣が付いたのでしょう。
 ところが、宮沢が築けなかった関係を藤岡に与えられる人物がいます。それが旭です。旭は同級生の誰にも対等に、というかちょっと上からな感じで接し*8、藤岡にも臆しません。千恵の盗みが発覚した時は、強引にでも反省させようとし、自ら望んで姉として大人としての役割を引き受けようとする姿を見せました。それを自分が果たせず、藤岡が完璧にやって見せた時も、ぶっきらぼうに「悪かったな それとありがとう」(p.173)と言っており、筋を通しつつ対等に接しようとしているのが伺えます。その態度は、一方的に頼られて大人の役割を果たすことを望まない藤岡にとって、好ましく映ったに違いありません。だからこそ、この場面での少ないやり取りで2人の仲は急接近し、2日後にみんなで遊んでいる時も、その輪の中心には笑い合う2人がいるのです。
 結局、対等に助け合う関係になることが難しくても、そうありたいという意志を示して行動するだけで、藤岡にとっては救いになったのです。しかし、宮沢は藤岡への尊敬の念が大きすぎたため、それができませんでした。旭にとって盗難事件が解決する場面は、自分が千恵の姉の役目を果たせないという足りなさを突き付けられた出来事でした。しかし同時にそのシーンで旭は、宮沢が占めたかった藤岡に対する立ち位置にするりと入り込んでいたのです。ここでもまた、『あの子にとっての足りない現状は私から見れば充足した理想』という足りなさの相対性が立ち現れています。

 さて、宮沢についてここまで述べてきたことをまとめます。
 宮沢は藤岡を慕っており、彼女が周囲のために自分を犠牲にすることをよく思っていません。彼女のためにできることがあればやってあげたいと思っています。しかし、藤岡は人格も能力も成熟しており、そんな自分より大人な彼女のためにしてあげられることを想像できず、宮沢は半ば諦めてしまっています。そういった藤岡を尊敬する気持ちのあまり、知らず知らずのうちに彼女を自分より上に見てしまい、藤岡の望む対等な関係を築けていません。それどころか、藤岡への信頼が行きすぎて過剰に頼ってしまい、意図せぬ負担を掛けてしまうこともあります。
 総合すると、作中に表れている宮沢の足りなさは『藤岡の助けになれない』ことだというのがここでの結論です。



2節.  野村さんは何が足りない?

 宮沢について掘り下げたので、相方の野村についても考えてみましょう。
 野村には何が足りないでしょうか? 
 
 まず思い付くところでは、存在感が足りません。
 野村が登場する時は、常に宮沢と一緒にいます。そして、物語の展開に必要な言動を取るのは、いつも宮沢の方です。藤岡含む女バスの部員からお金を集めたのも宮沢なら、千恵に疑いをかけて旭と直接トラブルになったのも宮沢ですし、藤岡がお金を出したことも家族に尽くしていることも全部宮沢が説明しました。
 野村は基本的に宮沢の一歩後ろにいて、あまり喋らずに彼女に同調しています。特に盗難事件が解決するシーン(p.158‐173)などでは、千恵が宮沢に返したお金に「えと  2000円だけ?」(p.163)と指摘した以外は発言せず、常に宮沢の斜め後ろで彼女と同じ表情をしています。藤岡のサブの位置にいようとする宮沢のサブの位置にいようとするのが野村なわけで、徹底して前に出ない立ち回りをしていると言えます。

 かといって、感情や主張を表に出さないタイプというわけでもありません。
 例えば、集めていたお金がなくなった時は、野村が宮沢に「こうなったらみんなの机の中も調べよう」(p.111)と言っています。案外野村の方が過激派です。グループの中の親しい友達にはそういう面も出すわけです。*9
 また、千恵に最初に疑いをかけ、千恵を呼び出すよう旭に言って胸ぐらを掴まれたのは宮沢ですが、野村も一緒になって千恵を疑っています。「ねえ  取ったのって 南山さんなんじゃない?」(p.112の4コマ目)というセリフは、直前のコマで表情がアップになっている宮沢のものでしょうから、それに応えた「ありえるよ! 確かになんか悪びれもなくそういうことしそうだわ だってあの時私たちの話聞いてたし 教室掃除してたなら可能だよね」(p.113の2コマ目)は全て野村のセリフとして読むのが自然です。それに宮沢が「でしょ!  絶対あやしいよ!」(同6コマ目)と返すという会話の流れです。
 野村は宮沢の尻馬に乗った形ですが、『なんか悪びれもなくそういうことしそうだわ』というのは、宮沢よりひどいことを言っている気がします。*10  野村が旭に胸ぐらを掴まれて怒鳴られていてもおかしくなかったのですが、たまたま前に出ていた宮沢が捕まったわけです。
 加えて言えば、野村は千恵の悪口は言っていますが、旭の悪口は言っていません。「うるさいなあ  とかいってアンタが盗んだんじゃないの!?」(p.111)、「へえ  だから性格悪いんだ」(同)、「なによこいつ  調子のっちゃってさ」(p.115)、「全然つりあってないから身の程知ったほうがいいよ」(同)、「だからあんたはみんなに嫌われてんだよ」(同)など、数々の旭への罵倒は全て宮沢の口から出たものです。野村が旭に関して言ったのは「取るわけないよ  この子ん家金持ちだもん」(p.111)という、冷ややかな敵意は見え隠れしますが直接の悪口とはむしろ逆の意味のセリフだけです。宮沢は後に「私たちこそ  この前はひどいこと言っちゃって」(p.171)と、野村と2人で旭を悪く言ったように謝罪していますが、少なくとも旭に対して直接罵ったのは宮沢一人です。野村は、その場にいない千恵の悪口は言いましたが、目の前にいて言い返してくる旭には攻撃していないのです。
 どこまで意図的かは別にして、そういうのが野村の立ち回り方だと言えます。

 ここまでをまとめると、野村の特徴は、攻撃的な思考もしているがそれをあまり目立たせず、友達の一歩後ろに*11いて、問題への対処や判断を任せがちだということになります。野村の足りなさは、一言で言えば『消極性』ではないかと作中の描写からは言えます。
 とはいえ、そういった消極的な性格を野村自身が短所だと思っていないこともありえます。あるいは、面倒や責任を負わないために、そういった立ち回りを意図的に選んでいるかもしれません。そのような場合、他者からはそれがあまりよくない性質として見えたとしても、野村にとってそれは足りなさではないということになります。よって、消極性が野村の足りなさだというのは、あくまで作中の描写からの想像にすぎないということは言っておかねばなりません。
 やはり、あまり目立たず発言が少ないという特徴ゆえに、野村の内面を推測するのは限界があるのです。*12

 さて、余談です。
 ここまで野村の性質を見てきましたが、彼女に似た部分があるキャラクターがいます。ナツです。
 まず、グループ内でのポジションが似ています。女子3人のグループの中で一番目立たない立ち位置です。他の2人が主張したり目立ったりする中、一歩引いた場所で見ていることが共通しています。
 また、野村が攻撃的な思考や言動もしているが、それをあまり目立たせないようにしているというのはさっき見た通りです。宮沢に同調する形で千恵を悪く言い、そこにいる旭に直接悪口を言うことはしていません。これは、ナツが藤岡や宮沢に対しては強く出たり抗議したりできないのに、自分のグループの中では溜め込んでいた陰口を言う(p.175)のと似ています。「ふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張できずに黙ってて」(p.211)というナツの自己否定に近い性質を、野村も持っているのではないかと想像されます。
 とはいえ野村は、宮沢に続いてならグループ外の旭たちにも千恵の悪口を言っていますし、宮沢が旭に胸ぐらを掴まれた時は「やめてよ  こっちは被害者なんだよ」(p.114)と叫んで割って入っており、千恵への疑いを否定しようとして結局何も言えなかったナツよりは積極的に動いています。しかしそれは、宮沢が旭に圧倒されていて自分が止めるしかなかったからだとも考えられます。そういう意味では、ナツは先に旭が怒ったから抗議するタイミングを失ったのかもしれません。この時の野村のように、必然性や正当性があれば前に出るという傾向は、藤岡が千恵に絡んでいた時に「藤岡さんがこわいみたい」「嫌だったみたい」(p.108)とやんわり止める時のナツにも見られます。*13  やはり、この2人の行動原理には近いものを感じます。
 しかし、言動の傾向が似ていて、抱える足りなさも似通っているかもしれない野村とナツが、実際に近付いてお互いの内面を分かり合うことはおそらくありません。2人ともが、別グループに属する相手に積極的に関わるタイプではないので、接点が生まれにくいからです。彼女たちは、『消極性』という性質ゆえに、その性質を誰かと分かち合う機会も持たないのです。*14



3節.  水沢先輩は何が足りない?

 水沢先輩と言えば、旭の彼氏ですね。
 しかし水沢は、名前こそ複数回言及されるものの、実際に登場するのは2コマのみです。しかも、そのうち1コマ(p.40の4コマ目)は遠目で全身が小さく見えているだけで、もう1コマ(p.41の2コマ目)で横顔が一度見える程度の描写しかありません。そして、そもそもセリフが一言もありません。
 もはや登場人物と呼ぶことすら躊躇われますが、一応彼についても考えてみましょう。

 水沢について作中に出ている情報は、旭やナツたちより一学年上の3年生であること、サッカー部に所属しておりエース選手であること、女子の間で有名であること、*15これだけです。
 というのも、作中での水沢の役目は『恋人がいる』状態を作るための旭のオプションであり、個人としてのキャラクター性は必要ないからです。過剰なほどにスペックが盛られているのも、旭の充足度合いを強調し、ナツの劣等感をより効果的に引き出すための装飾です。つまり、水沢はナツの私小説の側でのみ意味を持つ舞台装置のようなものです。

 それを言った上で、あえて人間としての彼について評価しますが、いや、よくできた人ですよ水沢くんは。サッカー部のエースでイケメンで他学年含め女子にキャーキャー言われてるわけです。そんな彼が旭を選んで付き合ってるんです。よく分かってますよ。クラスでも交友の狭い旭と何で知り合ったか*16知りませんが、旭という人間の魅力にちゃんと気付くっていうのは、ほんと、よく見てますよ彼は。
 ただ、一つだけ言わせてもらうなら、センスがヤバい。旭に贈ったリボン、なんなんあれ。そこそこの大きさのリボンにちっちゃいハートがたくさん散ってるやつ(p.83の7コマ目)。もうちょいなんかあったやろ。リボン売ってるとこ(p.86の4コマ目)とか見てもさ、他に色々あるやん。なんなん、旭があれ頭に付けると思ったん?  いや、ないやろ。絶対ないやろ。ちゃんと見てる? 旭のこと。さっき誉めたけどさ、ほんまにちゃんと見てる?  なに?  どうせ頭には付けてくれへんやろって思てカバンとかに付けてもそこそこ目立つやつ選んだん?  ふーん。そういう、独占欲とか。ふーん。
 まあ、そんぐらいしかけなすとこないもんな。色々言うたけどな、がんばってや。旭のことちゃんと見たるんやで。

 というわけで、水沢に足りないのは『センス』でした。
 


4節.  お母さんは何が足りない?

 今節では、ナツの母親について掘り下げようと思います。
 彼女もまた、登場キャラクターと呼ぶには不十分な人物です。何しろビジュアルが皆無です。現代の時間軸では体の一部すら描かれず、ナツの回想シーンでおそらく母親だろうと思われる左腕と腰付近(p.129の4コマ目, p.130の3コマ目)、およびごく小さなシルエット(p.131の3コマ目)が見えるだけです。彼女を特徴付けるのはいくつかのセリフと手紙の書き文字のみですが、それらもわりとステレオタイプな『母』という印象の言葉で、個人としての内面を想像するのは難しそうに思えます。
 しかしまあ、考えてみましょう。

 いきなり話が飛ぶんですが、ネット上のどこかで見た本作の感想でとてもしっくりきたものがあって、それは「夜な夜な夜な」という曲が小林ナツのイメージソングとして聴けるという記述です。「夜な夜な夜な」は歌手の倉橋ヨエコさんが作詞作曲した曲で、「夜は自己嫌悪で忙しい」というサビのフレーズで有名です。何かにつけて人間関係のうまくいかなさを思い、夜に一人で気分が沈んでマイナス思考が膨れ上がっていく様を歌った歌詞は、確かにナツの心性とぴったりはまるなと腑に落ちました。
 その中でも、一番私が『これはナツのことだ』と思った部分は、2番の序盤にある以下の歌詞です。
  “安売りも  乗り換えも  陰口も
    間悪いし
    親譲り  親譲り  親譲り
          間悪いし”
 そう、ナツは間が悪いし、それは親譲りなんだよ、という気付きがありました。
 どういうことか。まず、ナツの間の悪さを見てみましょう。始まりは第5話冒頭です。母親に駄々をこねてお小遣いをねだっているのをたまたま同級生に聞かれるというのは、それだけで致死的に間が悪いですが、同時にこれは後の逸脱の引き金でもあります。その他にもいくつかの偶然が重なって、千恵はお金を盗み、ナツはそれを受け取ってしまいます。そしてその後に、ナツの間の悪さがさらに発揮されます。盗難事件が解決する場にたまたま居合わせなかったために救いを得られず、最悪のタイミングで旭たちに藤岡の陰口を言い、偶然に旭が藤岡たちと遊んでいるところを目撃し、どんどん自己否定に沈んでいきます。自分の性格からくる自業自得半分、純粋な不運半分のナツの間の悪さは、作品の展開上課せられた足りなさの一つだと言えます。
 それでは、その間の悪さが親譲りというのはどういうことでしょうか。というのは、ナツの母親も間の悪さが描かれているのです。彼女の間の悪さは、お金をあげるタイミングに尽きます。彼女は、翌々月分までのお小遣いを前借りしたいというナツの希望を一旦ははねつけましたが、数日後に考え直して前借り分の1000円を娘に与えます。しかし、彼女が一度断った翌日に、すでにナツは盗んだお金を受け取っており、自らを窮地に追い込んでいました。「遅いんだよ  こんなのもういらないんだよ すごくイヤな気分だよ」(p.192)というナツの言葉は八つ当たりに過ぎませんが、最初に頼まれた時点でお小遣いをあげていれば事は起こらなかったという意味では、タイミングが悪かったのは確かです。*17
 さらに言えば、ねだられた時にお金を渡していれば、聞いていた千恵がお金を盗むことはなく、ナツが追い詰められることもありませんでした。母の間の悪さがナツの間の悪さに影響を与えていると言うことができます。まさに『親譲り』なわけです。

