深読みの淵

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『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第2章.ナっちゃんは何が足りないか

目次



はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ、前回の第1章では南山千恵について考え、千恵の最大の足りなさは『客観習慣の不足』だと結論しました。

 この第2章では、小林ナツについて考えてみようと思います。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、上の第1章の『はじめに』をお読みください。

 今章の構成としては、1~3節で一応の結論が出ます。4~8節では例示と補足をしていき、9節で前回の第1章とこの第2章を合わせた結論が出る形になります。
 ではいってみましょう。



0節. ナっちゃんは何が足りない?

 小林ナツは、前章で取り上げた南山千恵と並んで本作の中心人物です。今章では彼女について掘り下げますが、やはり前章と同じように、ナツの足りなさを考えてみようと思います。
 ナツもまた、足りないものが色々あります。その中でも、ナツの最大の足りなさ、つまり一番の問題点とは何でしょうか。



1節. 足りない行動は?

 やはり前章と同じように、ナツの足りない行動から彼女の足りなさを探ることにします。ナツの最も足りていない、逸脱した行動はなんでしょうか。
 まず思い浮かぶのは、盗んだものだと想像できているのに千恵からお金を受け取ったことです。この選択を端緒にナツは追い詰められていきます。この行動も当然、ナツの最大の足りなさと大きく関わっています。しかし、ここではもう一つの足りない行動を取り上げたいと思います。
 それは、リボンを捨ててしまったことです。
 
 第4話で、ナツはグッズショップで売られていたブランドものの5000円のリボン(p.86)に出会い、欲しくなります。しかし、所持金が足りずにその場では買えませんでした。この出来事は、ナツの発言(p.90)から、5月中のことです。
 それから後日の夜に、ナツは母に翌々月分までのお小遣いの前借りを頼みます(p.101)。ここでは完全に駄々をこねており、「お母さんなんて大っきらい!」(p.102)とまで言っています。その次の登校シーンで旭が「どうしたナツ  目が赤いぞ」(p.103)と尋ね、ナツは「ちょっとね」(同)と返しています。これを、前夜に母親と喧嘩して泣いたためだと捉えるならば、ナツのお金の無心を千恵が聞いたのは盗難事件の前の晩だということになります。ナツが学校を休んだのがp.128の時計の表示から6月13日だと分かっており、盗難事件はその前日、お金の無心はさらにその前日なので、6月11日です。
 つまり、リボンを買いたいと思った5月のある日からお金をねだるまで、少なくとも11日の時間が経っています。
 ナツはリボンを見かけた時点で「来月と来々月のおこづかい 前借りできないかな」(p.87)と考えているので、もしかしたらその日の夜あたりに一度母親に頼み、翌月分までの前借りはできたのかもしれません。そこで一旦翌々月分は諦めたものの、時間が経ってやっぱり諦めきれなくなったということになります。あるいは、「売り切れちゃうかもしれないの!」(p.102)と言っているので、店にあったリボンが買われていって売り切れを危惧する状況だったのかもしれません。その場合、お目当てのリボンがまだあることを確認するために、買うお金がないのに店に通っていたことになります。
 いずれにしろ、ナツがリボンに相当強い執着を抱いていたのは間違いありません。10日以上ずっと欲しいと思い続け、時間が経っても諦められずに欲求が爆発し、母親に何度も頼み込んだ末に罵倒までしています。
 
 また、ナツが実際にリボンを手に入れた経緯も並みのことではありません。
 バスケ部の3000円がなくなったことを知った直後に、ナツは千恵から3000円を「あげる!」(p.121)と差し出されました。ナツは、千恵がこの前まで所持金一桁台で困窮していたのも知っています。どう考えても、千恵がバスケ部のお金を盗んだことを疑わざるを得ない状況です。現にナツは、千恵からお金が盗んだものだったと聞く(p.219)より前に、「ちーちゃんが私のためにお金とってきてくれたのに」(p.149)と、盗んだことをほぼ確実視しています。
 それなのにナツは、出所を深く追及することもなく、お金を受け取ってしまいます。普通なら絶対にありえない行動です。なぜそうしてしまったのかと言えば、欲しかったリボンが頭をよぎったからでしょう。リボンを買うために不足している1000円だけを受け取ったことからも、それは明らかです。
 この選択が倫理に反していることを、ナツは痛いほど理解しています。だから翌日は仮病で学校を休み、千恵と宮沢たちのいる教室から逃避します。それでも、「貧乏は罪なの?」(p.127)と自分の金銭的な足りなさについて考えることをやめられず、「私だってたまには好きなものくらい買ってもいいでしょう?」(p.132)と行いを正当化しようとします。
 また、ナツは「昨日の感じだとこの1000円バレないよね」(p.133)とも考えています。盗んだお金を受け取ったことを人から糾弾されるかもしれないという不安も、薄くではありますがナツの心に張り付いています。
 これほどまでに、千恵からお金を受け取ったことは、ナツの心に重くのし掛かっています。それでも、ナツはお金を千恵に返そうとは考えず、もらったお金を使ってリボンを買いました。

 以上のように、ナツはリボンにとても強く執着していました。そして、大きな精神的負担と引き換えにしてまで、やっとのことでリボンを手に入れました。
 にもかかわらず、それほど大切だったはずのリボンを、あっさりとゴミ箱に捨ててしまいました(p.149)。これは明らかに普通ではありません。何か大事なものが欠けている行動です。


《まとめ1》 ナツは、リボンに強く執着していたはずなのに、あっさり捨ててしまった。これはナツの『足りない』行動である。



2節. リボンを捨てたのはなぜ?

 では、なぜナツはリボンを捨ててしまったのでしょうか。
 その直接的な理由は分かりやすいです。
 リボンを捨ててしまったナツは、「結局  誰からもリボンに触れられなかった」(p.149)と思っています。その前に教室に入る時も、リボンを付けていることで注目され誉められ好意を抱かれる自分を想像していました(p.142)が、実際は誰もリボンに興味を示さなかったことで、顔を曇らせ「そんなわけないよね  わかってたよ」(p.143)と考えていました。その後に旭と会話しても、「旭ちゃんも  リボン  何も言ってくれないな」(p.144)と気にしています。
 つまりナツは、リボンを付けることで周りから誉められることを期待していたのです。しかし、リボンを付けても周りの自分を見る目は変わらなかったために大きな失望を味わいました。そして、落胆のあまりリボンを捨ててしまったのです。

 しかし、あんなに欲しがっていた物なのに、他人から誉められなかっただけで完全に興味を失ってしまうものでしょうか。それを考えるには、ナツがリボンに対してどういう感情を抱いていたかを見てみる必要があります。
 まずは、ナツがリボンに初めて出会った場面を見てみましょう。
 グッズショップに入ったナツは、色々なリボンが売られているワゴンを見て、「学校でリボン流行ってるよね」(p.86)と思います。その時に藤岡たちが例のリボンを取り上げ、「ねえ  これ  めっちゃ可愛くない?」「ブランドものだ  5000円もするぜ」(同)と話題にします。ここで初めてナツはあのリボンを認識します。その後にワゴンに近付き、さっき話題に上がっていたリボンを手に取って、藤岡たちの批評をなぞるように「かわいいなあ」(p.87)と思います。そして、「これつけていったら目立つだろうなぁ」(同)と考えます。
 ここでナツは、リボンを付けた自分の姿を想像しています(同3コマ目)。自分がそのリボンを気に入ったかどうかより、それを付けた自分がどう見えるかを重要視しているということです。もちろん、身に付ける物を選ぶ時に、身に付けた自分を想像するのは自然なことです。しかし、リボンが自分に似合うかどうかでなく、『つけていったら目立つだろう』という考えが先にきていることには、やはり注意が必要です。
 この価値観はその後も一貫して表れています。リボンを実際に買って帰る時のナツは、「みんなにうらやましがられちゃうかなあ」(p.133)と言っています。ここでも、周囲からの注目と評価を第一に期待しています。
 その後のシーンでも、中学生の女の子なら「オシャレしなきゃ」(p.136)と言ってリボンを千恵にお披露目しています。そして、「ほら  この前のショップにあった ブランドもののリボンだよ わかんないかー  ちーちゃんセンスないなー  すごくかわいいのに  リボンはやってるんだよ」(p.137)と自慢します。『ブランドもの』で『はやってる』ことを根拠に『センス』のあるものだと言っているわけで、オシャレを『しなきゃ』いけないという観念とともに、徹底して外的な基準を自分に投射して喋っています。

 以上のように、ナツがリボンに見出だしている価値は、自分の外の基準を持ってきて貼り付けているだけです。これは、千恵が自分の気に入っている『マジカルラブドラゴン リュー』のヘアゴムを、志恵(p.60)や藤岡(p.107)から子供っぽいと言われても気にせず身に付けていることと、好対照を成しています。
 そして、そのリボンにナツが望んだことも、自分の所有欲や着飾りたい気持ちを満たしてくれることではなく、周囲からの注目や羨望や好意の視線でした。ナツがリボンに期待した価値は、徹底して他者から見た自分の価値を上げてくれることだったのです。
 ここまで見てくると、ナツがリボンを捨ててしまったことに納得がいきます。リボンを付けて学校に行っても、ナツが周囲の注目や羨望を集めることはありませんでした。リボンはナツの価値を高める効果を発揮しなかったのです。この時点で、ナツがリボンに期待した価値は全くの無になりました。だから、ナツは役立たずのリボンへの興味をすっかりなくしてしまったのです。
 ここでの結論としては、リボンを捨てるという行動の原因になったナツの性質は、判断基準が他者の視線だけに偏ってしまっていることだということになります。つまり、客観的な視点が肥大しすぎていると言えるのです。


《まとめ2》 ナツは、周囲からよく見られるためにリボンを欲しがっていた。だから、注目を集められないとすぐにリボンを捨ててしまった。つまり、他者の視線を判断基準にするという客観性が大きすぎたことが、足りない行動の原因になっていた。



3節. 客観性が高い?

 それでは、客観性が強すぎることがナツの問題点となる性質なのでしょうか。
 実際、ナツは自分自身のことを外側から見て考えている場面が多いです。周囲に気を遣って想像力を働かせているようにも見えます。客観性こそナツの特徴的な性質であると言われて、全くの間違いだと言うことはできません。
 しかし、ナツは本当に自分や周囲を客観的に見られているのでしょうか。それには疑問を抱かざるを得ない描写がいくつもあります。

 まず、ナツの客観性が機能していない場面の例を2つ挙げます。
 1つ目は、第5話冒頭で母親にお小遣いの前借りをねだっているシーン(p.101‐)です。明らかに客観性をなくしていて、家の外まで響く大声で駄々をこねています。千恵と志恵に聞こえていることなど思ってもいないでしょう。ただ、このシーンは家庭内ですし、欲しいもののことで頭がいっぱいで客観性が働いていないという面もあると思います。
 それではもう1つ、帰ってこない千恵を捜す手伝いを志恵から頼まれているシーン(p.193‐)はどうでしょう。もしかしたら千恵に何かあったかもしれないという志恵の言葉を聞いたナツは、うっかり「交通事故とか?」(同)と言って志恵を泣かせてしまいます。直後にナツ自身も反省していましたが、志恵が尋常でなく心配しているのは態度で分かるはずで、これは明らかに不用意な発言です。この場面でナツは、相手の気持ちを想像することも、自分の言葉がどう聞こえるか省みることもできていません。
 以上のように、ナツは状況を客観的に見られていないために失敗する場面があります。*1 客観性に長けていて自分や周囲をフラットに見る能力が高い、というのとは違うように思われます。

 少し違うパターンとして、ナツが客観性を発揮しようとしているがそれが上手くいっていない、という場面もあります。その事例を3つほど見てみましょう。
 まず、奥島と如月と一緒に千恵の勉強を見ることになったシーンです。旭が先に帰ったことで、ナツは「あっもしかして私 空気読めてない感じかな ちーちゃんはともかく私は邪魔かなあ」(p.32)と考えます。そして、2人が勉強を教えている時に少し引いた位置に座っています(p.33の1コマ目)。状況を客観的に見て、自分に期待されている行動を考えようとするわけです。しかし、本当に客観的に状況を見れば、その気遣いは的外れです。まず、奥島と如月が本当に付き合っているかどうかは分かりません。旭が「委員長と副委員長だから 仕事とかじゃねえの」(p.30)と言うように、2人が付き合っているというのはナツからそう見えているだけで、確定事項ではありません。また、そのように思っている旭が2人に気を遣って帰るとは思えません。ここではまだ分かりませんが、実際には旭は付き合っている水沢と会いに行ったわけです(p.41)。そしてもちろん、奥島たちが本当に恋人同士だったとして、千恵に勉強を教えているだけの場面にナツがいたところで普通は邪魔に思うとは考えられません。つまりここでのナツは、客観的に状況を見られていないまま不要に空気を読もうとして、気遣いが空回りしています。
 これと同じ構図はその後もあります。千恵と帰宅している途中に、水沢と一緒にいる旭を見かけたシーンです(p.40‐)。この時ナツは、話しかけようとする千恵を制してまで、遠巻きに見るに留めます。先ほどと同じく、邪魔をしないようにと思ったのでしょう。また、翌日以降も旭に対してその時のことを話題にしないようにしています。*2 自分が男女交際と縁遠いためにその話題を避けている面はあるでしょうが、旭が気まずいだろうという気遣いも働いているはずです。しかし実際は、旭はナツたちが見ていたことに気付いていました(p.118)。ナツはあの場面で、自分を客観視するのに失敗していたわけです。それを指摘されたナツはとっさに「知らないよ!」(同)と嘘をつきますが、見ていたことをお互い分かっている以上意味のない嘘です。ここでは、客観的に見て適切だと思った判断が、客観性からどんどん逸脱していっています。
 もう1つ、ナツが藤岡について悪口を言うシーン(p.174‐175)も見てみましょう。藤岡の悪い印象を一気にまくし立てているのは、盗まれたお金を捜している藤岡を悪魔化することで罪悪感を軽減しようとする気持ちも働いているでしょう。情に厚く聡明な藤岡をついさっき見て知っている旭と千恵、読者からすれば明らかに的外れなことを言っています。しかし、ナツの発言は客観性を働かせようとした結果でもあります。旭が帰りが遅くなったことについて「まあ ちょっとな」(p.174)と言い、千恵が藤岡の名を出したことで、ナツは藤岡との間に何かあったことを察しました。そして、旭と藤岡たちの間の関係は、ナツの知る限り敵対的なものです。自分のいないところで藤岡たちと揉めたのだろうと考えたナツは、藤岡を悪く言うことで旭の味方であると強く示そうとしたのです。そのように、空気を読んだ結果として完全にズレた発言をしてしまったわけです。

 ここまでで見てきたように、ナツは自他を客観的に見る能力が高いというわけではありません。客観的に見て適切な行動を選ぼうとして不要に気を遣った結果、空回りして逆効果になる傾向もあります。
 客観性を保てていない偏った状態で、客観的に状況を見なければという強迫観念から逃れられない、いわば『客観習慣の過剰』*3こそがナツの問題点だと言えます。ナツの足りなさは、『客観習慣の不足』という千恵の足りなさと逆転して対になっていたのです。
 この足りなさは、様々な場面でナツの行動や思考に影を落としています。次節からは、『客観習慣の不足』がナツの言動にどのように表れているかを見ていきましょう。

《まとめ3》 ナツは客観性が高いわけではなく、自他を客観視しようとする思考の習慣が強い。それが逆に逸脱した行動に繋がることもある。つまり、ナツの足りなさは『客観習慣の過剰』である。



4節. 足りなさを嘆くのはなぜ?

 『客観習慣の過剰』というナツの足りなさについて、もう少し別の角度から見てみます。
 ナツはそれ以外にも色々と足りなさを持っています。テストの点はかなり低い方ですし、常識や教養も豊かとは言えません。家は母子家庭で、金銭的にあまり余裕はなく、旅行や行楽などの文化的な活動にも長らく触れていません。交友関係は狭く*4、恋人もいません。
 しかし、その多くは千恵よりは足りています。千恵より点数は高く、箸も使えてはいますし、母親の影がほとんど見えない南山家よりは母に構ってもらっています。親しくない相手に人見知りする千恵と違ってクラスメイトには普通に話しかけられますし、恋愛に対しても千恵よりは意識と知識があります。
 にもかかわらず、自分の足りなさへの劣等感や不満を表出するのは、千恵よりもナツの方が目立って多いです。
 例えば第4話では、千恵は23点を取って大喜びしていますが、42点だったナツは旭たちの点数を見て劣等感を抱きます(p.82)。その後も、ゴールデンウィークにレストランに行ったと満足げな千恵に「私もどこにも行ってないな」(p.85)と返し、「はぁ  私たちは なんだか私たちって」(同)と漠然とした劣等感を抱きます。それから立ち寄ったグッズショップでも、今付けている200円のヘアゴムで満足している千恵に対し、5000円のリボンを買えない自分を思って「はあ  私たちはなんだか私たちって」(p.89)と繰り返します。そして、この第4話以降、ナツの不満と劣等感の描写はことあるごとに溢れるようになります。

 このような、自分の足りなさに対する正反対の反応には、やはりこの2人の象徴的な性質である客観習慣の不足/過剰が影響しています。
 第1章の9節で言及しましたが、千恵は客観習慣が足りないために自分の足りなさをあまり見ずに済んでいます。自分と他者を客観的に比較して評価する習慣がないために、人より不足している境遇でも自分の基準を満たせば満足できます。
 ということは、ナツはその逆だということです。自他を比較して評価する習慣が強いために、自分が周囲より足りていないことを強く自覚してしまいます。「みんなすごいなあ 奥島くんも如月さんも旭ちゃんも頭良いし  教え方上手で優しいし しかもみんな恋人いるし 私なんか私なんか なんなんだろう」(p.82)という独白に全てが表れています。必要以上の部分まで人と比べずにはいられないのです。客観習慣の過剰という最大の足りなさが原因で、自分の様々な足りなさを強調して捉えてしまうというわけです。


《まとめ4》 ナツは千恵よりは足りているが、千恵よりも劣等感を持っている。なぜなら、ナツは客観習慣の過剰という足りなさによって自分を他者と比較してしまうために、自分の足りなさに敏感だからである。



5節. ちーちゃんと比べないのはなぜ?