 このような、ナツが持っている『親譲り』の足りなさは、間の悪さだけではありません。最も分かりやすいのは家庭環境でしょう。
 小林家は決して裕福ではありません。ナツ本人が思うほど『何もない』わけではなく、母はできる限りのものをナツに与えていますが、いつ休んでいるのか分からないほど働きながらも、行楽や旅行には行けない暮らし振りなのは確かです。自分の家庭が貧しい方だというナツの認識自体は、間違ったものではありません。そして当然、経済状況の足りなさは親から子へ直接的に受け継がれてしまったものです。
 また、母に夫がいないことも、ナツに父の不在として受け継がれています。*18  むろん、親が2人いないことは必ずしも不足を意味しません。しかし、ナツが小学3年生の頃までは父親がいたこと(p.129)と、家族旅行の思い出がその頃であること(同)、海に行ったのもその時期が最後であること(p.199)を併せると、父親がいなくなったことが小林家の経済状況に影響を与えていると考えるのが自然です。*19  何より、ナツ自身が自分の家庭を他所と比較して、父親がいないことを『足りなさ』と捉えていることは、想像に難くありません。*20
 加えて、箸の持ち方のような教養やパソコン操作のような生活知識が不足している状態も、家庭内で受け継がれたものです。ナツの母もそれらに疎いのか、あるいはそれらを娘に伝える余裕がなかったのかは分かりません。しかしどちらにしろ、母の足りなさがナツの足りなさに影響していることは確かです。

 このように、母から直接受け継がれた足りなさをナツはいくつも抱えています。そして、ナツの最大の足りなさである『客観習慣の過剰』さえ、母と共通しています。
 それが表れているのが、母がお小遣いと一緒にナツに置いておいた手紙(p.192)です。
 手紙の末尾には「お母さんより♥️」と署名がありますが、「さん」は後から付け足されたのが分かります。そこから、初めは「母より」だったけれども、それでは素っ気ないと感じて「お」「さん」とハートマークを後から書き足したことが推測できます。それを踏まえて手紙全体の行間や余白を見ると、「いつもごはんつくりおきでごめんね今度ファミレスいこ!」の一文と、各文末の顔文字・絵文字も、後から付け足したものだろうと想像できます。
 お小遣いを特別に渡してあげるという状況でありながら、最大限に柔らかく親愛の情をもって書こうと苦心しています。娘にどう伝わるかを気にしすぎて、自分で書いた短い手紙を何度も見返しては語句や絵文字を加えていく姿が想像されます。それは、ナツが空気を読んで最適な言動をしようとして空回りする姿に重なります。あれはまさに、客観習慣の過剰が写し出された手紙なのです。
 また、今節の初めに触れたように、ナツの母のセリフや文章がステレオタイプな『母親』*21に近いことも、客観習慣の過剰と関連していると考えられます。つまり、母親という役を演じているということです。もちろん、子供が生まれた夫婦が『お父さん』『お母さん』とお互いを呼び始めるように、親というのは普遍的に親の役を演じているものでしょう。ただ、その中でもナツの母が一般的な母親像に近い振る舞いをしているということは、それだけ意識的に強固に母親役を演じているということです。*22  そこには、自分を外から見て適切に行動しようとする客観習慣が大きく影響していることでしょう。同時に、客観習慣の過剰によって他者と比較してしまうために、よその家庭と比べて望ましいとは言い難い成育環境だからこそ、より自分がきちんと母親としての役割を果たさなければならないという使命感が大きいのかもしれません。
 しかし、以上のように母とナツに客観習慣の過剰という足りなさが共通しているからといって、それが親から子へ受け継がれたものだとは必ずしも言えません。確かに、教育や些少な遺伝要素によって、子の気質が親と似通うのは一般的なことです。しかしそれは、あくまで部分的な傾向の話であって、客観習慣の過剰という思考の癖が母からナツへ直接的に受け継がれたかというと、そうかもしれないとしか言えません。
 ただし、ナツの問題の核である、他者の充足を自分と比較して劣等感を覚えがちだという偏った客観習慣の過剰には、家庭環境が影響していることが容易に想像できます。*23  父親がいない決して裕福ではない団地住まいでなければ、ことさらに他人と比べて羨む必然性が薄かったでしょう。つまり、ナツの最大の足りなさは、母から受け継いだ足りなさが一因となってできていたのです。そして、同じ家庭環境の足りなさが母の客観習慣にも影響を与えていると思われます。*24  彼女もまた、自分が娘に多くを与えられないことを他の家庭と比較して気に病んでいるだろうことは、手紙の文面や、一度断ったお小遣いの前借りを後から許すことから垣間見えます。要するに、親子に共通している他者との比較に偏った客観習慣の過剰は、家庭環境という共有された不足を通じて繋がっているのです。

 以上のように、間の悪さや種々の家庭環境、客観習慣の過剰といったナツの足りなさの多くは、母親から受け継いでしまったものです。そして、母はそのことに苦しんでいます。
 それが表れているのが、ナツのお小遣いの前借りの希望に対する彼女の対応です。それをお願いされた彼女は、翌月分までの前借りは許しましたが、翌々月分は断りました。先述したように、彼女はかなり意図的に母親という役割を演じているので、娘のおねだりへのこの対応は、彼女の思う適切な母親としての行動だったはずです。実際、お小遣いは定期的に定額を支給するというルールを定めているものなので、それを守らせるのが正しいです。翌月分の前借りは許して寛容さも示したことを含め、親として適切な対応をしたと言えます。ところが、彼女は後からその判断を覆して、翌々月分までを渡します。正しい母親の役割よりも優先するものがあったから、そのような行動になったはずです。
 それが何かと言えば、娘への負い目でしょう。欲しいものを買える生活をさせてあげられていないという申し訳なさが、後から彼女の判断を変えさせたと思われます。物やお金以外にも、時間の足りなさゆえに娘に十分に愛情を示せていないのではという不安と、それを埋め合わせたいという気持ちも、手紙の文面からは伝わってきます。他の家庭ならもっと充足した生活ができたのに、という形で客観習慣が働いてもいるでしょう。
 つまり、『自分の足りなさを娘に受け継がせてしまっている』ことが、ナツの母の最大の足りなさです。いわば、つけを回してしまったという負い目を常に抱いているのです。

 それを踏まえた上で本作を読み返すと、ナツの母の思考の流れがなんとなく想像できます。
 まず第5話冒頭、火曜日の夜に、娘のお小遣い前借りのお願いを断って親子喧嘩になります。ナツは盛大に駄々をこねた後、泣きながら寝てしまいました。
 翌日の水曜日は普通に登校していきましたが、この日にお金の盗難に関わりを持ちます。帰宅したナツの中には様々な感情が渦巻いていたと思いますが、忙しい母がそれに気付いたかは分かりません。翌日の木曜日の朝に「昨日は元気だったでしょ!?」(p.128)と言っているところから、体調不良には見えていませんでした。
 この木曜日にナツは仮病を使って学校を欠席しますが、「熱っぽくて」(同)という症状の訴えに対しての「あとで病院行くからね  歩いていける?」(同)という反応からして、体調不良を疑っていないどころか、ちょっと大げさなほどに心配しているように見えます。*25  病院に行くと言って帰ってきた後、お見舞いに来た千恵と元気に遊んでいたことで、きっと安心したことでしょう。
 しかし、翌日の金曜日の朝に、ナツは「まだ具合悪くて」(p.140)と言い出します。母は「昨日  元気に遊んでたじゃない!?   今日  休んだらだめだからね!」(p.141)と返しますが、この時点で、娘が心理的な理由によって学校に行きたがっていないのではという疑いが首をもたげたでしょう。*26  しかしナツは結局は数十分程度の遅刻で自主的に登校したので、少しは安心したと思います。ところが、この日のナツは世界に否定されたと感じ、自分と他者の両方に対する呪いが心中に吹き荒れた状態で帰ってきます。ナツの心身の様子にいつもより注意を向けていたであろう母は、娘が普段と違うことに気付いたでしょう。*27
 そして翌日の土曜日も、母が在宅したかは分かりませんが、ナツは誰とも遊ばなかったはずなので、翌日の日曜と同じように一人で家で悶々としていた可能性が高いです。
 これらの状況から、母はナツが学校のことで何か悩んでいることを感じ取っていたでしょう。そう考えた時、心当たりは火曜日の夜にお小遣いをねだられたことです。ナツはこの時リボンを買うという目的も母に言っていますから、彼女の価値観からして学校で流行っていることも言ったでしょう。そして、みんなが持っているものを持っていない劣等感は、母にとっても痛いほど分かるものでしょうし、自分がそれを娘に引き継いでしまったという負い目でもあります。もしそれが原因で娘が学校を苦痛に思っているとしたら、と考えたならば苦しかったと思います。そうでなくても、心が沈んでいるナツに対して母がしてあげられることを考えた時、娘の望みとしてまず思い付くのはお小遣いのことだったはずです。
 こうした出来事と思考を経て、彼女は母として下した判断を撤回し、翌々月分のお小遣いをナツに渡したのです。それがおそらく、日曜日の午前中のことです。わざわざかわいい柄付きの便箋と封筒・テープを使い、過剰なまでに柔らかく優しい文面にしようと試みたのは、こういう経緯と心理があってのことなのです。
 先ほどは、ナツの母がお金を渡したのは間が悪かったと書きましたが、決して気まぐれでお金をくれたけどタイミングが悪かったというわけではないのです。母はナツの様子を見ていて、適切な行動とタイミングを計ろうとしており、間に合わせようとしたけど間に合わなかったのです。*28

 このように、ナツの母の心境を想像しながら読むと、また別の見え方があります。彼女もまた足りなさを抱えてもがく一人です。
 彼女が娘のことを大切に考えて思い悩んでいることを思うと、お金を受け取ったナツの「遅いんだよ」(p.192)という文句や、絶望したナツが自殺して母やみんなを後悔させようと考えるシーン(p.178‐179)は、本当にいたたまれない気持ちになります。
 そして、私小説の語り手たるナツが母親にあまり関心を向けないために、そういった母の思いや葛藤自体がほとんど見えないようになっていることにも、それが親という役割とはいえ、悲しさを覚えます。
 そんな風に顔も分からないナツの母ですが、彼女の足りなさは、その継承者たる娘のナツを通じて作中に写し出されているのです。そして、その継承自体が彼女の足りなさなのです。



おわりに

 ここまで読んでいただきありがとうございます。
 
 情報の少ないキャラクターたちについて妄想と願望で書いてたら、我ながらだいぶ気持ち悪い文章ができました。まあ、漫画一冊の感想を何万字も書いて公開してる時点で十分気持ち悪いと思うので、今さら気にしないことにします。

 『ちーちゃんはちょっと足りない』の登場人物の足りなさについて考える文章は、これで完結となります。お付き合いいただいてありがとうございます。
 また何か書くかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【大好き】
 といっても、宮沢が藤岡に抱いているのは友達としての情だと思います。細かく分けても信頼が主で、尊敬の念も入り混じっており、それらが多少依存に近付いているかもしれない、という程度でしょう。
 それを前提としての余談なんですが、本作を百合として解釈する感想をネット上でたまに見かけます。私が見つけた限りでは、その全てがナツと千恵の依存百合への言及でした。私は、人間同士の関係を安易に恋愛の文脈に当てはめようとする考え方を、性別の組み合わせおよび創作/現実の別にかかわらずあまり好みません。(ただし言うまでもなく、作品をどう解釈するかは受け手の自由です。) その上で言いたいんですが、『ちーちゃんはちょっと足りない』に依存百合を見出だすならナツ→千恵の100歩手前に宮沢→藤岡だろうが! お前らいったい何を見てんだよ!!!  というのが個人的な感想です。

*2:【見上げる宮沢】
 そもそも、彼女たちの顔が初めて出るシーンが、前を向いた藤岡を隣の宮沢が見上げるカット(p.86の2コマ目)です。

*3:【慕っている】
 これも妄想というか邪推の範囲なんですが、藤岡と宮沢が最も髪型の似ているキャラクターの組み合わせなのも意味深く思えてきます。それも、コマによって見え方が違いますが、多分藤岡の方がちょっと髪が長いです。p.88の1コマ目やp.160の1コマ目を見ると宮沢の髪は背中の中程までありますが、藤岡はp.106の5コマ目やp.161の3コマ目で分かるように、腰の上あたりまで髪がきています。また、2人の髪型が唯一明らかに違うところが、藤岡が妹との繋がりの象徴であるリボンをとめている前髪だということも、それが宮沢が敬意を払うポイントの一つであることを踏まえ、意味があるように見えてきます。これ以上いくと二次創作の域に入るので止めますね。

*4:【負担を引き受ける】
 具体的には、「いいよいいよ  やるよチビ」(p.166)というセリフがその意思表示です。おそらくその直前、笑みを浮かべた口元だけが見える3コマ目の瞬間に、宮沢の発言を受けてこの収め方を練り上げたのでしょう。
 第4章4節でも触れましたが、この後に藤岡が千恵にあげた1000円分を新しく出して補填したのか、それとも1000円は徴収できなかった扱いにして宮沢は2000円を上納したのか、それは分かりません。一連の経緯を見ている以上、宮沢がさらに1000円を藤岡から受け取ることはなさそうに思えますが、描写がない以上確かなことは言えません。

*5:【見上げた】
 他者が自分より優れた大人に見えて執着を抱くというのは、ナツが旭に向ける感情と同じです。違うのは、ナツの感情が認められたいという思いと劣等感なのに対して、宮沢が藤岡に抱くのは純粋な敬意であることです。この違いは一つには、他者の優れた部分を自分と比べて劣等感を抱きがちなナツの思考習慣に起因するでしょう。もう一つの原因としては、旭と藤岡の持っているものの質の差があります。ナツは自分になくて旭にあるものを基本的に元から持っていたものと見なしており、実際にそういう面は大きいです。対して宮沢が藤岡を尊敬するポイントは、本人が選択してそうあろうとしていることです。だから宮沢は劣等感や嫉妬を混ぜずに、純粋な善意でもって藤岡を尊敬できるのでしょう。しかしそれは同時に、何ら抵抗なく心地よく藤岡に依存できるということなので、宮沢の方が健全だとも言い切れないところがあります。

*6:【大したこと】
 もちろんここで言う『大したことではない』というのは、『暴力』という言葉でくくられる行為の中で相対的に軽いという意味です。日本の刑法では胸ぐらを掴むことは暴行罪に相当しますので、やるべきではありません。

*7:【助けになりたい】
 それが表れているのが、藤岡がお金を出したことを旭に説明するシーンでしょう。あの時の宮沢は、藤岡の名誉を守ることにわずかなりとも寄与できることに奮い立っているのです。

*8:【上から】
 これは藤岡も共通しています。藤岡がなんとなく宮沢たちの上に立つような関係性ができたのは、もちろん彼女の能力や人格あってのものです。しかしそれに加えて、藤岡が元から態度がでかいから、宮沢たちも雰囲気を受けて子分っぽいムーブを強化した面はあると思います。例えば『魁!!クロマティ高校』(野中英次)における北斗とその子分の関係性ですね。
 だからこそ藤岡と旭は相性がいいとも言えます。2人とも親しくない同級生を名字で呼び捨てにして『あんた・お前』と呼ぶのが自然なタイプで、それでいて上に立ちたいという欲求は特にないので、お互いに遠慮なく言い合える対等な関係を築いていけるでしょう。

*9:【グループの中】
 ところで、これは妄想と願望の話なんですが、ナツと千恵がグッズショップで遭遇した後の藤岡たちは、「あいつ黙って三高の女と番号交換してたから──」「ブランドのサイフ買ってくれるって」(p.89)という話題で盛り上がっていました。素直に受け取るなら、『彼氏が別の女にモーションをかけてたから罰として高い品物を買わせた』という意味でしょう。(彼氏が高校生で同じ高校生にアプローチしたのか、彼氏は中学生で年上の高校生を狙ったのかはどっちとも取れます。)
 これ、誰のセリフだと思いますか?  作中の描写からは確定できません。ただ、このシーンでは藤岡がずっと喋って目立っていたので、なんとなく藤岡の発言だと思って読んだ人が多いと思います。しかし、その後「私らももう少しすれば大人だ 欲しいものは自分の力で手に入れられるようになる  楽しみじゃねえか」(p.169)と語る藤岡を見ると、前述のセリフとは少し遠い印象を受けます。では宮沢のセリフかというと、彼女は藤岡の前ではこういうこと言わないんじゃないかというのが私の勝手な印象です。
 なので、案外野村が言ったんじゃないかという気もするんですよね。私たちはナツや旭に近い視点からしか野村を見ていませんが、彼女はそういう場ではあまり素を出さないと思うので、逆説的にグループ内の会話ではどういうキャラでもおかしくないんですよね。何より、ちょっと不良っぽい女子グループの隅っこにいる目立たない子が、高校生と付き合ってブランドの財布を買わせてるとしたら、そのギャップは、こう、いいよね···と思います。すいません。

*10:【ひどいことを言って】
 ただし、宮沢と野村の疑いと印象論は全て正しかったことが後に判明します。なので、旭が宮沢たちに謝る時の「カッとなるとすぐ周りが見えなくなって情けねえ この前はお前らにも嫌な思いさせてしまって 本当にすまん」(p.171)というセリフには、正当な疑いを頭ごなしに否定したことへの謝罪も含まれているのでしょう。とはいえ、件の場面で千恵を疑う根拠は曖昧な状況証拠のみであり、宮沢と野村の発言が相手の友達の前でするべきものではなかったのも確かです。彼女らも人への気遣いができないタイプではないので、お金がなくなったことで焦る気持ちが攻撃的な言い方に繋がってしまったのでしょう。

*11:【友達の一歩後ろ】
 宮沢の側も、野村が自分の一歩後ろのポジションにいたがっていることを分かって行動している節があります。盗難事件の解決後、宮沢は野村を伴って旭に話しかけ、「私たちこそ  この前はひどいこと言っちゃって」(p.171)と言い、「私  旭さんを勝手に勘違いしてたよ ごめんね」(同)と謝りました。それによって、三者の間には和解が成り立った和やかな雰囲気が流れます(p.172の1コマ目)。しかし実際には、野村は何も言っておらず、宮沢の背後で反省した顔をしたり微笑んだりしているだけです。それでも野村も和解に参加した形になっているのは、宮沢が『私たち』という言葉を使った時に、これが自分と野村の両方からの謝罪であることを言外に表明したからでしょう。宮沢はこの件に関して、自分の意思表示を野村が後追いで共有することを自明として理解しているのです。
 また、おそらく宮沢がお金を集めて保管していたことも、そういった責任のある役目は野村より宮沢がやることが、2人の間で暗黙の了解になっていたのかもしれないと想像させます。

*12:【野村の内面】
 宮沢に関しては藤岡を大好きなことはすごく伝わってくるのですが、野村は発言が少ない分そういう執着の対象が見えづらく、藤岡に対して宮沢のように慕っているのかもよく分かりません。色々な意味で目立ち、面倒見のいい藤岡は、野村のようなタイプが一緒にいるには楽だろうと想像はできます。しかし、宮沢が藤岡を好きすぎて彼女についての情報説明を全部やってくれるので、野村が藤岡について喋るシーンがありません。
 というか実は、野村が藤岡と直接話すシーンがそもそもありません。グッズショップでリボンを物色するシーン(p.86の6コマ目)など、誰が発言しているのか分からないコマでは会話しているのかもしれませんが、発言者が分かる場面ではいつも宮沢が藤岡と喋っています。野村の藤岡とのやり取りで確定しているのは、宮沢と一緒に待っている野村に藤岡がすぐ行くと連絡したこと(p.158の1コマ目)だけですが、これさえグループLINEなどに藤岡が送信したのをたまたま野村が見ただけという可能性も高いと思います。
 結局野村は人間関係についても、『宮沢の斜め後ろにいがち』という関係性以外がほとんど見えてこないのです。

*13:【必然性】
 千恵が蜂と戦った時に「殺生はかわいそうだよ!」(p.14)とツッコんでクラスの注目する輪の中で漫才のような会話を繰り広げるなど、そこに千恵がいるという必然性があれば、ナツは周囲の目をあまり気にせず前に出ていけるのかもしれません。

*14:【性質ゆえに】
 これはナツの側から見れば、第2章8節で触れたような、足りなさが原因で足りなさから逃れられないという状況の1つだと言えます。

*15:【女子の間で有名】
 このことは、直接的にはナツの「水沢先輩だったかな  サッカー部のエースで女子に有名な」(p.41)というセリフで読者に示されます。加えてそのセリフは、交友関係が広くないナツが学年の違う水沢の顔を見ただけでそれだけ情報を思い出せるという事実によって、彼が有名であることを同時に立証しているのです。さらに、女子バスケ部で直接の交流のないであろう宮沢が旭との交際を知っており、「ちょっと3年の水沢先輩と付き合ってるからってさ  あんたがえらくなったって勘違いしてるんじゃないの 全然つりあってないから身の程知ったほうがいいよ」(p.115)と発言することも、水沢の知名度と人気の高さを如実に表しています。

*16:【何で知り合ったか】
 これもけっこう謎なんですよね。学年が違う2人にどんな接点があったのか。水沢はサッカー部員ですが、旭は放課後部活に行く様子は描かれていませんし、サッカー部でマネージャーやプレイヤーをやってそうではないですよね。校内で何か偶然の出会いがあったのか、家同士が近所で付き合いがあるなど校外に接点があったのか。このあたりは想像するしかありません。
 どちらからアプローチしたのかも気になるところです。旭はそこまで目立つタイプではなく、超人気の水沢に旭の方から行っても相手にされなさそうな感じがするんですよね。なので、逆に水沢の方が何かのきっかけで惚れ込んで告白してきた王道少女漫画的パターンが、案外可能性高いかもしれません。ただ、旭は旭で本気で好きになったら周りとか気にしなそうなので、並み居る女子を押しのけて猛アピールの末に射止めたパターンもあり得るとは思います。さすがにその場合ナツも気付きそうですけど。

*17:【タイミング】
 ナツがお小遣いをねだる時に「売り切れちゃうかもしれないの!」(p.102)と言っているので、もし盗んだお金で買っていなくても、後からお金をもらって買いに行ってみたら売り切れていたという形のタイミングの悪さもあり得たわけです。

*18:【父の不在】
 作者の別作品で、父の不在という足りなさがはっきり描写されるのが『空が灰色だから』1巻収録の第3話「空が灰色だから手をつなごう」です。主人公のシングルマザーの娘は、友達が持っているものをいくつも挙げた後に「みんなお父さんをもってるし なんでみんなが当たり前のようにもってるものを 私はひとつももってないの?」と問いかけます。
 このエピソードは、母親から娘に受け継がれてしまう足りなさをストレートに描いており、ナツと母に通じるものが多いと思います。この節でナツの母について考える際に、この話の主人公である黒川楓のイメージを重ねてしまっている部分はあるかもしれません。

*19:【いなくなった】
 ナツの父について作中で言及されるのは、「小3のころ  まだお父さんがいたころかな」(p.129)という回想のみです。なので、彼がどのようにしていなくなったのか、母と離婚したのか死別したのか、あるいは正式に離婚しなくても別居したり出奔したりしたのかは、確定し得ないところです。

*20:【他所と比較】
 南山家も同じく母子家庭の可能性が高いです。父親がいなくなった当時のナツにとって、自分と同じ境遇にある近しい人物が千恵だったのでしょう。そのことが、ナツが過剰に千恵を自分と同一視するようになった大きなきっかけだったとしても、不思議はないと思います。

*21:ステレオタイプな『母親』】
 メタ的に読めば、ナツの母がステレオタイプな母親像なのは、ビジュアルがないことで分かるように、個としてのキャラクターではなく単なる母親という記号であり舞台装置だからという風に見えます。ただ、彼女の手紙に残った逡巡の跡を見ると、人格を剥ぎ取った単なる記号として描かれているようには見えないのです。

*22:【その中でも】
 作者の別作品には、ステレオタイプな母親像にあまり当てはまらない母親も登場します。代表的なのは『もっと!』に掲載された「おもいでをまっくろに燃やして」(単行本未収録)の相川桃子でしょう。娘の不登校をただ受容する無職実家暮らしのシングルマザーです。他には『死に日々』のWeb連載第20話「7291」に登場する、『ババア』と呼ばれる谷口赤陽の母もいます。社会性の低い息子をなだめすかす立場ですが、たまにパンチの効いたボケをかまして息子にツッコまれます。彼女たちよりもナツの母の方が、母親像を強固に演じていると言えます。

*23:【家庭環境が影響】
 とはいえ、成育環境が似ている千恵は客観習慣の不足という全く逆の足りなさを抱えているわけで、ナツの思考習慣が身に付いたことにとって家庭の状況はあくまで一因に過ぎません。

*24:【母の客観習慣】
 ナツの母も、娘が小学校に入る前の夫がまだいた時期から団地住まい(p.95)なので、元からそれほど裕福ではなかったことが類推できます。正しいとされる作法をナツにきちんと教えていないことも併せ、彼女自身あまり恵まれたとは言えない環境で育ったのかもしれません。その中でナツと同様の思考習慣を身に付けていたとしても、不思議ではないと思います。

*25:【大げさなほどに心配】
 娘に「いつ休んでるんだろ」(p.192)と言われる彼女が、この日は朝から午後まで家にいることから、もしかしたら看病のために仕事を休んだ可能性もあります。

*26:【疑い】
 前日にナツは病院に行くと言って出かけましたが、実際にはグッズショップでリボンを買いました。このことで、診療費や薬などについての疑いも抱いていた可能性があります。もしもナツが『病院に行こうと思ったけど外に出たら良くなったから行かなかった』とごまかしていたら、それはそれで不審に思っていたでしょう。グッズショップに行く前に本当に病院に行った可能性もありますが、ナツが医者の前で仮病の訴えを貫き通すのも、ちょっと想像しにくいです。

*27:【心身の様子】
 ナツはこの日の午後をずっと『気分が悪い』と言って保健室で過ごし、保護者の迎えなしに一人で下校しました。こういう場合、学校から母親に連絡が行った可能性はかなり高いと思います。その場合、母は帰宅したナツの様子をより注視していたでしょう。

*28:【タイミングを計ろうと】
 このような、必死で状況に合わせようとしているのにズレてしまう間の悪さは、娘のナツにも似通ったところがあります。空気を読もうとして藤岡の陰口を言うも完全に裏目に出ている時のナツなどがそれですね。

『万引き家族』を深読みする 英雄スイミーと主人公

目次

はじめに

 映画『万引き家族』(是枝裕和監督)は各所で絶賛されましたね。私も、安藤サクラさんの取り調べのシーンをはじめ、素晴らしい演技と演出に圧倒されました。
 この映画の中で象徴的に引用されているのが『スイミー』です。この童話を読むのがなぜ祥太(城桧吏)なのか、そして、この物語が映画の内容に対してどういう関係を持っているのか、ということについて深読みと妄想を全開にして書いていきます。*1
 なお、これを読むあなたが映画を観ていることを前提に書くので、当然のようにネタバレしますことをご了承ください。


スイミーは英雄である

 まずは、『スイミー』がどういう物語なのか確認しましょう。
 『スイミー』は、レオ・レオニが1963年に発表した絵本です。Wikipedia*2によれば、日本では光村図書の小学2年の国語教科書に1977年から採用され続けているそうなので、学校で習った方が多いのではないでしょうか。もちろん読んだことのない方や忘れている方もいると思うので、あらすじを述べます。
 赤い小魚の群れの中で1匹だけ真っ黒なスイミーは、大きなまぐろに群れのきょうだいたちを食べられ、泳ぎが速かったために1匹だけ逃げ延びます。孤独に海を彷徨い色々な生き物を見た末に、きょうだいたちにそっくりな赤い小魚の群れに出会いますが、かれらもまたまぐろの襲撃に怯えていました。スイミーは群れで固まってまぐろより大きな魚のふりをすることを提案し、自分は黒い体を活かして目の役を演じ、見事まぐろを追い払うことに成功しました。
 だいたいこういう話です。
 この物語は、小学校低学年の教材として使われていることもあり、仲間と協力する大切さや、みんなと違う部分も個性として強みになるという教訓に回収して語られることが多いように思います。それらの理解が間違っている訳ではありませんが、芯を食っているとは言い難いです。
 実は、『スイミー』の本質は英雄譚です。