 さて、ここで一つ疑問が生まれます。ナツが自分を人と比べる習慣を強く持っているなら、より足りない千恵と比べて自分の足りなさを慰めることもできるのではないか、という点です。
 しかし、意外なほどにナツのそういう考え方は描かれません。
 ナツが千恵の足りなさを指摘したり補ったりする場面はいくつもあります。第1話冒頭(p.4‐5)から、ナツは千恵の身長を補ってカバンを取ってあげています。また、千恵に問題を出して勉強を教えようとするシーンも繰り返されます(p.18‐19, p.33)。ですが、それらの行動によって、ナツが千恵に対する優越感を得ているかは明らかではありません。
 ナツが千恵に対して明らかに優越性を主張しているように見えるのは、リボンを自慢するシーンです。「わかんないかー  ちーちゃんセンスないなー」(p.137)と得意気に言います。しかし、その直後に「でも ちーちゃんのお金のおかげだよ ちーちゃん ありがとう」とお礼を言っているので、千恵に対する優越感を得るために自慢したわけではありません。何より、その後に「このままだと私たち子どものままだよ」(p.138)と言っています。『センスのない千恵は自分より子供だ』と言うのではなく、『私たち』つまり今の自分と千恵は同じく子供だと言っているのです。
 この『私たち』という言葉を、ナツは何度となく繰り返します。そして、『私たち』は常にナツ自身と千恵の2人のことを指しています。テストの点が平均に満たず、海外旅行に行ったことがなく、高価なリボンも買えない自分と千恵の境遇をまとめて「はあ  私たちは  なんだか私たちって 本当  何もないな」(p.93)とナツは嘆くのです。

 しかし、前述したようにナツと千恵は境遇が違います。千恵は、テストの点数や休暇の過ごし方、持っている装飾品については満足しています。何より、千恵と比べればナツには『何もない』ことはありません。ナツの点数は千恵より20点近く高いですし、千恵にない色々な物を持っています。
 例えば、2人の部屋を見れば違いは明らかです。ナツの自室には、物が大量に散らばっています(p.189)。お菓子や飲み物のゴミ、本や小物、電子機器やリモコンもあります。壁には額縁に入った絵か何かが掛かっており(p.190の4コマ目)、何かのポスターも貼ってあります(p.191の6コマ目)。本がたくさん入っている本棚*5の上には何かの大きな箱が載っており(同3コマ目)、人生ゲームもあります(p.134)。一方で、千恵が姉の志恵と一緒に寝ている部屋はほとんど物がなく、装飾と呼べるのは古びたタンスに貼ったマジカルラブドラゴンのシールくらいです(p.52)。*6
 所持品の格差もあります。まず携帯電話を持っているかどうかはかなり大きな差です(p.188)。さらに、ナツの家には自分の自由にできるパソコンもあります(p.104)。また、ナツは自前のリュックで学校に通っていますが、千恵は学校指定のもの以外カバンを持っておらず、遠出するにも手ぶらです(p.214)。服装に関しても、ナツはそれなりに小綺麗な私服で出かけており、靴もわりとしっかりしたものを履いています。一方千恵は、襟元の伸びたTシャツに同じパーカーと短パンで、ボロボロの靴を買い換えても結局マジックテープの子供靴でした。小学生の頃の2人をナツが回想するシーン(p.197‐198)を見ると、この頃からすでに親から買い与えられていた服にファッション性の差があるのが分かります。ナツの母は、余裕がないなりに精一杯ナツの望みを叶え、お洒落をさせてあげているのです。
 以上のように、千恵と比べればナツは明らかに『持っている』側になります。
 それなのにナツは、自分と千恵をまとめて「私たちって 本当  何もないな」(p.93)、「私たちだけ何も持ってないのは惨めだ」(p.139)と考えます。また、自分が千恵よりは持っていることを無視して「ただ何もない最低限の生活の惨めな私」(p.133)と自分の暮らしを評価しています。

 つまり、ナツは千恵を見る時だけ客観的に自分と比較する視点を持てていません。千恵との間にある差を無視して『私たち』として自分と同一視しています。*7 そして、『私たち』をまとめて周囲と比較しているのです。
 おそらくナツは自分を守る方法として、千恵を見下して優越感を得ることよりも、千恵と同じだと思って安心感を得ることを無意識に選択したのでしょう。「ちーちゃんだけは私のことを傷つけなかったのに」(p.190)というのは、千恵だけは自分と比較しなくて良いので楽だったという意味でもあります。千恵がグッズショップで欲しい物がなく、安いヘアゴムで満足していると示した時のナツの笑顔(p.89の4コマ目)は、高価なグッズに縁がないという意味で自分たちは同じだということに安心した笑顔なのです。
 この『誰かと同じでいたい』という気持ちは、「私もみんなと同じになりたいよ  私もみんなと同じがよかったよ」(p.212)と心中で呟くように、ナツの心を占めている欲求の一つです。一見、リボンに願った『目立ちたい』という望みと相反しているようですが、自分だけみんなと違うのは惨めだという発想に基づいており、周りから見た自分を良く見せたいという意味では同じ客観習慣から出てきている欲求です。
 このように、千恵と自分を同一視して評価するナツですが、千恵が自分より優越していると感じた部分は自分と同一化しません。例えば、「私も旭ちゃんや志恵ちゃんやちーちゃんみたいに大切なことを大声で叫びたいよ」(p.212)と思う場面があります。大切なことを大声で主張できるという点で、千恵は旭たちと同じように自分より優れていると考えているのです。あるいは、「一人で電車だなんて私でも乗ったことないのに」(p.219)とも考えます。自分がしたことのない経験をした千恵と自分を比べて劣等感を覚えているわけです。自分が千恵より優れている時はその差を見ずに、千恵の方が優れている時だけその差を見てしまうという思考の習慣があるのです。
 以上のような形で、ナツは千恵と自分の差を無視して同一視しています。これらから言えることは、やはりナツは自他を客観的に見る能力が高いわけではなく、状況によって自分と他者を比較する客観的な視点を出したり引っ込めたりする偏った習慣を持っているということです。またその客観習慣は、他者が自分より優越している部分を認識する時に強く発揮されることも分かります。


《まとめ5》 ナツは千恵を自分と比べることなく、自分と同一視して安心感を得ている。このように、ナツの客観習慣は偏ったものであり、特に自分より足りている相手と自分を比べがちである。



6節. 劣等感と自己評価の変遷

 4節と5節より、ナツは偏った客観習慣の過剰のために、特に自分より足りている相手と自分を比べてしまいがちで、そのために自分の足りなさを強調して受け取ってしまう、ということになります。これはつまり、人と関わると様々な折に触れて劣等感を抱いてしまう思考の癖があるということです。
 そうすると当然、自己評価は低下する一方です。実際、自己評価の低さはナツの言動の端々に表れています。例えば、第2話の序盤で奥島と如月が千恵に勉強を教えるのに付き合うとナツが言った後、旭が先に帰ると言うと、ナツは自分が残ったのは空気が読めていないのじゃないかと考えます(p.31‐32)。実際は旭はおそらく水沢との約束があっただけなのですが、ナツは自己評価が低いので、自分と旭の選択が分かれた時、自分の方が間違っているのではないかという発想がまず出てきてしまうのです。
 この第2話から、ナツの劣等感と自己評価の低さは徐々に表面に出始めています。そして話数を追うごとに目立っていきます。この節では、ナツの劣等感と自己評価が物語を通してどのように変化していくか見てみましょう。

 まず第2話では、ナツと千恵の恋愛に対する足りなさが描かれます。奥島と如月の様子を見たことをきっかけに、ナツはメディアの情報や周囲の状況から恋愛をするよう焦らされているように感じると話します(p.37)。「遅れてるって気にしてる」(同)と表現しているようにそれは確かに劣等感ですが、穏やかに話せる程度の他愛ないものです。
 次に第4話では、テストの点数によって客観的に周囲より劣っていると示されたことをきっかけに、色々なことに劣等感を見出だす思考モードに入ります。旭や奥島と如月の成績の良さ、教え上手で優しいことから恋人がいることまで、その場で無関係なことまで羨んで劣等感を感じています(p.82)。さらにその後に旭が海外旅行に行ったことを聞いては休暇にどこにも行っていないことに劣等感を持ち、リボンを買うお金がなくては金銭的な劣等感を抱き、「私たちって 本当  何もないな」(p.93)と結論付けています。
 ここではいくつもの劣等感が連鎖的に湧いてきていますが、まだ日常的な漠然とした不満の範囲のものです。自己否定にまで至るほど深刻なものではなく、広い景色を望むことで慰められて薄らいでいきました(p.98)。