 ひとまず、主人公のスイミーに作者から与えられたものを数え上げてみましょう。
 まず、泳ぎの速さ。魚として最重要の能力と言っていいでしょう。大量にいたきょうだいの誰よりもずば抜けた泳力によって、スイミーはただ1匹虐殺から生き残ります。
 次に、発想力。日本語版の副題に「ちいさなかしこいさかなのはなし」と付いているように、集団で大きな魚に擬態するという作戦立案の能力が最終的な勝利をもたらしました。
 さらに、人望と統率力も凄まじいものがあります。放浪の後に出会った赤い魚たちにとって、スイミーは突然現れたよそ者であり、しかも自分たちとは全く異なる見た目の他者だったはずです。その状況から群れに溶け込み、隠れて怯えていた多数の弱者に危険な作戦を受け入れさせ、短期間で一糸乱れぬ隊列を完成させたわけです。他者の信頼を得て集団の指揮を執る能力にかけては、稀代の王の器と言って過言ではないでしょう。
 それから、劇的な巡り合わせを起こす運命の力をも備えています。流浪の末にきょうだいたちを全滅させた仇であるまぐろの脅威に再び直面し、それと同時に守るべき対象であり敵に立ち向かう力でもある、亡ききょうだいたちにそっくりな一族にも出会っています。その巡り合わせはまさに、運命によって主人公として決定付けられていると言えるでしょう。
 そして、上記全ての要素を備えた英雄であることの刻印として、スイミーはきょうだいたちと全く違う漆黒の体躯を授かって生まれてきました。これは、他の赤い魚たちが同じスタンプを捺すことで描かれていることと対照的です。スイミーはいわば、生まれた瞬間からその他大勢とは違う特別な存在として、誰の目にも明らかに聖別されていたのです。その上で、クライマックスで大きな魚の目として名乗りを上げるに至って、明確な役割をもってその黒い体を授かっていたことが明らかになります。それまで与えられた種々の力を存分に発揮して生き延び、集団を導いてきたスイミーが、最初から集団を中心で統率する「目」の座を約束されていたことが可視化されるわけです。「ぼくが、目になろう」という台詞は、スイミーが主人公=英雄=王であることが改めて承認されるシーンなのです。

 というわけで、『スイミー』という物語は、これほどに重ね重ね特別な存在であることが約束された運命の子・スイミーが、さすらいの末に自らの力で安息の地を勝ち取る貴種流離譚だと言えます。*3
 同時に、元々自然の摂理のままに天敵に対して逃げ隠れするしかなかった魚の群れに、団結と抗戦という新たな概念と擬態という手段をスイミーが持ち込んだことで、それまでの環境を一変して安全な生活を手に入れることができたという点に注目すれば、文化英雄譚であるとも言えます。*4
 さらに、別天地から漂着した異人が、弱者が寄り集まった群れでしかなかった集団を統率された組織として作り替え、軍事力を生み出して外敵を駆逐し、客人(まろうど)の王として安住の地を築き上げたという意味で、紛うことなき建国神話でもあります。
 要するに、『スイミー』という物語は、万能の主人公が神話的な事績を積み重ねて自らの運命に決着をつけるという、誇大的なまでの英雄譚だというのがここでの結論です。
 これは別の角度から見れば、たくさんの赤い魚たちは、スイミーという強烈な個性を描き出すための舞台装置に過ぎないということでもあります。


祥太は主人公である

 さて、『スイミー』について長々と述べましたが、これを前提として本題の『万引き家族
を紐解いていきましょう。
 1つ目の疑問は、なぜ『スイミー』を読むのが祥太なのか、ということです。
 単純に考えれば、『スイミー』は小学2年の教科書教材なので、小学生の年頃の祥太が対象年齢として合っていたということになります。しかし、祥太は学校に通っていないので、学年が読書に直接関係するわけではありません。例えば、信代(安藤サクラ)がりん(佐々木みゆ)に読み聞かせをするという形でもよかったはずです。*5
 さらに言えば、『スイミー』は作中で2回、深く印象付けるように引用されます。この童話が作品全体のテーマにも関わっていると考えるのが自然でしょう。だとすれば、それぞれ別々の登場人物が作中で『スイミー』に触れることで、この童話が物語全体に対して普遍的な関連を持っていることを示すという方法もあったはずです。
 にもかかわらず、祥太だけが繰り返して『スイミー』を読み上げるのはなぜなのでしょうか。
 それは、祥太がこの物語の主人公だからです。

 これを説明するために、まず主人公の条件について述べます。
 一般に物語の主人公が特権的に持ち合わせている要素は2つ、選択と変革です。主体的に決断して道を選び取り、物語世界に重要な変化をもたらす、それが典型的な主人公に与えられる役割です。*6
 もちろん、これに当てはまらない主人公も数多く存在します。例えば、日々の生活の中の出来事を描く物語には選択と変革自体が存在しないものもありますし、変化していく状況を観測する視点人物や、運命にひたすらに翻弄される犠牲者としての主人公も存在するでしょう。しかし、『スイミー』に象徴される英雄譚のような多くの神話・民話など、起承転結の構造をもって困難への対処を描いた典型的な物語においては、状況に転機をもたらし困難な現状を変革する者こそが主人公と呼ばれるのです。
 そして、主人公の選択によって困難を乗り越えて望んだ変化を起こせればそれは英雄譚となり、逆に選択の結果として何かが失われる変化が起きて物語が破滅に向かえばそれは悲劇と呼ばれるわけです。

 つまり、祥太が主人公であるというのは、『万引き家族』という物語において、主体的な選択を行って状況に変革を起こすのが祥太の役割だったという意味になります。
 では、作中で祥太が行った選択とはなんでしょうか。言うまでもなく、りんの万引きを止めるためにわざと目立つように盗みを働いた、あの行動に他なりません。
 祥太は、万引きが悪いことだと理解し始めていました。初枝(樹木希林)の死を隠蔽したことの後ろ暗さも感じ取っていたでしょう。そのような正しくない方法で守られ育てられてきた「妹」が、自らも正しくない方法に手を染めて生きようとする。そうやって続いていこうとする負の連鎖を断ち切るために変化を起こすという決断を、あの瞬間に祥太は下したのです。
 それでは、祥太以外の登場人物は主人公たり得ないのでしょうか。
 例えば、信代は作中で何度も選択を行っています。しかし、信代の選択はいつも現状の追認です。治(リリー・フランキー)が連れてきた少女を帰せなくなってしまったことも、同僚に脅迫されて仕事を辞めたことも、死んでしまった初枝を隠すのを決めたことも、前科のある治を庇う形で自分が罪を被ったことも、すでに起こってしまったことを諦めをもって受け入れ、できる限りのものを維持するための選択です。祥太に出自に繋がる情報を話したことは変化を起こす選択と言えなくもないですが、祥太の選択によって現状が変わったことに対応した選択であり、「家族」がすでにバラバラになってしまったことへの追認だとも言えます。いずれにせよ、現状を追認して維持する選択を繰り返す信代は、現状を変化させるために一度だけ選択を行う祥太と対比を成しています。
 それでは治はどうかというと、主体的に選択を行っているようには見えません。りんと出会って連れてきてしまう場面や、初枝の遺体を見て救急車を呼ぼうとする場面を見ると、目の前の出来事に反射的に対応し、後先を深く考えることなく行動に移してしまうのが治という人物の特徴に思えます。その結果、状況を変えるための決断をするどころか、状況の変化に取り残されてしまったことが、終盤で祥太の乗ったバスに引き離されて見送る姿で描かれています。
 また、りんについても、幼さのために、状況を主体的に判断して選択を行う能力は持っていません。自ら万引きを行おうとしたのは選択だとも言えますが、これは前述したように現状を受け入れて再生産する選択であり、これに抵抗する形で祥太は現状を変革する選択を下します。
 初枝と亜紀(松岡茉優)も、「家族」としての生活を始める時には状況を変える選択を行ったのでしょうが、作中で何かを変える決断をする場面は描かれません。これは信代と治も同じですが、少なくとも作中においては、選択と変革を行う役割を与えられていないのです。
 結局、物語の中で行われた変革のための選択は、祥太によるただ一度のみです。彼がミカンを掴んで駆け出すまでのあの一瞬にだけ、世界を変えるための決断が下されていたのです。*7


祥太は英雄ではない

 以上のように、祥太こそが物語の主人公であるわけですが、それでは、主人公であることが『スイミー』を読む理由だというのはどういうことでしょうか。
 それは、先述したように、『スイミー』は圧倒的な主人公の活躍を描く物語だからです。スイミーもまた、選択と変革を行う典型的な主人公であるのは言うまでもないでしょう。象徴的なまでに主人公が主人公の役割を全うするのが『スイミー』という英雄譚です。

 そのように、スイミーと祥太の間には、主人公であるという共通点があります。そのように一つの共通項があることで、必然的にその他の部分について比較が発生します。そこにはどういう関係性を見て取れるでしょうか。
 祥太とスイミーが共通項で繋がっているということは、祥太もスイミーのように英雄としての性質を持っているということでしょうか。そうではありません。むしろ、祥太は物語の主人公であるというただ一つの共通点を除いて、あらゆる点でスイミーと反対です。つまり、スイミーの備えている数々の英雄的な属性を、祥太は一つも持ち合わせていないのです。
 例えば、スイミーは誰よりも速く泳げるという才覚を持っており、この武器によって危機から逃げ延びることができました。しかし祥太には、誰よりも速く走ることはできません。そのために、わざと見つかるように盗みをした後、店員から逃げ切ることはできませんでした。このことは、「家族」に迫る危機へと繋がっていきます。
 また、スイミーは「かしこい」魚なので、斬新で最適な作戦を立案して、困難を乗り越えることに成功します。それに対して祥太は、世の中のことを学び始めたばかりの子供です。広い世界を見て回ってきたスイミーと違って、「家族」の生き方の外にある社会にほとんど触れてきませんでした。当然、困難に対して解決策を示すことも、状況に応じて最適な行動を選ぶことも、できるはずがありません。それゆえに、りんが自ら万引きをするという正しくない流れを止めるために、自分も盗みという正しくない手段しか選ぶことができませんでした。
 さらに、孤独だったスイミーはその人望によって、よそ者でありながら集団に溶け込んで多数の協力を得ますが、逆に祥太は、最後に孤独と向き合うことになります。自らの選択の結果怪我をして入院した祥太を置いて、治たちは家を出ていこうとしました。それを知った祥太は、自分が「家族」から見捨てられたのではないか、自分は誰からも必要とされていないのではないかという疑心を抱え込みます。
 何より、2人の主人公は、その選択の結果が対照的です。スイミーは、困難な状況を変えようとする決断の末に、皆を統率してまとめ上げ、外敵を追い払って安息の地を築きます。対して、祥太の選択が最終的に招いたのは、「家族」が皆離れ離れになり、信代は逮捕され、りんは虐待の危険のある家に連れ戻されるという結果でした。
 それも当然です。祥太はスイミーのような、運命に選ばれた英雄ではないのです。スイミーは、正しい選択をして、物語をハッピーエンドに導くことが決定付けられています。生まれた瞬間に、特別な存在であることがその身に刻印されていたのです。祥太は違います。たまたま実の親から車内に放置され、たまたま車上狙いをしていた治に発見され、たまたま治の反射的な行動によって連れ帰られたために、今の境遇が決定されたに過ぎません。正しい選択をできて全てがうまくいくというのは、祥太にとっては奇跡のように遠い偶然の産物としてしかありえないのです。
 それでも、祥太は『スイミー』を愛読していました。自分が読むだけでなく、繰り返し音読して、「家族」にもその英雄譚を響かせようとしました。そして、変革のための選択を行いました。自ら主人公であることを選び、世界を変える英雄になろうとしたのです。
 積み上げられたミカンを掻き崩し、掴み取って駆け出した瞬間、祥太は心の中で「ぼくが、目になろう」というあの台詞を、自分が世界を変える英雄だという高らかな宣言を叫んでいたのでしょうか。それは想像するしかありません。
 しかし、祥太にとってスイミーという英雄が輝かしい理想だったのは確かです。たとえそれが、届き得ない幻想だったとしても。


「家族」にスイミーは訪れない

 さて、祥太とスイミーの関係性が見えてきました。それは、『万引き家族』に対する童話『スイミー』の関係性と一致します。なぜなら、主人公はその物語の最も重要な部分と一体化しているからです。このことは、『スイミー』という物語が祥太の口を通してのみ映画と接点を持つことで、明確に示されています。
 つまり、『万引き家族』にとって『スイミー』は、そうあってほしい理想でありながら、そうはあり得ないファンタジーであるということです。

 少し話は飛びますが、『万引き家族』の中に『スイミー』が引用される理由を考えた時に、一番最初に思い付くのは「個々が寄り集まってひとかたまりのふりをする」という共通点だと思います。確かに「血縁も法的な繋がりもない一人一人が集まって家族を名乗る」という筋書きは、「一匹ずつの小魚が寄り集まって大きな一匹の魚を演じる」というストーリーと大きく類似しています。もちろんこのことも、劇中に『スイミー』を引用する上で意図されているはずです。
 しかし、「みんなで団結する物語」という理解が『スイミー』の一側面しか捉えていないのはすでに見た通りです。『スイミー』の中心にあるのはあくまで英雄スイミーであり、その頭脳とカリスマによって「スイミーがみんなをまとめ上げた」ことが物語の主たる要素なのです。赤い魚たちが団結したのは、主人公の選択と変革に従って生じた結果に過ぎません。もし英雄の訪れがなければ、魚たちはスイミーのきょうだいと同じように、ただ逃げ惑い、食べ尽くされ、滅んでいったでしょう。
 しかし、まさにその、スイミーのいない『スイミー』の世界こそが、『万引き家族』の物語なのです。
 主人公である祥太が英雄になれなかったということは、『万引き家族』の世界には英雄が不在であるということです。
 祥太とスイミーは主人公という共通点を持つことで比較が生じ、祥太がスイミーと違って英雄ではないことが如実に浮かび上がってきました。同じように、『スイミー』という輝かしい英雄譚が劇中に置かれることで、この映画が英雄なき物語であることがはっきりと照らし出されているのです。
 
 英雄のいない『万引き家族』の世界では、誰かが困難を打ち破る解決策を与えてくれることはありません。誰も何が本当に正しいかを知りませんし、望ましい結末が得られる保証は何もありません。誰も特別な存在ではなく、決断の結果は望まなかった方へ転がり、「家族」はバラバラになり、疑心は解かれることなく、理不尽は去らずに弱い者を脅かし続けます。
 それでも、祥太が現状に抗って決断を下したことは確かです。その選択は決して最適だったとは言えません。しかし、間違っていたと断じることも誰にもできません。祥太の行動で、りんに万引きをさせないという目的は達成されました。祥太が望んだような形ではなかったとしても、「家族」の現状にも決定的な変化がもたらされました。それまでの「家族」の生活とその先にあり得た未来が決して正しいものだと言えない以上、彼の起こした選択と変革が間違いだと言い切ることもできません。
 英雄ではない一人の人間には、選択の結果がハッピーエンドだと保証されていないのと同じように、選択が間違っていたと物語に決定されることもないのです。そして、答えを得ることはないままに、その先の未来を生きていくしかありません。それは、祥太以外の「家族」たちもまた同じです。
 信代はいつも現状を追認する選択をしてきました。つまり、常に間違い続けてきたと言えます。しかしそれは同時に、常に「家族」を守ろうとしていたとも言えます。りんを帰せずに連れ帰ってきた時も、初枝の遺体を隠蔽することを決めた時も、罪を一人で被った時も、彼女は愛しい者の人生を想っていました。
 初枝もそうでしょう。彼女は半ば利用される形で繋がりを得て、様々な偽りを重ねながら「家族」を作り上げました。しかし、その「家族」に愛着を抱いて生活していたのもまた確かです。彼女の人生を、その中で感じた幸福までもを偽りだと言うことは、誰にもできません。
 亜紀が裕福な実家を出て初枝の下に転がり込んだのも、生活のためでなく風俗店で働いていたのも、正しい選択でなくても自分がそうすべきだと思ったことをやった結果でしょう。その中で彼女は、血の繋がらない「おばあちゃん」や、傷付いた客(池松壮亮)と、確かに心を通わせました。
 治もまた、自分なりにそうすべきだと思った行動を取っています。後先を深く考える習慣の乏しい治ですが、それでも、震えるりんをアパートの外廊下から抱き上げた時、そして、ぐったりした祥太を車内から助け出した時は、本能的にせよ善いことをしようと思っていたはずです。
 そして、りんもまた、幼いながらに善いことをしようとします。自分の意志で万引きをしようとしたのは、たとえそれが間違いだったとしても、「家族」の役に立つための選択だったのです。
 
 『万引き家族』は、スイミーが訪れることのない、赤い小さな魚たちの物語です。
 大きなまぐろに怯えて逃げ込んだ岩陰で、強くも速くも賢くもない魚たちが、誰にも正しい方法を教わらないままに生き延びようとそれぞれにもがき、いびつながらも身を寄せ合う物語です。
 かれらは誰も特別な存在ではありません。何が正しいかも分かりません。それでも、自分の大事なものや人のために、何かを選び取っていきます。たとえ正しくなくても、なんとか生きていこうとします。*8
 かれらが確かに存在することを、映画は映し出します。
 映画の中で、『スイミー』は理想です。正しい決断と望ましい結果の象徴です。本当は何が正しいか分からないけれど、それでも一つの道を選び取り、何かを変えようとしたり守ろうとしたりする。その時に胸の中に浮かんでいる不確かな希望に、具体的な形が与えられた物語です。
 同時に、『スイミー』は幻想です。そうありたいと願ってもそうあることはできない、完璧な英雄による無欠のハッピーエンドの物語です。現実から隔絶したファンタジーであり、だからこそ美しいのです。
 現実。そう、『万引き家族』はもちろんフィクションですが、我々の生きるこの社会の地続きにある物語です。『スイミー』というファンタジーが作中にあることで、対比的にそれが浮かび上がります。逆に言えば、私たちの生きるこの社会に英雄などいない、何が正しいか誰も知らない、それでも何かを選んで生きていくしかない、そういう現実が映画に映し出されているとも言えます。あの「家族」は私たちと同じ街に住んでいるかもしれない、それがこの映画を裏打ちする強さです。
 映画の最後に、連れ戻された家の前から、りんは遠くへ視線を投げます。その先に、スイミーがやってくることはありません。英雄が訪れて彼女を救い出し、全てを解決してくれることはありません。彼女が見つめる先にあるのは、我々の生きるこの社会です。彼女は今この場所を見ながら、生きて大人になっていきます。そして、何も特別ではない私たち一人一人の選択は、彼女の人生と確かに繋がっているのです。
               〈おわり〉



脚注(余談)

*1:【深読みと妄想】
 この感想は、基本的に作品そのもの、つまり映画『万引き家族』とそこに登場する童話『スイミー』の作品内の描写だけから、どこまで深読みで深掘りして文章を書けるか、という気持ちでやっております。その方が面白いからです。あくまで個人的な娯楽で書いております。
 なので、是枝監督が『万引き家族』と『スイミー』について語ったインタビューをはじめ、映画関係者各位から色々と情報は発信されていると思いますが、原則それらは省みずに、あくまで作品内容のみから生成した妄想だと思ってください。もちろん、そういった各種インタビューや他の方々の映画感想から、無意識に影響を受けてこの文章を書いているとは思いますが。
 また、映画の中の細かい記憶が確かでない部分や、あるいは登場人物の名前表記などは、Web上のいくつもの情報を見て確認をさせていただいています。
 むろん、文章内に事実誤認があれば全て私の責任です。訂正いたしますので、何かあればご指摘ください。

*2:【引用元】
スイミーWikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%BC

*3:貴種流離譚
 貴種流離譚というのは、神話や民話の物語類型の一つです。高貴な生まれの人物が、身分にそぐわぬ不遇の境地に堕ちてさすらい、困難を乗り越えて栄誉を取り戻す、というのが基本構造となります。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください。

*4:【文化英雄譚】
 文化英雄とは、神話の研究で用いられる用語で、人類に有用な技術や知識をもたらしてその文化の発展に寄与した人物や神、動物などを指す言葉です。つまり文化英雄譚とは、文化英雄が技術や知識を人類に授けたその顛末の物語ということです。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください。

*5:【りん】
 「りん」と呼ばれる少女は、本名は「北条じゅり」です。劇中では、柴田家に来た当初は自称を元に「ゆり」と呼ばれる→本名の「北条じゅり」がテレビ報道される→発覚しないために呼び名を「りん」に変えられる→両親の下に連れ戻されてからは「じゅり」と呼ばれているはず、という変遷を辿ります。しかし、言及する場面によって呼び方を変えるのはややこしすぎるので、劇中で一番長く呼ばれている「りん」に統一しています。

*6:【選択と変革】
 主人公の条件は選択と変革だと述べましたが、変革の対象は形式上大きく2つに分けることができます。世界と自分です。
 主人公が世界を変えるのは、典型的な物語にほぼ必ず存在する展開ですね。世界を救ったり、国を変革して王になったりというストーリーは、文字通り世界を変えています。しかし、そこまで大げさでなくても、例えば弱いチームを奮起させてスポーツの大会で優勝したり、距離の遠かった相手と恋人同士になったりといった物語も、周囲の状況を変えたという意味で世界の変革に属すでしょう。
 もう1つの自分を変える物語は、例えば、作中の出来事を経て主人公自身が強くなったり教訓を得たりといった話です。特に短編の物語などに、主人公の心境が変化して終わるものが多い印象があります。
 ただ、一つの物語で主人公が変革するものが、世界と自分のどちらかだとは限りません。例えば、スイミーは典型的な世界を変革する主人公ですが、独り海をさまよって色々な物を見て、視野を広げる旅があってこそ英雄になれたと考えられます。自分を変えた後に世界を変えているのですね。このように、多くの物語で主人公は自分と世界の両方を変えていくので、どちらの変革が物語の主体になっているかという比重の問題として考えるのが正確かもしれません。
 さらに極端に言えば、主人公は物語そのものと同化している登場人物なので、世界を変えるのも自分を変えるのも結局は同じことだという捉え方もできると思います。

*7:【ミカン】
 完全な余談です。これは映画を観た時の自分の記憶が不正確で、ネット上の情報に頼った部分なのですが、あの時祥太が盗んだのってミカンだったんですね。なぜか完全にタマネギだと思い込んでました。ミカンがあの赤いネットに入って売られているイメージが全然なかったんですよね。というか、赤いネットに果物や野菜を入れて売っているのを近所のスーパーでほとんど見かけません。私は関西在住なんですけど、青果を入れるネットって地域差あるんでしょうか?

*8:【赤い小さな魚たち】
 これは、「家族」たちだけのことではありません。例えば、駄菓子屋の主人(柄本明)は、祥太の万引きを見ないふりをしつつ、りんにはやらせないよう諭します。それは一般的に言って正しい対応だとは言えませんが、祥太たちが少しでも良い方向へ行けるように考え、祈りながらの行動だったと思います。それは結果的に祥太の中に影響を遺します。また、「4番さん」と呼ばれる発話障害のある傷ついた青年は、風俗店の客と従業員という関係にすがり、救いを求めます。彼らは、何が正しい選択なのか知りません。それでも、少しでもましな方を選んで生きようともがきます。
 さらに言えば、この物語の中に何が正しいかを知っている人間はいません。例えば亜紀の父親(緒形直人)は、平穏な家庭を守るために、初枝に金銭を渡し、亜紀をいないものとして扱います。彼の振る舞いは冷淡と言えますが、決して悪人として描かれてはおらず、現状の生活を維持するために恐々とする小市民です。あるいは、終盤に登場する警察官たち(池脇千鶴高良健吾)は、祥太や信代を傷つける言葉を投げ掛けますが、そこに個人の悪意はなく、かれらなりに正しい方向を目指していることは確かです。りんを虐待していた両親(山田裕貴片山萌美)でさえ、それがかれら自身が充足していないことからきているのは容易に読み取れます。
 以上のように、「家族」を脅かすまぐろの側にいるように見える人々も含め、この物語に登場する一人一人は誰もが、英雄になれず、指針となる英雄を見つけることもできず、惑いながらそれぞれに生きようとする赤い小さな魚たちなのです。

用語解釈:文化英雄譚

 この記事は、映画『万引き家族』の感想の中で書いた「文化英雄譚」という用語の注釈が長くなったので、別記事として独立させたものです。

 用語に対する個人的な拡大解釈であることをご了承ください。
 文章の最後付近で、例示として複数の漫画などに触れます。『Dr.STONE』『正解するカド』『BLEACH』『寄生獣』『パンプキン・シザーズ』について多少のネタバレ要素を含み、特に『BLEACH』については20巻までの核心的な内容に触れるのでご注意ください。
 では内容に入ります。

 文化英雄とは、神話の研究で用いられる用語で、人類に有用な技術や知識をもたらしてその文化の発展に寄与した人物や神、動物などを指す言葉です。つまり文化英雄譚とは、文化英雄が技術や知識を人類に授けたその顛末の物語ということです。
 文化英雄譚の代表的なものは、人間が火を得る物語です。ギリシャ神話のプロメテウスが代表的ですが、アステカ神話ケツァルコアトルポリネシア神話のマウイなど、人間に火を与えた神とその過程についての物語は、世界各地に多種多様なものが伝わっています。火の使用こそがヒトを文明を持つ人間たらしめる大きな一歩だったことを現代の我々は知識として知っていますが、電気も金属器も持たずに野の獣たちと争って生き延びていた祖先たちは、火こそが自分たちの特異な強みであることを強く実感していたに違いありません。火の起源についての物語は、自分たちヒトという種族が獣と違う特別な存在であるという、根元的な自己肯定の理由付けなわけで、それぞれの共同体の人々がそれぞれに力を込めて想像力の翼を羽ばたかせたのでしょう。
 火の使用の他には、農耕の開始も文化英雄譚の定型の一つです。これもまた重大な歴史的転換の一つですからね。例えば、先ほど火をもたらした神として例に挙げたアステカのケツァルコアトルは、農耕を人類に授けた神でもあり、多面的な文化英雄です。また、古代中国の伝説の皇帝であり神である神農も、名の通り人々に農耕を教えたとされています。神農もまた同時に医術・博物学市場経済を広めた多面的な文化英雄であり、多くの植物の薬効や毒性を自分の身体で試して医療の発展に努めた末、蓄積した毒で中毒死したという凄まじい逸話を持ちます。
 他には、貴種流離譚の英雄であるスサノオも、和歌の創始者とされており、文化英雄としての側面を持っています。

 人類には、様々な民族・文明・都市・集落といった共同体があり、それぞれに違う文化があります。その文化の内容には、火の使用のような根元的知識から、農耕・牧畜・狩猟・採集・漁労のような食料の獲得手段、住居や集落の造築、衣服や装飾品をはじめあらゆる道具の作製、食物の加工、言語、文字、共同体を運営する上での多種多様なルール、祭祀と神話、物の交換や貨幣経済、軍事、医療、移動や運搬の手段、文学に音楽、娯楽に至るまで、ありとあらゆる物事が含まれるのです。当然そのそれぞれにどこかで始まりがあったわけで、文化英雄譚というのは、どこにでもありふれていていくらでも創造できる昔話だということです。
 ということは、実際の歴史上にもたくさんの文化英雄譚が存在するということです。歴史上で最も普遍的な文化英雄のパターンは越境者です。移動生活者や亡命者、国使や留学生、あるいは布教者や侵略者など、国境や地理的な隔たりを越えて活動した人々は、それぞれの地に元々なかった文化をもたらしました。
 日本の歴史に限っても、古代の渡来人や戦国時代以降の宣教師、明治維新の時期に日本に入って近代化に貢献した西洋人など、外から文化を運んできた人々が繰り返し登場するわけです。遣隋使や遣唐使、遣欧使節団などの遣使団は、国の要請によって作られた文化英雄だと言えましょう。むろん、世界に目を向ければ、規模や形式を問わず文化の交流という出来事は数限りなく起こってきたはずです。あらゆる地域であらゆる形の文化英雄が誕生したでしょう。
 時代が下ると、文化の移入者ではなく創造者として名を残す実在の文化英雄が数を増します。科学者や発明家という部類の人々です。近代科学の礎を成したニュートン蒸気機関の制作と実用化に寄与して産業革命を拓いたセイヴァリ、ニューコメン、ワットたちや、様々な技術革新を起こしたエジソンなどは、まさしく文化英雄だと言えます。また、社会契約や国民主権といった思想を推し進めて啓蒙したロックやルソーなどの政治哲学者にも、近代社会のあり方を導いたという意味で文化英雄の属性を見ることができます。

 ちなみに、文化英雄というキャラクター類型に属する物語の登場人物は、トリックスターという属性を併せ持っていることが多いとされます。トリックスターとは、善と悪、智者と愚者、破壊と創造といった二面性を持ち、停滞と秩序を撹乱して物語を展開させる役割を持ったキャラクター類型です。好き勝手に単独行動してストーリーを引っかき回すタイプのキャラと言えば、なんとなくイメージが湧くのではないでしょうか。先ほど例に挙げたスサノオやマウイなどは、トリックスター型の神格の代表例でもあります。
 これは当然の話で、文化を持ち込むにしろ創造するにしろ新しく共同体にもたらすことは、それまでの文化やシステムを変革したり破壊したりすることと表裏一体なわけです。その二面性を文化英雄が引き受けるのは自然なことです。
 例えば、侵略者の到来という災難に伴って新しい文化が流入するというのは、歴史上にありふれた出来事ですね。日本史では、幕末に欧米の国と戦争を行った薩摩藩長州藩が、その技術力を察していち早く取り入れに動き、江戸幕府を倒す力としたことが有名です。
 あるいは、技術革新によって廃れる産業分野と失業者が出るのも繰り返されてきたことです。石油の普及によるエネルギー革命で炭鉱が閉山されていったのは代表例でしょう。新しく開発された当初のミシン工場が、失業を恐れた仕立て屋によって焼き討ちされた逸話も象徴的です。
 さらに言えば、臓器移植や体外受精、クローンといった生命科学は、現行の倫理規範や法システムを揺さぶり続けています。