 本当に劣等感が暴走し始めるきっかけになるのが、千恵からお金を受け取ったことです。
 第5話の最後、千恵の手から1000円札を取った瞬間に、ナツは自分の中の2つの決定的な足りなさに直面することになります。1つは、盗んだものかもしれないお金を欲望に負けて受け取ったという道徳的な足りなさ。もう1つは、そうまでしなければ欲しい物を買えないという金銭的な足りなさです。その時の気持ちを、ナツは「私たちは世界で一番美しくない2人だな」(p.124)と表現しました。自分と千恵を同一化し、外的な基準を元に自分を外から見て評価する習慣を持つナツを、克明に表している一言だと思います。
 お金を受け取ったことで顕現した道徳的な足りなさと金銭的な足りなさが、お互いに結び付いて劣等感でナツを苛んでいるのが「貧乏は罪なの?」(p.127)、「貧乏は罰なの?」(p.129)という自問です。特に金銭的な劣等感を留めることができず、欲しい物を買ってもらえなかった小学生の頃の記憶までが蘇ってきています。
 翌日、リボンを付けて登校したことを契機に、また心境は変化します。
 ナツがリボンで果たそうとしたのが注目や評価を受けることだったわけですが、そもそもこれ自体が劣等感の補償という面があります。すでに見たように、学力や教養や金銭的余裕や恋人を持っている旭をはじめとした優等生たちは、ナツにとって劣等感を覚える相手でした。クラスの中で優越するものを持っており、誰かに選ばれているというわけです。
 その一方で、ナツは藤岡たちに対しても「いっそ藤岡さんみたいにグレれば楽だったろうな どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金で あんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ」(p.150)と、見え方は歪んでいるものの羨望を抱いています。ナツから見えている藤岡たちは、自分の足りなさを満たす力を持っており、それゆえに堂々と振る舞ってクラスの中で確固たる地位を占めているというわけです。
 そして、ナツは自分に対しては「最新ケータイや音楽プレイヤーも何も持ってないからな私たち  そんなにイモ臭いからクラスも下部組で交友関係もせまいし」(p.135)と考えています。旭たちのように何かを持っていないし、藤岡たちのように手に入れる力もない、そのために地味で目立たず、それゆえにいわゆるクラスカーストが低いというのがナツの自己評価です。つまり、リボンを持つことで注目を集め、それによってクラス内での評価や地位の不足を取り返したいというのがナツの考えだったのです。「私の華やかな中学生生活の始まりの はじめの第一歩になるといいな」(p.141)という言葉が、まさにその希望を言い表しています。
 しかし現実にはそうはならず、リボンを付けてもクラスメイトからの見る目は変わりませんでした。劣等感を払拭しようと行動したのに何も変わらなかったことで、反動で増大した劣等感に否応なく直面することになります。しかも、道徳的・金銭的な足りなさを背負い込んでまで手に入れたリボンで周囲の評価の足りなさを満たそうとしていたのです。望みが外れた結果、ナツは道徳的な劣等感・金銭的な劣等感に他者評価の劣等感を加えた3つに取り囲まれて苛まれることになります。
 この状態でナツは、箸の持ち方について指摘を受けます(p.145)。普段なら恥ずかしいとは思うでしょうが、深く落ち込むほどのことではないと思います。しかし、複合した劣等感に苛まれているナツは、「みんな知ってるんだ  私のお母さんそんなこと教えてくれなかったな」(p.146)という劣等感から、一気に「底辺だ バカで貧乏な私は品性まで欠けてて親の差まである  どうしようもないな」(同)という極端な思考に直結します。ここにきて劣等感は自己否定まで至っています。そして「奥島くんは私やちーちゃんみたいな底辺とかかわるの恥ずかしくないのかな  うざったらしくないのかな」(同)とさらなる劣等感を感じます。劣等感を持つことで自己評価が下がり、下がった自分を他者と比べてさらに劣等感を抱く悪循環です。負のスパイラルに沈んでいくナツの視界が歪みます。

 さて、ここまではナツが自分を苛み否定しているだけでした。しかし、藤岡がお金を盗んだ犯人を探していると言うのを聞いた(p.147)ことで、また状況が変わります。
 この時ナツは当然、盗みに加担したことで報復されることを恐れています。しかし同時に、盗んだお金を受け取ったとバレることはナツにとって、道徳的・金銭的な足りなさが晒されて卑しまれることでもあります。すでに見てきたように、ナツは客観習慣が過剰なため、自意識を外部からの視線に投影してしまう思考の癖があります。そんなナツの内側に足りなさに対する劣等感が渦巻いていたところに、外部から現実にそれを糾弾される危機が訪れたのです。結果、道徳的・金銭的な足りなさを他者から突き付けられる恐怖が一気に膨れ上がります。また、この2つの劣等感はすでにナツの中で、他者からの評価に対する劣等感と結び付いていました。この劣等感は、他者から注目され肯定されるはずだったのにそうならなかったという形でついさっき実感させられたものです。そこに自分の足りなさを他者から突き付けられるという意識が持ち込まれたので、周囲のみんなに「肯定されなかった」は容易に「否定された」へとナツの中で変換されます。そして、3つの劣等感はすでに混ざり合って自己否定まで至っていました。結果、「私はすべてに否定されてるんだ」(p.148)と、巨大な自己否定を外部に投影し、世界から否定されているという感覚に陥ったのです。
 自己否定を他者に投影するこの思考はその後も尾を引きます。この日の帰り道で、ナツは旭の態度からお金を受け取ったのが露見したと察します。そして「ちーちゃんが旭ちゃんに言ったんだ  絶対そうだ 絶対そうだ!」(p.177)と思い込みます。結果、「ひどいよ 約束を破るなんて」(同)、「ちーちゃんすら私を否定するなんて」(p.179)という思考になります。実際には千恵は最後まで約束を守りました。目の前の千恵も「帰ろ  いっしょに」(p.177)と笑いかけています。それでも、自己否定を外部に投射しているナツには、『千恵が自分を否定した』という結論しか見えなくなっているのです。その末に、「ちーちゃんなんて大嫌い」(p.179)と相手を否定し返す攻撃性にまで発展してしまいます。
 同じ構図の思考は、翌々日の日曜日に旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た時にも表れます。その前までのナツは、「旭ちゃんは私なんかと遊んでくれるわけない」(p.189)と自己評価の低さを旭に投影しながらも、電話が掛かってきた時には「もしかして旭ちゃんかな!?」(p.190)と顔を輝かせるくらいには、旭との繋がりを望んでいます。しかし、旭が藤岡たちといるのを見た後は、「本当は私みたいなつまらない人間なんかと一緒にいたくなかったんだよね  旭ちゃん」(p.202)、「妥協して私たちを選んだんでしょ  知ってるよ  旭ちゃん」(p.203)と、旭が自分を低く評価しているという想像を次々に溢れさせます。旭がナツに何か言ったり、約束を断ったりすっぽかしたりしたわけではないのに、旭からの視線に自己否定を貼り付けているのです。しまいには、「DVDのお返しに私も私の好きな映画を薦めたかったよ  私のセンスなんか信じてないもんね  私になんか何も期待してないもんね  旭ちゃん」(同)という些細なところにまで自分への否定を見いだします。そして、旭への嫉妬を吐露した末に「大嫌いだよ旭ちゃん」(同)と、相手から否定されたと思い込んで否定し返すことが再び起こります。

 さて、この時までは、自己否定を他者に投影して攻撃性まで発展することを繰り返したナツですが、これ以降はそういう思考は顔を出さず、単に自分で自分を否定することに没入していきます。これには3つ理由があったと考えられます。
 1つ目は、藤岡が妹たちと一緒にいるところを見た(p.180)こと。藤岡は、ナツが世界から否定されているという思考に陥るきっかけとなった人物であり、ナツの中では攻撃してくる他者の代表として極端に悪魔化*8されていて、攻撃し返す相手として認識していました。そんな藤岡が妹たちを可愛がり、慕われている姿は、ナツが投影したイメージとはかけ離れたものでした。否定してくる残酷な他者の代表として見ていた藤岡の印象が覆った結果、みんなが自分を否定してくるという世界観が根底から揺らいだのです。そうやって冷静さが戻ってきてしまえば、ナツの客観習慣は、藤岡に勝手にクズのレッテルを貼っていた自分自身を見つめざるを得ません。そうしてナツは「はいはい  どうせ私だけがクズですよ」(同)と心中で呟くのです。この出来事以降もナツの攻撃性が他者へ向かう場面はありますが、これがナツの否定が内向していくきっかけの1つなのは確かだと思います。
 2つ目の理由は、自己否定を他者に投影するのはいわゆる被害妄想なので、冷静になると鎮まっていったということ。ナツは、お金を受け取ったことがバレて報復されるかもしれないと思ったことで全てから否定されているという考えになり、バレてしまったと思ったことで千恵に否定されたと考えました。旭と藤岡たちを見た時も、前々日のいきさつから考えて、自分がお金を受け取ったことが彼女たち全員にバレたと思うのは自然で、旭はそちらのグループに行ってしまってみんなで自分を蔑んでいると想像したとしても無理はありません。いずれの場合もナツが半ばパニックになっていたのは確かで、そのために他人から否定されているという想像が過剰になり、相手に対しても攻撃的な思考になったと考えられます。よって、時間が経つと落ち着いていったというわけです。
 3つ目として考えられるのは、自分が他者を必要としていることに気付いたため、『みんなが自分を否定するから自分もみんなを否定する』という世界観を保てなくなったという理由です。
 ナツが必要とする他者の1人が千恵です。第7話終盤の帰り道では、ナツは千恵に否定されたと思っており、自分も千恵を否定しています。その後、第8話の序盤でも、ナツの中では「ちーちゃんとは絶交した」(p.189)ことになっています。しかし、千恵を探して馴染みの場所を歩くうちに、千恵とずっと一緒にいたことを思い出し、不意に「ちーちゃん どっか行っちゃうの?」(p.200)と千恵がいなくなることを想像します。さらに、そのすぐ後に旭と藤岡たちが一緒にいるところを見て、そのグループに千恵も入っていて自分だけが仲間外れにされているという、よりリアルな形で千恵が自分から去っていくことを想像します。そして、電話で千恵が旭たちといないことを聞いて、「ちーちゃんまでとられたら嫌だもん」(p.206)と安堵します。その時点で自分が千恵を必要としていることを再認識し、「やっぱり私にはちーちゃんがいないとダメだ」(p.207)と考えるのです。
 ナツが必要とする他者のもう1人が母親です。母からの置き手紙と1000円を見た時のナツは、どうせくれるなら頼んだ時にくれていれば今の窮状にはならなかったのに、というやるせない気持ちから「すごくイヤな気分だよ」(p.192)と腹立ちを口にしています。ですが、少し時間を置き、自分が千恵を必要としていることに気付いた後にもう一度手紙とお金のことを思い出して(p.208)、自分が母からいつも肯定され、守られていることを理解するのです。
 以上の3つの理由によって、ナツの自己否定の外部への投影が止まります。冷静になった上で、自分が他者を必要とし他者から肯定されていることに気付いたために、みんなから否定されているという思考が保てなくなったのです。

 こうしてナツは、自己否定と対峙する方法として、他者に仮託した上で他者を否定するという形を取れなくなりました。外部への投影と攻撃が消えた後には、単なる劣等感と自己否定だけが残り、それと向き合わざるを得なくなります。
 その上、自己否定を他者に投影したことは反動となって返ってきます。『自分には価値がないから相手から否定されているはずだ』という考えが、肯定してくれる他者や肯定されたい他者を認識したことで崩れ去り、『自分には価値がないのに肯定してくれる人がいるということは、自分が相手を騙しているのだ』という思考に変わったのです。こうなると、他者から肯定されること自体が罪悪感を生みます。「こんな親不孝者に優しくするのはやめて 余計に辛いから」(p.209)や「志恵ちゃんが私のことをいい人って言ってくれたんだ でも違うんだ」(同)にその心理が分かりやすく表れています。その結果、他人を騙して否定されるのを免れている分、自分で自分を否定しなければならないという思考に向かいます。
 このようにして、この数日間で自覚し続けてきた自分の人格の足りなさとそれを周囲に隠しているという罪悪感を、ひたすら自分で責め苛む螺旋に落ち込んでいきます。それが、p.206からp.213にかけて断続的に溢れ出す、大量の自己否定のモノローグです。その中心は「いい人っぽく見えてるだけで 私は何もしないただの静かなクズだ」(p.211)にあると言えるでしょう。そしてこの一連のシーンは、自分自身を対象化して評価せずにはいられないというナツの性質が行き着いた果てでもあるのです。

 延々と自己否定しながら町をさまよった最後に、ナツは千恵のことを考えます。「本当はちーちゃんも旭ちゃんや奥島くんみたいな人と友達の方がよかったんだろうな」(p.212)、「こんなんだからちーちゃんもいなくなるんだろうなあ」(p.213)とあるように、やはり自分は無価値だから千恵からも肯定されるべきではないと考えています。
 その直後、ナツの前に千恵が現れます。その屈託のない笑顔に自分への肯定を見出だし、ナツは救われた気持ちになります(p.215)。しかし、劣等感と自己否定自体が浄化されたわけではありません。現にナツはその場面でさえ、「思わずちーちゃんを抱きしめたくなっちゃったけど 私がそんなことしたら気持ち悪いよね」(p.217)と考えています。つまり、先ほどの自分が千恵から肯定されるべきではないという考えは、否定されたわけでも消えたわけでもありません。それでもナツは千恵に向かって「私たち ずっと友達だよね?」(p.220)と問いかけ、「うん」(p.221)という返事に涙を流して感謝を述べました。千恵に自分への肯定を求めたわけです。
 自己評価を無視してでも自分を肯定してくれる他者にすがって救いを得るという選択は、客観習慣の過剰ゆえに他者からの評価を優先せずにいられないナツの特質を如実に反映した物語の終わり方だと言えるでしょう。


《まとめ6》 ナツは客観習慣の過剰から他人に劣等感を抱きがちである。その劣等感は、千恵からお金を受け取ったことをきっかけに自己否定まで至った。ナツは自分を責め苛んだ末に、自己否定を抱えたままで、肯定を与えてくれる千恵に依存して救いを得た。



7節. 客観習慣の過剰と攻撃性

 6節でナツの自己評価の変遷を辿る中で、自己否定を他者に投影して、相手から否定されていると思い込んで相手を否定するという思考形態が出てきました。相手の視点を想像する考え方が相手への攻撃性に繋がるのは皮肉ですが、ナツが持っているのがあくまで客観習慣であり、能力としての客観性が高いわけではないことが再確認できます。
 しかも、ナツの客観習慣が他者への攻撃性として表出することは、意外に多いように思えます。そこで今節では、客観習慣から生じているナツの攻撃性を、3つのパターンに分類して見ていこうと思います。

 まず1つ目のパターンが、他者から奪うという形の攻撃性です。
 とは言え、ナツは作中で直接的に人から何かを奪ってはおらず、盗んだお金を受け取っただけです。ただし、宮沢たちがお金を探しているのは知っていて、盗んだものであることも察した上で受け取って使ってしまったので、加害に加担していることは確かです。つまりここでは、人のお金を不正に自分のものにすることへの言い訳という形で攻撃性が表れます。
 ここでのナツの言い訳の方向性は『自分は足りていないので他者から奪ってもいい』という理屈です。つまり、客観習慣によって周囲と比べて自分の方が足りないと考え、その不公平を是正するためには足りなさを満たす手段が不正でも仕方ないと正当化するわけです。お金を盗んだと露見した時に千恵の中から出てきた「ちーだってほしい!  ゲームくらいみんな持ってる!」(p.156)と同じ言い訳を、お金を受け取った当初からナツは心中で呟いていたということです。
 具体的には、小学生の頃の記憶を思い返して自分の家庭の余裕のなさを思った(p.129‐131)上で「私だってたまには好きなものくらい買ってもいいでしょう?」(p.132)と考えていることが当てはまるでしょう。p.139からp.140にかけての「みんな何か持ってるのに私たちだけ何も持ってないのは惨めだ」「良くないことをして得たお金かもしれない  でも」「ちょっとくらい  ちょっとくらい  恵まれたっていいでしょ私たち」という一連のモノローグも、同じ形の正当化です。さらに、劣等感を増幅して見てしまうナツなので、「ただ何もない最低限の生活の惨めな私に思わぬささやかな潤いがあった」(p.133)と、自分の足りなさを実際より強調したりもしています。自分の足りなさを『何もない』『惨め』と過大に捉えた上で、それを満たした幅を『たまには』『ちょっとくらい』『ささやか』と小さく見積もることで、手段の不正をできる限り正当化しようとしているのです。
 ここまでのナツは『自分の境遇は他者より足りないので満たされるべき』という発想をしています。他者から奪うことを正当化するという攻撃性はあくまでその手段として出てきたのであり、ただの開き直りにすぎないものでした。

 しかし、2つ目のパターンでは、他者に対する攻撃性が前面に出てきます。劣等感を突き付けられる出来事を経て、『自分は他者より下だから上昇するべき』というナツの思考は『他者は自分より上だから落ちてくるべき』へと裏返るのです。
 例えば、箸の持ち方を指摘されたことをきっかけに劣等感が吹き出したナツは、旭と奥島と如月を見ながら「何か足りないものはないの?  怖いものはないの?  嫉妬するものはないの? なんでみんな不満そうな顔すらしないの  そんなのおかしいよ  せこいよみんな」(p.146)と心中で呟きます。自分が足りないのがおかしいと思っていたはずのナツは、ここではみんなが満ちていることが『おかしい』と言い、『せこいよ』と攻撃性を表しています。
 また、旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た後の「本当  旭ちゃんは卑怯だよ  いっつもつまんなさそうな顔してさあ いい点とって海外旅行行って恋人もいて 新しい友達も作っててさ」(p.203)というセリフも同じです。自分の持っていないものをまるで当然のように享受している旭を『卑怯』と罵っています。
 以上のように、他人との差を思い知ったナツが相手のレベルまで自分を上昇させることを諦めた結果、『自分より多くを持っている相手がずるい』という嫉妬の形で攻撃性を他者に向けたのです。
 