 さて、大幅に話が逸れましたが、文化英雄譚という物語構造もまた、現代の創作の中に息づいています。
 過去にタイムスリップしたり異世界に転移する形式のストーリーでは、主人公が現代科学の知識を用いて現地の住民を驚嘆させるという展開はもはやお約束と呼べるほど一般的ですが、これこそ文化英雄譚ですね。『Dr.STONE』(稲垣理一郎Boichi)は極限まで濃縮した文化英雄譚というわけです。また、『正解するカド』(東映アニメーション)は文化英雄譚をそっくり逆転させたものだと言えます。
 主人公以外では、二面性のあるトリックスター型の文化英雄として、マッド味のある科学者や技術者といったキャラがいますね。例えば『BLEACH』(久保帯人)の浦原喜助は、主人公側でありながら藍染と並ぶもう一人の元凶であり、新しい技術と物語の開始点を作り出した善意の黒幕とでも言うべきキャラです。あるいは、『寄生獣』(岩明均)の田村玲子は、パラサイト側にとっては数々の新しいものをもたらした文化英雄と言えるでしょう。『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)に至っては、カウプランという究極的な文化英雄の存在が物語世界の根底にあります。
 あるいは、作中の現状を過去に用意した人物、『守り人』シリーズ(上橋菜穂子)の初代聖導師カイナン・ナナイや、『刻刻』(堀尾省太)の真純実愛会創始者などは、本来の意味での文化英雄と言えましょう。

 現実に対しても物語の中に対しても、「今ある世界がなぜこのような状態であるのか」を理解したいという欲望は、私たちが普遍的に持っているものです。それに対する説明に人格を付随させて飲み込みやすくしたものが文化英雄だと言えます。いわば文化英雄は、一神教の創造神を分割して世界にちりばめたものだと言えるかもしれません。

用語解釈:貴種流離譚

 この記事は、映画『万引き家族』の感想の中で書いた「貴種流離譚」という用語の注釈が長くなったので、別記事として独立させたものです。

 用語に対する個人的な拡大解釈であることをご了承ください。
 例示として複数の漫画や小説の内容に触れるので、多少のネタバレ要素を含みますが、本文中では重要なネタバレはしていないつもりです。核心に触れるかもしれないネタバレは脚注に書きましたので、見たくない方は脚注をスルーしてください。
 では内容に入ります。

 貴種流離譚というのは、民俗学者折口信夫が提唱した物語類型の一つです。高貴な生まれの人物が、身分にそぐわぬ不遇の境地に堕ちてさすらい、困難を乗り越えて栄誉を取り戻す、というのが基本構造となる物語です。
 代表例としては、高天原を追放されるスサノオノミコトの神話や、鉢かづき姫の民話が挙げられます。かぐや姫が地上に堕とされた月の貴人だったことが判明する竹取物語にも、その要素が多分にあります。
 源氏物語伊勢物語のように、貴族が配流されたり都落ちしたりする話もこの類型に含められます。実在の人物でも、源義経の生い立ちなどは貴種流離そのものの伝説として語り継がれています。
 日本以外に目を向けても、例えば新約聖書に記されたイエスの出生は、神の子が飼い葉桶に寝かせられるのがすでに不遇の境地と言えます。また、生まれて間もなく新たな王(キリスト)の出現を恐れた王によって殺害の命令を出され、両親に連れられて国外に脱出するという流離のエピソードもあります。このような、予言によって自らの地位を脅かされるのを恐れた王により幼くして殺されかけるも、他者に助けられて生き延びて成長し、やがて予言の通りに王に打ち勝つという物語は、旧約聖書モーセギリシャ神話のオイディプス王から白雪姫の民話に至るまで、貴種流離譚の定型の一つと言えるストーリー構造です。
 かように多くの例がある貴種流離譚の一番の売りは、高い生まれと低い境遇とのギャップにあります。ストーリーの面から見れば、主人公などの登場人物が価値ある者だという根拠を簡単かつ具体的に示すことができますし、キャラクターの面から見れば、神や聖人など信仰を集めたい登場人物が卑近な境遇で困難を受けることで、感情移入しやすくなるメリットがあります。

 この実に便利な貴種流離譚のエッセンスは、当然現代に創作される物語にも多用されています。
 現代の創作の例として真っ先に挙げられるとすれば、『守り人/旅人』シリーズ(上橋菜穂子)のチャグム皇子でしょう。彼は、生涯に2度の大きな流離を経験します。*1
 他には『NARUTO』(岸本斉史)もそうですね。共同体から疎まれていた主人公が修行の旅で強くなって、周囲から認められてから自らの恵まれた出自を知るわけで、まさにそのものだと言えます。ナルトが「貴種」である根拠を二重三重に用意しているのが大変念入りですね。*2
 『ハリー・ポッターと賢者の石』(J・K・ローリング)なんかも、養家でいじめられていた孤児が魔法界で英雄として迎えられる展開は、貴種流離譚の一番美味しいところを序盤に持ってきているわけです。*3
 『ONE PIECE』(尾田栄一郎)でも、多くのキャラクターの生い立ちのエピソードが当てはまります。*4進撃の巨人』(諫山創)でもヒストリアはまさにそれですし、他の重要キャラクターにもその要素があります。*5  さらに言えば、主人公の能力の根源の一つが血筋や出自にあると判明するストーリーは、そのものでないにしろ貴種流離譚の属性を持っているので、『DRAGON BALL*6(鳥山明)や『幽☆遊☆白書*7(冨樫義博)に『BLEACH*8(久保帯人)、あるいは『金田一少年の事件簿*9(金成陽三郎さとうふみや天樹征丸)までもがその要素を含んでいると言えるのです。
 さらに言えば、テレビドラマ『水戸黄門』(TBSテレビ)などは、ストーリーは貴種流離譚そのものではありませんが、得られるカタルシスは同質のものです。韜晦して放浪する貴人が身分を明かすことで悪者を圧倒して懲らしめるという筋書きは、貴種流離譚の美味しいところだけを最大限味わうためのものと言えます。現代の話としても、「困っているみすぼらしい老人を助けたら、実は富豪や社長で何倍もの返礼をされた」というストーリーは、半ば都市伝説のように様々なバリエーションを見かけますが、これも同じカタルシスを提供する物語ですね。

 これほどに貴種流離譚のエッセンスは多くの物語に広く取り入れられ、人口に膾炙しています。近代社会においては、家柄で個人の価値が決まるという価値観は衰退傾向にありますが、その代わりに一般化した遺伝という概念を媒体として、変わらず脈々と貴種流離譚は受け継がれています。
 凡人が実は明確な根拠をもって特別な人間だったという空想は、古今東西を問わず大きな魅力を放っているということでしょう。





脚注(余談)【ネタバレあり】

*1:【2度の大きな流離】
 1度目は『精霊の守り人』において帝の追手と異界の魔物から逃れて旅をしたこと、2度目は『蒼路の旅人』と『天と地の守り人』で、サンガルから捕虜として海を渡りタルシュに至った後、同盟を結ぶことを期してロタ・カンバル・新ヨゴを巡った一連の旅路です。どちらの旅でも皇子としての身分を隠して様々な階級の人々と触れ合う中で成長しており、まさに貴種流離譚だと言えます。
 同時にその2つの旅は、どちらも父親である帝によって排斥されることで始まっており、『父を超える』という神話などに普遍的に見られるモチーフも通底しています。作者の上橋菜穂子さんは文化人類学者でもあるので、これらの神話的なエッセンスを意図的に取り込み、巧みに物語を練り上げているのだと思います。

*2:【二重三重に】
 ナルトが特別な存在であることを示す最も印象的なポイントは、父親が四代目火影であるという血筋の特別さが明かされたことでしょう。それに並ぶのが、終盤で明らかになった、六道仙人の息子であるアシュラの転生者であり、彼のチャクラを宿しているという事実です。さらに大ガマ仙人の予言によっても、世を変革するという運命が上乗せされています。加えて、九尾を身中に封じているために膨大なチャクラを秘めていることやパワーアップが可能なこと、人柱力として戦略的に凄まじい価値を持つこと、母方のうずまき一族の強い生命力を受け継いでいることなど、物語の折々にナルトの特別さを理由付ける設定が開示されていきます。

*3:【序盤に】
 物語の最序盤でハリーの特別さが明らかになりますが、その後もう一度彼の英雄性の上乗せがきます。それが、物語全体が終盤へ向かっていく『不死鳥の騎士団』のラストですね。ハリーがヴォルデモートを倒す運命にあるという予言の存在が語られます。同時に、ハリーとヴォルデモートに特別な繋がりができていることも明らかにされます。

*4:【多くのキャラクター】
 ビビの冒険の顛末やレベッカの生い立ちは、貴種流離譚そのものです。一味の中では、サンジが王族であったことと不遇の流離の過程が明らかになるのがまさにそれです。ロビンも、ワンピースを探し世界政府と対峙する上で唯一無二の価値があることが判明します。また、エースがロジャーの息子だと分かって一気に最重要人物になる展開も近いものがあります。
 主人公のルフィも、初めは特に背景のない青年でしたが、Dの一族の特別さが示唆された上、伝説の海兵の孫であり革命軍総司令官の息子であることが分かり、強さとカリスマ性に理由付けがなされました。2019年現在ルフィの母親は明らかになっていないので、今後さらに上乗せがくる余地もあります。
 これらのキャラクター以外にも、素性の分からなかったキャラクターが王族その他の重要人物だと判明する展開は、何度となく存在します。

*5:【他の重要キャラクター】
 主人公のエレンが特別な存在であることは、巨人の力を操れるという形で序盤に示されます。さらに、王家が継承していた「始祖の巨人」を宿していることで、もう一段階貴種であることが明らかになります。また、ヒロインのミカサもヒィズル将軍家の血を引く貴種だと判明し、外交における重要性を帯びることになります。

*6:DRAGON BALL
 主人公の悟空が異星の戦闘民族サイヤ人だと判明する展開ですね。サイヤ人の中では下級戦士の生まれだったわけですが、純粋な強さの序列が中心にあるドラゴンボール世界においては、パワーアップする理由と余地があると明らかになっただけで十分に貴種の証明だと言えます。

*7:幽☆遊☆白書
 主人公の幽助が魔族として覚醒し、最強の妖怪だった雷禅の遺伝を受け継いでいることが判明する終盤の展開です。

*8:BLEACH
 主人公の一護については、父親が隊長格の死神だったこと、母親が滅却師だったこと、虚の力を秘めていること、完現術を発現する条件を備えていることと、特別である理由がいくつも語られ、パワーアップしていきました。

*9:金田一少年の事件簿
 主人公の一が名探偵・金田一耕助の孫であることが美雪の口から明かされて事件関係者が驚くシーンでは、貴種流離譚の旨みを味わえます。その旨みをさらに濃縮したものとして、一を事件から排除しようとする頭の固い刑事に明智警視が電話で「彼は名探偵の孫で、君なんかよりよほど有能だ。捜査に参加させなさい」と鶴の一声を飛ばす場面がたまにあります。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第5.1章. 如月さんと奥島くんは何が足りないか

目次


はじめに

 本編の第1~5章では、千恵・ナツ・志恵・藤岡・旭という5人のメインキャラクターたちの『足りなさ』を掘り下げ、そこから作品全体の構造やテーマについて考えました。

 その結論の一つとして、誰もが何かの足りなさを抱えていると述べました。
 ということは、彼女たち以外のいわゆる『脇役』たちも、それぞれに足りなさを持っているのではないかと考えられます。そこで、その他の登場人物たちについても、各自の足りなさを考えてみることにします。
 とはいえ、かれらの描写は少なく、その内面を想像するには推測に頼る部分が大きくなります。本編ではまだある程度の根拠と理屈を示していたつもりですが、今回以降はさらに妄想に近いものになりますのでご了承ください。
 いわば本編のおまけのようなものとしてお読みいただければというつもりで、今章には5.1章と銘打っております。

 まず今章では、如月と奥島の足りなさについて考えていきます。
 ではいってみましょう。



0節. 如月さんと奥島くんは何が足りない?

 クラス委員長の奥島と副委員長の如月は、基本的に足りている側の人間として描かれています。テストの点数は「旭ちゃん並み」(p.81)つまり90点前後で、優しくて勉強を教えるのも上手く、家庭で教養を身に付けており(p.146)、お互いに恋人同士のように見えます。
 そんな2人は、何らかの足りなさを抱えているのでしょうか。もし足りなさがあるのなら、それはどういうものでしょうか。



1節.  2人に足りなさはある?

 この2人に関しては、作中で直接足りない部分が描写されていません。そもそも、感情や欲望をあまり露わにしておらず、真情が見えない印象があります。

 しかし、この2人も何らかの足りなさを持っているという暗示はあります。それが、ナツが第5話でこの2人を評した「ちーちゃんは教室掃除!  奥島くんと如月さんがいるから大丈夫だよね」(p.110)というセリフです。これは、千恵が一人で掃除だと心配だけど奥島と如月が一緒なら大丈夫だという信頼を述べた言葉です。
 これと同じ内容を、同じ第5話の冒頭で志恵が言っています。「まあナっちゃんが同じクラスだから大丈夫か」(p.101)というセリフです。千恵のことは心配だがナツと同じクラスなら大丈夫だろうという、ナツへの信頼を表しています。
 しかし、結果を見れば大丈夫ではありませんでした。千恵はナツの欲望に呼応してお金を盗んでしまいました。そこでナツが千恵を諭してお金を返させることができれば志恵の信頼に応えたと言えましたが、実際にはナツは、自身の金銭的な足りなさ、そして客観習慣の過剰という足りなさから来る渇望と正当化により、千恵の共犯になる道を選びました。志恵からナツへの信頼のセリフは、ナツがそれを裏切ることで、周囲から見えない足りなさを持っていることを強調するための前振りとして作用しています。
 ということは、ナツから奥島と如月に向けた同じ構図の信頼のセリフも、同じようにこの2人にも見えない足りなさがあることを暗に示していると受け取れます。
 実際、千恵はこの2人と一緒にいるはずの掃除の間に*1お金を盗んでいるので、ナツが期待した『大丈夫』ではなかったことは確かです。しかし、掃除の間中ずっと千恵を監視する義務がこの2人にあるわけではありませんし、結果的に千恵の盗みを見逃したからといってそれが落ち度や足りなさだとまでは言えません。志恵のセリフがナツの足りなさを前もって示すものだった以上、その反復であるナツのセリフで示された奥島と如月には、何か別の足りなさがあると考えられます。

 また、ナツから奥島と如月への信頼のセリフに、旭が「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)と返していることも、この2人が私たち読者に見えているほど満ち足りた存在ではないことを想像させます。
 作中の描写は多くがナツの視点からのものであり、ナツは自分と比べて他者の足りている部分を大きく見積もる癖があるため、私たちからもこの2人がことさらに多くを持っているように見えるのです。かれらが持っているものの多くを自分も持っている旭の視点*2からは、かれらもそれほど満ち足りた人間には見えていないのではないでしょうか。



2節.  2人は付き合っている?