 さらに、3つ目のパターンが第2のパターンと前後して現れてきます。それが6節で述べた、自己否定を他者に投影した上で他者を否定する形の攻撃性です。相手から何も言われていないのに否定されたと思い込み、千恵(p.179)も旭(p.203)も「大嫌い」と否定してしまったのは前節の通りです。
 この自己否定を投影して他者に攻撃性を向ける思考の果てが「自殺でもしよっかな みんな私を嫌いでしょ  後悔すればいいんだ  ちーちゃんも お母さんも クラスメイトも」(p.178‐179)という発想です。その後に続く「藤岡さんにおどされたって遺書書いたりして」(p.180)も、実際に藤岡には何もされていないのに、攻撃される想像を膨らませて反撃を企てています。もちろん、それらを実行に移すつもりはナツにはありません。しかし、『みんな私を嫌い』だから自殺を選択してみんなを傷付けるという発想は、自己否定から被害妄想を経て生まれた攻撃性の発露として、実に象徴的なものだと言えるでしょう。
 いずれにせよ、この第3のパターンの攻撃性は、親しい人も含めた外界全てに対する嫌悪や加害欲にまで行き着いています。やはり、客観習慣の過剰というナツの足りなさは、自己への否定だけでなく他者への否定をも生み出すのです。


《まとめ7》 ナツは、自分を他者と比べてしまうことで、奪うことへの開き直りや持てる者への嫉妬を覚えている。また、他者から否定されることを想像して他者を否定してしまう。このように、客観習慣の過剰は他者への攻撃性にまで結び付いている。



8節. 足りなさは満たされる?

 ここまで見てきたように、ナツの客観習慣の過剰は劣等感を生み出して自分を苛み、自己と他者の否定にまで至っています。では、第1章の9節で千恵の足りなさは少しずつ改善されていると結論したように、ナツの最大の足りなさも満たされていくのでしょうか。
 それはかなり難しいことだと言わざるを得ません。
 その理由の一つとして、客観習慣の過剰は幼さではないことが挙げられます。千恵の客観習慣の不足は幼さと相関していたので、成長に伴って習慣が身に付いていきます。しかし、ナツの抱える偏った客観習慣の過剰は、子供から大人に近付いていく過程で、自分の立場と適切な行動を周囲から読み取るために発達させてきたものです。これからさらに大人になっていく中で修正されたり変化したりはするかもしれませんが、過剰な客観習慣が目減りして中庸に至るとは考えにくいです。
 ただし、ナツの客観習慣は他者と自分を比較して劣等感を持つ方向に偏って発揮されがちで、それゆえに問題を抱えているので、そこをちょうどいい感覚に補正していくことができればよいはずです。それはつまり他者を自分より大きく見積もる癖をなくすことなので、現実の他者をきちんと見ることが大切になってきます。他者と積極的に向かい合うことで、全てを持っているように見えていた相手も足りない部分があると気付くはずです。そして、自分も足りない部分を含めて内面をさらけ出せるようになるのが理想です。そのようにして、足りない部分は指摘され、優れている部分は誉められれば、自分が足りないだけではないことも、他者からの視点が自分の想像と随分違うことも理解できるはずです。そうしていけば、いびつな客観習慣の過剰を、真に客観的なものの見方へと変えていけるでしょう。
 しかし実際には、客観習慣の過剰を改善するためにナツがこれらの行動を取ることは、客観習慣の過剰ゆえに困難です。

 まず、他者と積極的に向かい合うのはナツにはかなり難しいことです。
 第1章の5節で、羞恥心は客観性から生まれるという説明をしました。客観習慣の過剰なナツは、当然羞恥心を感じやすいことになります。色々な場面で、自分の行動は場違いなのではないか、こんなことをするのはキャラに合わないのではないか、と恥ずかしさや気まずさを避けようとします。*9 結果、行動が消極的になっていくのです。
 例えば、千恵の存在を求め、「大切なことを大声で叫びたいよ」(p.212)と願った時ですら、小さな声で千恵の名を呼ぶのが精一杯でした。その直後に求めていた千恵に出会えた時でさえ、抱き締めることを躊躇し、「私がそんなことしたら気持ち悪いよね」(p.217)と考えるのです。いずれも、自分を外から見てしまい羞恥心を捨てられないことで、積極的に他者を求めることができなくなっています。

 また、足りなさを含めた内面を他人にさらけ出すことも、ナツにとっては相当に困難です。
 客観習慣の過剰というナツの足りなさは、自分の足りなさを見ずにいられないという足りなさです。第1章9節序盤で言及した、足りなさのために足りなさを見ずに済んでいるという千恵の性質とは、ここでも対照をなしています。ナツは自分の足りなさを何より嫌い、劣等感を育てているのです。それゆえにナツは、自分の足りなさをさらけ出すことなど思いもよりません。自分の内面を醜いものとして必死で隠そうとします。
 思えば、盗んだお金を受け取ったという道徳的・金銭的な足りなさが人に知られそうになった時、ナツは他者から逃避することで足りなさを隠そうとしました。藤岡が犯人探しをしていると聞いたナツは、旭の心配も振り切って一人で保健室に逃げ込みます(p.148‐149)。その後も、誰にも会わないように保健室に残り続けた(p.154)ため、盗難事件が決定的な展開を迎えたことを知らず、他者を介して自らの足りなさと向き合う機会を逸します。他者の視点を持たない千恵があっさり盗みを告白し、許されて成長の機会を得たのと対照的です。その後の帰り道でも、旭からリボンについて問われたナツは、自分の罪と足りなさを突き付けられることを恐れ、旭と千恵を拒絶して一人になります。
 足りなさを自覚することが改善に繋がらず、足りなさを隠そうとしてより一層他者を遠ざける結果になっているのです。
 
 これらのように、ナツは客観習慣の過剰という足りなさが原因で、積極的に人と関わって自分を見せる機会を逃し、その結果としてその足りなさを変わることなく抱き続けるのです。
 足りなさから逃れられない循環は他にもあります。自分も大声で叫びたいと思いながらもそうできず自己否定する(p.212‐213)ように、ナツは自分の消極性自体に劣等感を覚えています。同じく、「いい人」と言われたことを自ら否定して(p.209)、「こうやってふつふつと不満も嫌らしいことも考えてるくせに一切主張できずに黙ってて」(p.211)と表現するように、自分の醜い部分を隠していることも自覚して自己否定の根拠としています。足りなさから生じた足りなさを自覚するがゆえにさらなる劣等感を抱くわけです。さらに、自分の足りなさを隠している自覚があるために、他者から優しくされたり肯定されたりしても自分が相手を騙しているからだと捉え、それもまた自己否定へと転じてしまうのは、6節で見た通りです。これも、他人と向き合えないという結果を生みます。
 このようにして、他者と向き合えないために足りなさを持ち続け、足りなさを持っているためにさらに足りなさに囚われ、囚われているために他者に向き合えない、という幾重にも重なった自己否定と孤立の循環をナツは巡り続けるのです。

 以上のように、物語の中でナツの足りなさはほとんど満たされる兆しが見えません。最後に千恵に受け入れられることで自己否定の繰り返しは一旦止まりますが、千恵からの肯定の視線を自分の中に取り入れたというよりは、受け入れてくれる相手にただすがりついたと言うべきでしょう。客観習慣の過剰や劣等感が改善に向かったわけではありません。
 しかし、そもそも客観習慣の過剰というナツの足りなさは、一般にありふれたものです。『周りの目が気になる』『自分がみんなより劣っていると思う』という悩みは、多くの人にとって覚えがあるものだと思います。だからこそ、私たち読者は多かれ少なかれナツに感情移入するのです。
 ということは、現実に多くの人がナツと同じ足りなさを抱えて生きていることになります。前述した通り、この足りなさは足りなさを再生産する方向性があるので、きちんと向き合って『解決』したという人ばかりではないでしょう。それでも抱えて生きていけるのは、きっと客観習慣の過剰が内面の問題だからです。千恵のように客観習慣が不足していると、頻繁に外界と摩擦を起こします。しかし、客観習慣の過剰は多少偏っていようと周りに気を遣う方向に働くので、大抵は他者との間に問題は起こしません。実際ナツも、千恵がお金を盗むという行動を起こさなければ、自分から道を踏み外すことはなかったでしょうし、自分の足りなさにこれほど苦しむこともなかったはずです。作中では他者を拒絶する方向で外界と摩擦を起こしてしまったわけですが、千恵がきっかけを作らなければ、ナツはいつものように外向けには足りなさを取り繕い続けたでしょう。
 そして、そうやって現実には問題なく生きられているということが強みになります。羞恥や不満や不安や劣等感が心の中で渦巻いていても、生きていけるし生きなければなりません。自己を否定する感情は消えなくても、日々の生活に思考を割く中で、それらを苦しみとして受け取る心を次第に鈍麻させていくのだと思います。例えば、『自分は人より劣っている、だがそれはしょうがない』『あの人に嫌われているかもしれない、でもどうしようもない』というように、諦めをもって痛みを和らげるのです。そのようにして私たちのうちの一部は、自分を傷付ける客観習慣の過剰を鈍らせた心でくるんで抱えたまま生きているのではないでしょうか。

 ナツは自殺という行動を考えましたが、実行はしませんでした。高まった自己否定の反転した他者への攻撃として思い付いただけだったので、実際にそれを選ぶことはありませんでしたし、これからも頭に浮かぶことはあっても実行することはないのだと思います。なので、ナツはこれからも生きていきます。それはナツの強みです。
 最終第8話は日曜日の出来事なので、翌日は学校があります。そうすれば、千恵と2人の関係性に閉じ籠っていることはできません。そこで旭たちと否応なく向かい合うことになるか、逃げ切ることに成功してしまうかは分かりません。ナツの内面に何が起こるか、足りなさが多少なりとも満たされるのか、それともより深まるのかも分かりません。
 ここから先のナツの人生は、もう語られることがない以上、想像するしかありません。ただ一つ言えるのは、生きている限りなんらかの形でなんとかなる、ということだけです。足りなさを抱えながらも、ナツの人生は続いていくのです。*10


《まとめ8》 客観習慣の過剰という足りなさが原因で、ナツは積極的に自分をさらけ出して人と向き合うことができない。そのために、いびつな客観習慣を真の客観性へと昇華する機会を逸している。つまり、足りなさゆえに足りなさを満たせず、ナツはこれからも足りなさを抱えて生きていく。



9節. 足りなさは足りないだけじゃない

 ここまでずっと、客観習慣の過剰がいかにナツに纏わりついて責め苛んでいるかを述べてきました。しかし、第1章9節の冒頭で千恵について言ったように、その人の根元的な足りなさはその人の特質であり、角度を変えれば長所としても働き得ます。客観習慣がナツにとって利点として作用している面を見てみましょう。

 まず、言語能力です。第1章7節で見たように、客観習慣の足りない千恵は相手に分かる言葉を検討せずに喋るので、伝わりにくい発言がしばしばあります。だとすると、反対に客観習慣の強いナツは、言語能力が高いと考えられます。
 実際にナツのセリフを見てみると、「割り算は大人リーグ一軍フルイニング出場だよ!」(p.11)、「答え全部が睾丸になるような腐れテストつくったら  先生瞬殺で懲戒免職だよ!」(p.23)、「大衆の面前でカウンターで合わせるのは酷だよ!」(p.74)など、語彙がとても豊富で文構造もしっかりしています。ナツが最初はツッコミ役*11として描かれていたことも大きいのでしょうが、客観習慣も言語能力に寄与しているはずです。相手に伝わるようセリフを構成してから話す習慣ができていると思われます。話したことが伝わらなかったり、言いたいことが途中で分からなくなったりした時の気まずさをナツはかなり恐れているはずなので、余計にそういう習慣が強いのでしょう。自分を心配する旭の声が耳に入らないほど動揺している時(p.148)でさえ「あのっ  私  また気分悪くなってきたから保健室行ってくるね」と、前日欠席し当日の朝も遅刻したことを踏まえて筋の通った発言をしているのが象徴的です。
 また、ナツは内面での思考も言語的に豊富です。その究極はp.210‐211の怒涛の自己否定でしょう。もちろん、漫画の心内語として表現されているために言葉として整っているのは確かです。しかし、千恵の心内語がもし語られるとしたら、これほど整理されて分かりやすい文章にできるとは考えられません。ナツは普段から自分の状況や心境を客観視点で捉え、言語化して把握する習慣がある程度付いているために、会話として外部に出る言語もより整えられたものになるのでしょう。
 例えば、藤岡たちと遊んでいる旭を見て混乱したナツは、旭に必要とされていないという心内語をいくつも並べた(p.202‐203)後に、「本当  旭ちゃんは卑怯だよ」(p.203)以降のまとまった独り言を口に出して言います。これは、動揺した内心をそのまま吐き出さずに心中で言語化して整理してから発言することと、誰に言うでもない感情も言語的に筋道立てて自覚すること、両方のナツの性質を示しています。
 これらのような、心の中で文章をある程度構成してから口に出すという習慣は、予想外の状況で動揺して言葉を組み立てられない時に、とっさの発言ができないという短所としても表れます。宮沢たちが千恵を疑ったときに「たいへん  そんなの違うよって言わなきゃ」(p.113)と考えながら言葉にできず、後から「この前だって ちーちゃんが疑われた時 旭ちゃんは怒ったのに私は怖くて黙ることしかできなかった」(p.210)と自己否定したところには、その側面が表れています。*12 基本的に言葉が達者な旭が、動揺した時には「うそだろ  うそだろ  うそだろ」(p.155)、「なんでなんだよ なんでなんだよ」(p.160)と会話にならない心の内をそのまま言葉にしてしまう、つまり客観性をかなぐり捨てられるのと対比的です。
 しかし、言語能力の高さは日常会話の中では間違いなく利点として働いているでしょう。同じ性質が長所と短所で表裏一体になっているのです。

 その他にも、客観習慣の強さが長所として出てきている場面があります。
 第4話のナツは、色々な出来事から自分の足りなさを感じ取り「はあ  私たちは  なんだか私たちって 本当  何もないな」(p.93)と劣等感を覚えていました。しかし、最後には「なんか別にどうでもいっか なんだかこの町もこの生活も 大して悪くないのかも」(p.98)と気持ちが楽になり、少し前向きになっています。そうなったきっかけは、自分の住む町の景色を眺めた(p.96‐97)ことです。それによりナツは、「なんだか私たちって  今一瞬だけ世界で一番美しい2人だったかも」(p.98)と思い、自分を肯定できたのです。
 ここでポイントになるのが、『私たち』のことを美しいと感じたことです。海を望む町の景色は確かに美しいものでしょう。しかし、それを見ている自分たちが美しいというのはどういうことでしょうか。
 それはつまり、美しい景色の中にいる自分たちを外側から見ているのです。p.96‐97の見開きの景色の中で、ナツの目に映っているものはガードレールより向こうの町並みと海です。しかしナツの脳裏には、ガードレールのこちら側の道路に立って向こう側を見る千恵と自分を含めた、あの見開き全体の絵が映し出されています。そして、『美しい景色の中の一部である私たちは美しい』という理路で、自分を肯定したのです。
 こういう思考は千恵にはできません。自分を外から見る習慣のない千恵の脳裏には、自分が見ているガードレールの向こうの景色がそのまま映っています。表紙のカバー下にも使われているあの見開きは、ナツと千恵が同じ景色を目に映しながら、心の中では別のフレームで景色を見ている場面なのです。
 率直な感想を言えば、『世界は美しいのでその一部である自分も美しい』という論理での自己肯定は、千恵だけでなくほとんどの中学生がまだ持ち合わせていない発想だと思います。それほどナツの客観習慣は過剰なのだと言うこともできますし、自分を救う方法として特異な強みだとも言えます。また、1節の序盤で説明したように、この日に生まれたリボンへの欲望が爆発して母に駄々をこねるまでに、少なくとも11日の間が空いています。ここで得た「なんか別にどうでもいっか」という救いが、それだけの間は心を慰め続け、自分の足りなさへの不満をなんとか抑えていたと考えられます。それだけ大きな救いを客観習慣によって得ていたと言えるでしょう。
 しかし、そもそもこの思考によって救われた苦しみは、客観習慣の過剰から生まれた劣等感です。つまり、客観習慣によって生じた痛みを客観習慣によって癒しているわけです。ここにも、ナツの特質は長所としても捉えられるが短所でもあるという両面性が見て取れます。

 ここまで、ナツの足りなさは長所としても働いていることを見てきました。そしてそのことは、千恵との比較によって分かりやすく浮かび上がってきました。これは、『客観習慣の過剰』というナツの足りなさと『客観習慣の不足』という千恵の足りなさが反転して対になっている以上当然のことです。
 つまり、ナツの足りなさは千恵にとって足りていることであり、千恵の足りなさはナツにとって足りていることなのです。だからこそ、この2人の間にはいくつもの対比関係を見て取ることができます。安いヘアゴムで満足する千恵と、高価なリボンが欲しいナツ。言葉が足りない千恵と、言語能力が高いナツ。空気を読めない千恵と、空気を読みすぎるナツ。感情のままに人との距離を詰める千恵と、誰とでも会話はしても一線を引いているナツ。罪を自覚できなかった千恵と、罪に苛まれたナツ。嘘でごまかすことができずに人と衝突した千恵と、自分を見せずに責められることから逃げたナツ。自分を外から見ることができない千恵と、自分を外から見て慰められるナツ。足りなさゆえに自分の足りなさに気付けなかった千恵と、足りなさゆえに自分の足りなさを見ずにいられないナツ。他にもきっと対比を見つけることができるでしょう。
 このように、2人の中心人物の足りないところと満たされているところが背中合わせにくっついていることは、物語の重要なテーマを示しているように思います。それはいわば、『足りなさの相対性』です。
 私は足りなさを抱えているけれども、それは絶対的なものではない。私にとっての欠点は、誰かにとっては長所かもしれない。私から長所に見えているものは、その持ち主にとっては欠点かもしれない。私が全てに劣っているなんてことはなく、きっと誰もが何かの足りなさを抱えている。そういう足りなさの相対性が描き出されていることが、この物語の一つの救いなのではないかと思うのです。