 それでは、奥島と如月の足りなさとは具体的には何なのでしょうか。
 それを考えるために、この2人に関して、足りているように見えているナツとそうでもないように見えている旭で見解が分かれている点を思い出してみましょう。それは、この2人が付き合っているかどうかです。
 第2話で、ナツの「ねえ奥島くんと如月さんっていつも一緒にいない?」(p.30)という囁きに、旭は「さあ  委員長と副委員長だから仕事とかじゃねえの」と答えています。旭からは、特に2人が付き合っているようには見えていないのです。*3
 ナツもこの場では、「つきあってるのかな?」(同)と勘繰るに留めています。しかし、その後の第4話でナツは、奥島と如月と旭について「みんな恋人いるし」(p.82)と考えており、奥島と如月が付き合っているのを確実なこととして扱っています。
 ナツがこのように考える理由は、他者を自分より満ち足りているように見積もるという彼女の思考の癖にあると考えられます。ナツは、恋人がいる方がいないよりも優越しているという(実に一般的な)価値観を持っており、それゆえに、恋人がいない自分と比べて他人には恋人がいると想像し、劣等感を抱きがちなのです。
「つきあってるのかな?」の後に来るのが「成績いいし進んでて大人っぽいなあ」(p.30)であることや、「みんな恋人いるし」の後に「私なんか私なんか なんなんだろう」(p.82)と続くことが、如実にそれを示しています。
 つまり、奥島と如月が付き合っているように見えるのは、ナツの視点を通して見ているからそう見えるのです。実際には、水沢と交際していることがほぼ確定的に言及される旭と違って、奥島と如月が付き合っているという確実な描写は作中にありません。本当に2人が恋人同士なのかは『分からない』以上のことを断言できないのです。

 それでも、この2人が交際しているのかどうか、できるところまで推論してみたいと思います。
 まず、2人が付き合っているように見える理由を挙げてみましょう。その最たるものは、視点の多くを担うナツが2人の交際を確実視していることですが、これがナツの見え方の偏りに影響を受けているのは今述べた通りです。
 それ以外の根拠としては、ナツも言っているように、2人が「いつも一緒に」いることが挙げられます。奥島が如月と一緒でないのは千恵がナツの真似をして見せた1シーン(p.46‐48)のみ、如月が奥島といないのも旭や藤岡たちと女子グループで遊んでいた1シーン(p.201)だけで、その他の場面ではいつも2人でいます。*4  また、ナツたちと別れて如月と一緒に帰途に付く奥島の「じゃあ僕たちはこっちなんで」(p.34)というセリフは、以前にも一緒に帰っていることを示しています。その後の、2人で帰路に付く後ろ姿(p.35の1コマ目)も、恋人同士の雰囲気に見えるカットです。如月が奥島の肩口に手を置き、奥島が赤面して表情を緩める様は、2人の親密さを思わせます。
 これらを見るとやはり2人は付き合っているように見えますが、逆に付き合っていないことを示唆する描写もあります。ここではそのうち2点を挙げます。
 1つ目が、奥島の如月とナツに対する態度です。第2話で奥島が千恵の授業課題を手伝うと言った時(p.31)、如月とナツも付き合うと申し出ました。その時の奥島の反応は、如月に対して「えっ  いいよいいよ」、ナツに対して「あっ  いいよいいよ  小林さんまで」と、ほとんど変わりません。『小林さんまで』と付け足したのは、単にナツの方が後から申し出たからでしょう。それを言う時の奥島の様子も、焦ったように少し赤面して汗をかいており、如月にもナツにもほぼ同じ表情です。連続して隣り合った2コマでほぼ同じやり取りが反復されたということは、奥島は如月にもナツにも同じように対応するということを分かりやすく示していると言えます。
 もう1つ、2人が付き合っていないことを示唆する描写として、相手の呼び方があります。奥島が如月を何と呼んでいるかは分かりませんが、如月は奥島のことを『奥島っち』と呼んでいます。あだ名で呼んでいるという意味では、親しさの表現だと言えます。しかし、『名字+っち』という呼び方は、ちょっと距離を感じませんか?  単なる主観なのですが、よく知らない相手と距離を詰める時に付けるあだ名という印象があります。社交的な性格で、千恵に対しては『ちーちゃん』と呼ぶ如月は、もし付き合っていれば下の名前で呼ぶか、単に呼び捨てにしそうなものです。
 この2点から言えるのは、奥島と如月は少なくともナツたちの前では恋人同士のように振る舞っていないということです。
 ここから考えられる可能性は、2人は本当に付き合っていないか、あるいは付き合っているがそのことを隠しているかのどちらかです。
 こうなると、2人がいつも一緒にいたり、親密に接していたりといった事柄が、反転して付き合っていないことを示唆する材料として働きます。*5 付き合っていることを隠しているのなら、そういう分かりやすい行動を取らないだろうからです。
 とはいえ、付き合っているのを積極的に隠すつもりはないが、クラスでは照れくさいので普通の友達として接しているということもありえます。そこで、今章で検討したことも踏まえて、2人が交際している場合としていない場合の両方を考えながら、如月と奥島の足りなさについて順番に推論していくことにします。



3節.  如月さんは何が足りない?

 まずは、如月の足りなさについて考えていこうと思います。

 ナツから見ると交際しているのが当然のように見えた如月と奥島ですが、客観的な描写から見ると付き合っていない可能性も高いのが分かってきました。そこで、まずかれらが恋人同士ではないとするとどういうことになるか考えましょう。
 その場合、2人はただ委員が同じで仲のいい友達同士で、お互いに恋愛的な意識は持っていないのでしょうか。
 それもちょっと考えづらいです。なぜなら、如月が奥島に好意を持っていることは、わりと露骨に示されているからです。その1つは、さっき述べたボディタッチの描写です。如月の方から奥島の肩に触れています(p.35の1コマ目)。*6
 もう1つ好意が表現される場面として、奥島が千恵の課題を手伝うと言った時の如月の反応(p.31)があります。まず「奥島っち優しい!  さすが選ばれし委員長」と言いながら、さりげなく奥島の肩に手を添えます。冗談めかしながらも好意を最大限に伝えようとしています。その後に、「副委員長として私も手伝わざるをえまへんなあ」と、やはりおどけながら自分も奥島と一緒にいる理由付けをしています。確かに如月は感情表現が大げさな方ですが、ここまでわざとらしくおどけて見せるセリフはあまりありません。ここでの変なテンションは、如月が奥島を強く意識していることと、それを奥島に伝えておらず距離を測っている状態を想像させます。
 また同時に、これらのセリフには千恵への牽制という面もあります。『優しい委員長』だからという理由付けをして奥島の千恵への好意が特別なものでないと注釈し、『副委員長として』とわざわざ理由付けをして同席し奥島と千恵が一対一になるのを防いでいます。如月は「ちーちゃんをあやしてくれるなんて」(p.170)というセリフで分かるように、旭や藤岡たちと同様に基本的に千恵を子供扱いしています。そんな千恵の世話を焼くという形であっても、奥島がクラスの女子と2人きりになるのが嫌だと思っているのです。この独占欲は好意の大きさの表れであると同時に、余裕のなさを示すものでもあり、如月が奥島と付き合っていないことを示唆する傍証の1つだとも言えるでしょう。
 それでは、これほど分かりやすく好意を向けられている奥島の側は、如月にどう接しているでしょうか。これが実は、如月に特別な感情を向ける描写がないのです。むしろ他の人と変わらない接し方をしていることは、如月とナツに同じように対応しているシーンで見た通りです。もちろん2人は一緒にいることが多いので、奥島が如月に対して親しみを抱いているのは確かです。しかし、彼は女子3~4人の中に男子一人でクラスで昼食を取ることに全く気後れしないばかりか、自らその状況を作る(p.144)強者です。*7  男子中学生としてはかなり達観しているか、あるいは逆に男女間の付き合いについて小学校低学年程度の感覚で止まっているかのどちらかでしょう。*8 一緒に行動していることを理由に恋愛感情があると推測するのは早計だと言えます。
 このように、奥島と如月の間には感情の非対称性があります。有り体に言えば、描かれている範囲では如月から奥島への片思いなのです。だとすれば、それこそが如月の足りなさだということになります。奥島が好きなのに自分だけに特別に好意を返してもらえない、それが作中で描かれる如月の不足です。

 以上のように、如月と奥島が交際していないことを匂わせる描写はいくつもあります。しかし、あくまで状況証拠であり、確定する材料ではありません。なので、2人が付き合っており、それをクラスメイトにあえて言っていないと仮定した場合、どういうことになるかも考えてみましょう。
 といっても、その場合も見えている状況はあまり変わりません。如月の言動の意味するところにほとんど変化がないからです。付き合っていると仮定しても、如月が明示せずされど分かりやすく奥島への好意を示し、千恵を牽制しようとしているのは同じことです。
 つまり、如月は自分だけに特別に構ってほしいし他の女子と2人にならないでほしいと望んでいるが、奥島はそのように行動していないということです。如月と奥島のお互いへの接し方の差を考えると、如月は交際をオープンにしたがっているが、奥島はそれを望んでいないということも考えられます。如月の態度からして、それらの望みを相手にはっきり伝えられておらず、奥島はそれを察してくれないという可能性が高いと思います。
 結局如月の足りなさは、付き合っていると仮定したとしても、奥島が自分の気持ちに相応の行動で応えてくれないということなのです。

 ここまでをまとめると、2人が恋人同士だとしてもそうでないとしても、『自分が向けた好意に対して奥島が望むものを返してくれない』ことが如月の足りなさです。



4節.  奥島くんは何が足りない?

 ということは、作中で描かれている奥島の不足は、言動のレベルでは『如月の好意に望ましい形で応えないこと』だということになります。良識があり優しく賢い奥島が、なぜ如月との関係においては望まれている行動を返してやれないのか。その原因が奥島というキャラクターの足りなさだと考えられます。
 奥島に関しても如月と同様に、①如月と付き合っている  ②付き合っていない、の両方の場合が考えられます。同時に、如月が自分に向ける感情を奥島が分かっているかどうかは、A.気付いていない  B.気付いている  C.如月本人から告げられている、の3パターンが考えられます。この2つの要素の組み合わせで場合分けして、それぞれのパターンでの奥島の足りなさはどうなるかを考えていきます。

①ーA. 如月と付き合っていて如月の望みに気付いていない場合
 交際相手の如月は『私という恋人がいる以上は他の女子とあまり親密にしないでほしいし、クラスでも付き合っていることをオープンにしたい』と思っているが、奥島はそれに気付いておらず、汲み取ってやれていないというパターンです。
 この場合奥島に足りていないのは、『常識的な気遣い』だと思います。彼女いるんだから不安にさせないように気ぃ遣ってやれや、分かんだろ、という話です。
 これはわりと幼さがあって素朴な奥島観ですね。まあ、中2の男子の意識なんてそんなもんだろ、という気もします。

①ーB. 如月と付き合っていて如月の望みに気付いている場合
 如月の不満・不安・嫉妬に感付いてはいるが、あえて見ないふりをしているという状況です。
 付き合ったからといって行動を束縛されるのが嫌なのか、あるいは付き合っていることを知られるのが恥ずかしいという思いが強いのか、いずれにしろ『直接言われてないのだから自分が何か変える必要はない』と思っているパターンでしょう。相手の気持ちをとりあえず聞いてみればいいのに。
 これは穏やかな笑顔の裏に不穏なものを想像する奥島の見方です。この場合、『善意と素直さ』が足りないと言えます。

①ーC. 如月と付き合っていて直接望みを聞いている場合
 如月から『教室でも恋人として接したい、それとあんまり他の女子と2人になったりしないで』と伝えられているが、それに逆らっているパターンです。
 これは不穏というよりは、とことん頑固だと言えるでしょう。『付き合ってもこれまでの行動は変えないし、クラス委員長として個人として、必要ならば女子に対しての手助けもする』という姿勢だと思います。
 足りないのは『融通』だと言えるでしょう。

②ーA. 如月と付き合っていなくて如月の好意に気付いていない場合
 如月から向けられている好意にそもそも気付いていないパターンです。
 決定的に鈍いです。足りなさ=『鈍感さ』です。
 ただ、諸々の描写を総合すると、このパターンが一番可能性が高いように思えてしまうのが困ったものです。

②ーB. 如月と付き合っていないが如月の好意には気付いている場合
 如月が自分に好意を持っていることに感付いてはいるが、あえて自分からアクションは起こさずにただ一緒にいるパターンです。
 如月を恋愛対象としては見ていないのか、今が楽なので恋愛関係になるのが怖いのか、告ってきたら付き合うのもアリだけど自分から行く気にはならないのか、あるいは精神的に優位に立っている現状が心地よいのか。いずれにしろ、奥島には『情け』が足りません。
 ①ーBもそうなんですが、察していながら汲んでやらないというパターンを仮定すると、やはり奥島の黒い部分を想像することになりますね。お金を盗んだ千恵にドン引きするところ(p.155)を見ると道徳規範はしっかり持ってそうなので、あんまり不穏な奥島観は現実的ではない気はします。ただ、人間関係に関しては倫理基準が常識とかけ離れていたとしても不思議でない程度には、奥島の内面はちょっと推し量りにくい印象があります。

②ーC. 如月と付き合っていないが好意を直接伝えられている場合
 つまり、一回告られたけど断ったパターンです。告白してきた如月に対して、何らかの理由で『付き合えない』と言ったけど、如月の『前と同じように友達でいたい』という言葉を受け入れたか、あるいは奥島から『まずは友達という距離で』と言った上で関係性が続いていると考えられます。
 まあ、なかなかなさそうなパターンだと思います。しかしこれだと仮定すると、お前はさぁ···という気持ちになりますね。いくら言葉で普通の友達としてって言ったとしてもさ、あんだけべったり一緒にいた上で他の女子と2人になるのを目の前でほのめかすとか、もうちょい考えろよ、って話です。この場合足りないのは、①ーAと同じく『常識的な気遣い』です。
 繰り返しますが、このパターンはさすがにないと思います。ほぼ奥島の陰口になりましたが、場合分けしたら出てきたので仕方なく言っただけですので。

 以上のように、奥島の状況と心理は複数のパターンが考えられ、それに応じて想像される足りなさも変わります。各場合について書いたように、ありそう・なさそうという可能性の差はありますが、いずれが正しい理解なのかは作中で描かれていない以上確定しません。