《まとめ9》 客観習慣の過剰はナツの性質なので、言語能力の高さや、自分を外から見て慰められることのように、足りなさだけでなく長所としての面もある。客観習慣が不足している千恵と過剰なナツは、長所と短所が逆転して対になっている。そのような足りなさの相対性は、作品全体のテーマである。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 千恵の第1章を書いた時は、さすがに第2章はここまで長くならないだろうと思ったのですが、いざ書いてみるとまんまと第2章の方が長くなってしまいました。
 千恵について考えることは他者について考えることですが、ナツについて考えることは自分について考えることでもあります。ところどころに私の感情が入りすぎたかもしれないとは思っています。まあ、もともと深読みの感想の文章なので感情が入りすぎたも何もないんですが。

 さて、これで中心人物2人の足りなさについて書きました。他の登場人物の足りなさについても考えていくんですが、その話は物語全体の構造についてお話した後の方が分かりやすいと思います。
 そこで次回は、『この物語の主人公は誰なのか?』を考えようと思います。
 次回第3章はこちらです。またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【客観的に見られていない】
 この2つの場面でなぜナツの客観性が働かなかったかについては、後ほど第3章6節で述べます。

*2:【話題にしないように】
 とはいえ、ナツは旭の恋人について聞きたいと思っており、本人に水を向ける場面もあります。そのシーンと感情の動きについても、次の第3章の6節で詳述する予定です。

*3:【客観習慣の過剰】
 ここでは、ナツの足りなさについて、千恵の『客観習慣の不足』と対比するために『客観習慣の過剰』と表現しました。もし、『過剰』が『足りなさ』だという言い方に違和感があれば、『主観習慣の不足』と読み替えてもらっても意味はそう違わないと思います。いずれにしろ、自分がどう思うかという主観よりも、周囲の他者から見てどうかという客観的な視点を過剰に優先する思考の習慣のことです。

*4:【交友関係は狭く】
 ナツの交友関係が狭いことを示す描写としては、直接的には「クラスも下部組で交友関係もせまいし」(p.135)という本人の心内語があります。間接的な示唆としては、旭と水沢が付き合っているという情報を、旭とは親しくない宮沢が何らかのルートで知っていた(p.115)のに、ナツはたまたま2人を見かけるまで噂なども聞いていなかったことが挙げられます。これはおそらく、部活に所属しているかどうかの差が大きいのでしょうね。ただし、ナツは一学年上の有名人である水沢のこと自体は知っていた(p.41)ので、そういった噂のネットワークから全く疎外されているわけでもないようです。そのあたりもまた、千恵と比べれば足りているところではないでしょうか。

*5:【本棚】  
ナツは旭に「なんかオススメの漫画とか貸すから言ってね」(p.103)と言っていることからも、やはり漫画などをそれなりに揃えていることが伺えます。姉の志恵が友達からもらってきた雑誌をさらに千恵が盗み読んでいる南山家の状況とは、かなりの差があるように見えます。また、旭に対して「私の好きな映画を薦めたかったよ」(p.203)と考えているので、ナツの本棚にある『漫画とか』の中には映画のDVDも入っているのかもしれません。もし『好きな映画』が手元にないものであっても、中学生で人に薦められる映画があるのは、それなりの文化的体験があると言えると思います。描写が少ないので恣意的な比較になってしまいますが、日曜朝の女児アニメごっこに熱中している千恵とは、やはり対比的に感じられます。

*6:【部屋】
 千恵とナツの自宅は同じ団地の一室であり、その点では同等の2人が一戸建てに住む旭と対比されているように見えます(p.32)。しかし、実は千恵とナツの住居にも差はあります。前提として、2人の住む団地は、p.52の1,2コマ目が分かりやすいですが、かなり汚れて古そうに描かれています。また、p.4の1コマ目で分かるように5階建てで、p.127の1コマ目のように居室2室おきに階段室があります。このような構造で5階建てまでの古い団地には、おそらくエレベーターがありません。そして、小林家の居室はp.101の3コマ目で1階にあると分かります。一方、p.42の2コマ目には南山家の表札があり、「3ー502」と表記されています。これは素直に読めば、第3棟の5階の端から2番目の部屋ということになるでしょう。ただし、p.52の2コマ目では、千恵のいる部屋のベランダの庇に上の階の柵の脚部のような物が見えています。もしこれが上階の柵なら、他のコマでは屋上に柵はないので、千恵の部屋は最上階の5階ではないことになります。その場合、部屋番号に忌み数の4を当てることを避けたために4階の部屋が500番台になったと想像でき、南山家は4階となります。いずれにしろ、エレベーターのない集合住宅の1階と4階あるいは5階では、生活の利便性にかなりの差があり、家賃にも違いがあるでしょう。千恵とナツは住居自体にも密かに格差があるのです。

*7:【差を無視して】
 この傾向は、第2話で『あほ』を演じるために千恵に真似られた際のナツの反応にも表れています。ナツは「ちーちゃん 私のことをあほだと思ってたの──!」(p.48)と単純に抗議します。しかし、もしも旭が千恵に同じことをされれば、「あほはお前だ」(p.159)のような意味のことを言ったはずです。客観的に見て、千恵よりはナツと旭の方が学力も思考力も判断力も高く、比較すれば千恵の方が『あほ』ということになるでしょう。だから、『そういう千恵の方があほだろう』という呆れと訂正がむしろ普通の反応です。それなのにナツはそういう反応せず、『あほ』扱いに対する純粋な怒りの表現をするのは、もともと千恵の方が『あほ』だという自分との比較を避けていたからだと考えられます。

*8:【悪魔化】
 ナツが藤岡のことをいかに恐ろしい相手だと思い込んでいるかは、保健室に逃げ込んだナツのモノローグで分かります。「どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金であんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ ばれたら学校にこれなくされちゃうのかな」(p.150)です。現実の藤岡と全く違うものを見ています。だからこそ、「藤岡さんにおどされたって遺書書いたりして」(p.180)自殺するなどという尋常でない攻撃手段を思い付いたりできるのでしょう。その後の「まあ  あの人はそんな心あるわけないから無意味か」(同)に至っては全然知らないのに人格を全否定しています。

*9:【恥ずかしさを避ける】
 作者の前作『空が灰色だから』1巻収録の第1話「スーパー宇佐美物語伝説」でも、恥ずかしがりであるために人と関わることを避けてしまい、そのために恥ずかしがりを克服できない主人公が描かれます。これも一種の客観習慣の過剰によってその過剰を適切化できない状態であり、ナツの足りなさと通じるものがあります。

*10:【人生は続いていく】
 不幸や不足は解決されるとは限らず、抱えたまま生きていくものだという考え方は、作者の作品に繰り返し表れます。例を挙げれば、『死に日々』2巻収録の第18話「8304」では、主人公のけんちゃんは強く執着していた松田と心を通わせたように見えたものの、結局2人の人生は離れていって交わらなかったことが最後に示されます。そのことを痛みとして抱えながらも、自分は大人になれないと言っていたけんちゃんが、大人としての自我を獲得して生きていることが分かります。
 また、そういう考え方が語られた作者本人の言葉もあります。児童文学誌「飛ぶ教室」(光村図書)の2017年冬号に掲載された阿部共実さんのインタビューの中に、ネガティブなテーマを意図して選んでいるわけではないという話の流れで、次のような一節があります。「学校で仲が良かった友達と、ちょっとしたきっかけで疎遠になったり、勇気が出せなくて誰かを傷つけてしまったり、傷つけられたりなどということは、小学生や中学生で経験することは少なくないと思います。それを特殊な不幸とは思わないし、そしてみんながそれに対して善処しきれるわけでもなくて、大人になっても後悔や苦い思い出として残るのが事実で、そうやって人は年を重ねていきます。これもまた日常だと思います。」 足りなさや不幸、ネガティブな感情や思い出は必ずしも克服するものではなく、持っているのが普通のことだという作者の考えが分かります。

*11:【ツッコミ】
 作品後半の闇に飲まれかけた状態でも、「死んでなお殺される幽霊が不憫だな──」(p.120)、「おはしが武闘派シーフのダガーナイフの持ち方みたいになってる!」(p.145)のような華麗なツッコミを時たま見せてくれます。

*12:【怖くて黙る】
 もちろん、とっさに言葉を組み立てられなかったという理由の他に、ナツ自身が思うように怖くて黙っていたというのも事実でしょう。ナツは対人関係に消極的で羞恥心が強いので、その場の空気に臆して何も言えずにいたという面は大きいと思います。そして、怖くて話せないという気持ちと言葉が上手くまとまらないという状況は繋がっているものでもあります。