 これほどに奥島の足りなさが絞れないのは、やはり彼の内面が掴みづらいところに一因があります。本作の登場人物には不足している部分と充足している部分が合わさった重層性があるというのは本編で指摘しましたが、奥島は例外的に内包した足りなさが見えないのです。
 そこまで親しかったわけではない千恵に勉強を教えて世話を焼く*9ほど親切ですし、旭が勉強に関して千恵を「バカ」と形容した時の「そんなことないよ  小学校の基礎をとばしちゃっただけで」(p.151)という返し方は、完全に大人の教育者側の語法です。女子との交流を特に意識せずに行っていることも含め、実年齢よりもかなり精神的に成熟していると思います。そんなふうに大人びて良識のある人格者であり、内面的な足りなさが見えないからこそ、如月との関係性に見え隠れする外面的な足りなさの根源をどこに求めたらいいか判断がつかないのです。
 抽象的な話ですが、奥島というキャラクターのそういう真意の見えなさ・得体の知れなさ自体に、親しい女子から好意を寄せられてもそれに応えず、そもそも気付いているのかどうかも分からないという振る舞いと一致するものを感じます。そういう感覚的な部分では奥島の人格的な足りなさの輪郭をなんとなく思い浮かべることができますが、あくまでイメージの話の域を出ず、決定的なことを言うには描写が足りていないのは繰り返している通りです。



5節.  結論・2人の足りなさ

 以上のように作中では、如月の足りなさは奥島の存在に由来するものであり、その如月の足りなさに対応して奥島の足りなさが垣間見えるのです。描写上2人セットになっていることが多いかれらは、描かれる足りなさも一対になっていると言えるでしょう。
 具体的には、如月の足りなさは『奥島に好意を向けているのに、望ましいものを返してもらえない』ことです。そして奥島は表面に出ているのが『如月の好意に望ましい応え方をしていない』という言動レベルの足りなさであり、それを引き起こす何らかの不足・逸脱が人間関係を築く際の内的な部分に存在するとほのめかされています。
 特に奥島に関しては曖昧な部分が多いですが、今章のまとめとして言えることはこのくらいだと思います。



6節.  蛇足・如月さんとナっちゃんの共通点

 この節はさらなる余談であり、砂上の楼閣の屋根に五重塔を建て増しするような空想だと思って読んでください。
 今節の話題は、第3章の1節で言及した、ナツだけでなく如月も千恵のことを『ちーちゃん』と呼ぶという事実に関してです。タイトルにもなっているこの呼び方をナツと如月のみが共有しているということは、この2人の間に何らかの共通点があることを暗示しているのではないか、というのがここでの趣旨です。
 作中で描かれる限り多くを持っているように見える如月ですが、足りなさに苛まれ続けるナツと共通する部分はあるのでしょうか。あるとすれば、それはいったい何なのでしょうか。

 千恵の呼び名の共有によってそれが示唆されているのならば、共通点は千恵との関係性にあると考えられます。
 ナツにとっての千恵の位置付けは、第2章5節で見たように、自分と同等の相手です。自分と同じように足りていない人間として見ています。実際には自分より千恵の方が不足しているところについても、その差を見ずに足りなさを共有する『私たち』として同一視しています。作中で発される『ちーちゃん』という言葉のほとんどがナツの口から出る以上、その呼称に重ねられているのは、このような自分と同等に見なす視線だと言えます。
 これに対して、如月にとっての千恵の位置付けは一見全く違うように思えます。如月は千恵に対して『あやす』という言葉を使っており(p.170)、千恵を子供扱いしています。その意味で如月は、旭や藤岡や志恵などと同じく千恵を庇護・教育の対象として見ており、ナツのように同等の相手として見てはいないように思われます。加えて、如月はナツと比べても充足している側におり、千恵と自分が同じように足りていないという感じ方はしないだろうと思えます。
 しかしここで、如月も足りなさを抱えていることを思い出してみましょう。『奥島に好意を向けても望ましいものを返してもらえない』という足りなさです。そして実は、これと同じ不足を千恵も持っています。
 第2話で千恵は奥島のことを「すき」(p.36)だと言い、奥島にもてる方法を考えて実践しますが、その手段は的外れなもので奥島からの接し方が変わることはありませんでした。好意から奥島に向けた言動に望ましい反応が返ってこなかったわけで、如月の足りない現状と全く同じことが起こっています。
 そして何より、如月自身が千恵を自分と同じく奥島にアプローチし得る、いわばライバルと見なしています。だからこそ千恵を牽制する発言をし、奥島と2人になるのを防いだのです。その結果2人きりにならず如月とナツが同席したことは、如月にとっては妨害の成功ですが、千恵にとっては奥島への接近の失敗だったと如月視点では見えているはずです。*10
 結局、客観的にも如月の主観でも、千恵は奥島に関して如月と同じ足りなさを持っているのです。つまり如月にとって千恵は、奥島との関係性においてのみ同等の相手なのです。
 よって、千恵を同等の足りなさを持った相手と見なしているという点で、如月とナツの共通項が成立します。
 ただし、奥島は千恵を恋愛対象として見てはおらず、教え育てる対象として完全に子供扱いしているのが実際のところでしょう。ボディタッチを受けて頬を赤らめる程度には意識されている(あるいはすでに付き合っているかもしれない)如月とは、恋愛的な距離では相当な差があります。それでも如月は千恵を警戒しており、あくまで如月の中では千恵は同等の存在なのです。このことは、自分が千恵より充足していることを無視して同一視するナツの認識と同じ構造であり、千恵への視線における如月とナツの共通性を補強するものです。
 このように如月は、同等の足りなさを持つ存在として見なすという、千恵への視線がナツと共通しています。それゆえに、『千恵』でも『ちー』でも『南山さん』でも『チビ』でもなく、『ちーちゃん』というナツと共通する呼称で千恵を呼ぶのです。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 ほんとは残りのサブキャラ全部まとめて一つの記事にするつもりだったんですが、長くなったので如月と奥島だけで一記事にしました。

 結果的に、いい歳の大人が長文で中学生の男女が付き合っているかどうかを延々と勘繰り、言動を恋愛面からネチネチと論評するという、大変ひどいことになりました。書きながら自分の下衆さ加減に昏い悦びを覚えたほどです。
 内容的にも、如月はやたらドロドロした嫉妬や情念を秘めている解釈になり、奥島は何か底知れない闇を抱えていることをほのめかしただけに終わりました。如月さんと奥島くんのファンの方々には本当に申し訳ないと思っています。ただ、本文中でも何度も言い訳しましたが、この2人は本当に内面が想像できる描写が少ないんです。千恵やナツのように足りないのが見えてるキャラなら足りなさを掘り下げつつ良い面も見出だしてフォローできるのですが、如月や奥島のように作中で失点のない優秀な善人は、どうしても悪い方へ悪い方へ考えて足りなさを想像してしまいますね。
 あと、奥島と如月付き合ってるのか問題については、さりげなくも解釈が分かれる描写がいくつもあると思うので、ぜひみなさんの解釈も聞いてみたいなと思っております。

 さて、次回は第5.2章です。次章で脇役たちも含めて各登場人物の掘り下げは完結する予定です。
 残るキャラクターは宮沢と野村です。彼女たちに加えて、ナツの母親についても考えてみる予定です。あとは、もしかしたら水沢先輩にも言及するかもしれません。
 次回第5.2章はこちらです。

 またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【掃除の間に】
 この時、千恵がどのような状況でお金を盗んだのかは、わりと謎になっている部分です。明らかなのは、千恵・奥島・如月が教室掃除をすることになっていたこと(p.110)、千恵は教室でおそらく宮沢の机の中からお金を盗んだこと(p.111)、千恵・奥島・如月は飼育小屋を掃除したこと(p.119)、の3点です。教室掃除の当番だったのが飼育小屋に変更になったのか、教室に加えて飼育小屋の掃除も担任から命じられたのか、教室掃除後にクラス委員の仕事か自主的な行動として奥島と如月が飼育小屋の掃除に行ったのを千恵が手伝ったのか、その辺りは分かりません。(ただ、ナツが「あいかわらずあの2人はイイ人だな」(p.120)と言っているのは、3つ目だと解釈しているのかもしれません。)よって、教室掃除中に千恵が一人になるタイミングがあったのか、それとも近くにいる2人の目を盗んだのか、あるいは2人が先に飼育小屋に行ってから千恵がお金を盗んで後を追ったのか、窃盗の状況も判然としません。そのため、たまたま掃除中に宮沢の机に封筒を見付けて出来心を起こしたのか、教室に一人になった時にお金のことを思い出したのか、もしくは宮沢と藤岡の会話を聞いた時から盗むチャンスを狙っていたのか、千恵の『悪意の度合い』も私たちには分からないのです。
 いずれにしろこの謎は、千恵が一人の時の描写がないに等しいことから来ています。そのことによって私たちは、世界が一瞬で豹変するナツの感覚にぴったりと同期できるのです。

*2:【旭の視点】
 ただし、旭から見た奥島と如月は、千恵の世話をする姉という自分(とナツ)の役割に割り込んでくる相手として見えていたことは、第5章で見た通りです。なので、旭からこの2人への評価は客観的なものより低くなっていることも考えられます。特にこの場面は、『この2人がいるから千恵は大丈夫』というナツの言葉への返答なので、余計に対抗心が働いているでしょう。ナツが奥島と如月を高く評価しがちなのと裏腹に、旭はかれらを低く見積もる方向に偏っているのです。ナツの視点にいびつさがあるからといって旭の視点が正しいとも言えない、この作品の相対性・重層性の表出の一つです。

*3:【旭からは】
 ただしここでも、旭の視点と発言にバイアスがかかっていないとは言えません。まず第5章で見た通り、旭はこの2人にさほど関心を向けていません。また、他人の噂話を好むタイプでもなさそうです。(どちらかと言えば、他人への評価は面と向かって本人に言ってしまうタイプです。)さらに、自分が水沢と交際していることを特に隠すわけでもないのにナツに言っていないことから、いわゆる恋話が好きな方でもないと想像できます。
 あるいは、旭の内面は描写されないので、2人が付き合っていると思っているか知っていながらも、あえて言及しないようにしているという可能性も否定できません。

*4:【いつも2人で】
 これについて気になるのは、昼食を取る時の組み合わせです。p.144では、ナツが欠席していた前日に千恵が奥島と如月と旭と4人で昼ご飯を食べたことが語られ、この日も奥島たちと一緒に食べます。これをナツが「変なメンツ」(p.145)と捉えており、それ以前にナツが千恵・旭と3人で昼食を取る場面(p.17‐)があるので、ナツが休んだ日より前には奥島と如月は一緒に食べていなかったことが分かります。
 これを素直に受け取れば、この2人はユニットで動いており、この時までは2人だけで昼食を食べていたと想像されます。もしそうだとすれば、2人が付き合っているというナツの勘繰りは無理もないと言えますし、一緒にいるのは仕事とかだろうと言う旭はこの2人に関心が無さすぎだと思います。しかしその場合、いつも男女2人で食事していたのに急に他の女子グループに合流しようという話になり、奥島が率先して混ぜてもらいに行ったということになります。付き合っていたとしたら、それはそれでどうなんだという話ではあります。
 ただしいずれにしろ、実際に2人が以前は誰と昼食を食べていたか、ナツが休んだ日にどういう経緯があったのかは、描写されていない以上は確定し得ないことです。

*5:【付き合っていないことを示唆】
 奥島と如月が付き合っていないことを示唆する描写は、メタ的な読みですが他にもあります。それは、如月がリボンを身に付けていないことです。
 ナツが「本当は男の子からもらうものなんだよ」(p.86)と言うように、リボンはもともと彼氏がいることを示すアイテムです。ナツが旭から水沢との交際について聞き出そうと水を向けた場面(p.83)で旭のカバンに付けたリボンがアップになるコマも、その関連性に基づいたものです。また、p.78の2コマ目にいるクラスメイトのうち、女子4人は全員リボンを付けており、「学校でリボン流行ってる」(p.86)ことが示されています。しかし同時に、答案を受け取っている右端の女子と会話の相手が見切れている左端の女子を除き、相手が分かる2人はどちらも男子と一対一で喋っています。さりげなくはありますが、リボンと男子との交際が関連することを踏まえた意図的な描写だと思います。
 このように、彼氏がいることがリボンで象徴されている中で、如月には私物のリボンを付けていたり持っていたりする描写がありません。これは、他の材料と合わせて、彼女が奥島と交際していないことを示唆する傍証と言えると思います。

*6:【肩に触れて】
 これは本当にどうでもいい話なんですが。このコマでは、如月の右手が奥島の左の二の腕に触れているわけですが、如月の親指が奥島の腕の輪郭の手前にあるのか、それとも奥にあるのかが、ちょうどどちらとも取れる描き方になっています。前者の場合、如月は五指を揃えた掌を奥島の肩の後ろから当てていることになり、後者の場合は、袖口もしくは腕本体を掴んでいることになります。どちらと捉えるかでタッチのニュアンスがかなり変わり、後者の方がより積極的な接触だと言えます。みなさんはどちらに見えますか?

*7:【男子一人で】
 奥島は女子グループの中に男子一人混じっており、脚注*4で見たように、以前から如月と2人で昼食を取っていた可能性もあります。その経緯が分からないので何とも言えませんが、もしも男子グループに入れないのであれば、そこに奥島の足りなさがあるのではと想像することもできます。中2男子らしからぬ達観したような穏やかさと利口さを持った彼ですから、もし同級生男子に馴染めなかったとしても、さもありなんといった印象はあります。ただし、奥島以外の男子生徒の描写はないに等しいので、この辺りはあくまで想像するほかありません。

*8:【男子中学生としては】
 いや、いないとは言いませんよ。男子一人でクラスの女子グループに混じって、イジられたり子供扱いされたりせず、かといってハーレムを築くわけでもなく、普通に友達の一員として屈託なく振る舞える男子中学生、世の中にはいると思います。ただ、私の中学時代のクラスにはいませんでしたし、あまり一般的ではないだろうというのがここでの趣旨です。みなさんの中学時代はどうでしたか?

*9:【世話を焼く】
 千恵の席が最前列の教卓の真ん前であり、奥島の席がその隣という配置(p.143の1コマ目)を考えると、奥島が千恵の勉強の面倒を見ることは担任教員の意に沿ったものだと思われます。ただ、担任が明確に奥島に千恵の世話を依頼したかどうか、奥島がどこまで自主的に行動しているのかは分かりません。

*10:【千恵にとって】
 もちろん千恵自身は、奥島に勉強を教えてもらうことを接近するチャンスだなどという計算はしていないでしょう。独占欲を覚えるほど恋愛感情というものを理解していない可能性が高いと思います。そして、基本的に如月もそのことは感じ取っていると思います。それでも警戒し牽制せずにはいられない好意と執着が、如月の足りなさなのでしょう。