深読みの淵

漫画とかを独断と妄想で語ります。

『万引き家族』を深読みする 英雄スイミーと主人公

目次

はじめに

 映画『万引き家族』(是枝裕和監督)は各所で絶賛されましたね。私も、安藤サクラさんの取り調べのシーンをはじめ、素晴らしい演技と演出に圧倒されました。
 この映画の中で象徴的に引用されているのが『スイミー』です。この童話を読むのがなぜ祥太(城桧吏)なのか、そして、この物語が映画の内容に対してどういう関係を持っているのか、ということについて深読みと妄想を全開にして書いていきます。*1
 なお、これを読むあなたが映画を観ていることを前提に書くので、当然のようにネタバレしますことをご了承ください。


スイミーは英雄である

 まずは、『スイミー』がどういう物語なのか確認しましょう。
 『スイミー』は、レオ・レオニが1963年に発表した絵本です。Wikipedia*2によれば、日本では光村図書の小学2年の国語教科書に1977年から採用され続けているそうなので、学校で習った方が多いのではないでしょうか。もちろん読んだことのない方や忘れている方もいると思うので、あらすじを述べます。
 赤い小魚の群れの中で1匹だけ真っ黒なスイミーは、大きなまぐろに群れのきょうだいたちを食べられ、泳ぎが速かったために1匹だけ逃げ延びます。孤独に海を彷徨い色々な生き物を見た末に、きょうだいたちにそっくりな赤い小魚の群れに出会いますが、かれらもまたまぐろの襲撃に怯えていました。スイミーは群れで固まってまぐろより大きな魚のふりをすることを提案し、自分は黒い体を活かして目の役を演じ、見事まぐろを追い払うことに成功しました。
 だいたいこういう話です。
 この物語は、小学校低学年の教材として使われていることもあり、仲間と協力する大切さや、みんなと違う部分も個性として強みになるという教訓に回収して語られることが多いように思います。それらの理解が間違っている訳ではありませんが、芯を食っているとは言い難いです。
 実は、『スイミー』の本質は英雄譚です。

 ひとまず、主人公のスイミーに作者から与えられたものを数え上げてみましょう。
 まず、泳ぎの速さ。魚として最重要の能力と言っていいでしょう。大量にいたきょうだいの誰よりもずば抜けた泳力によって、スイミーはただ1匹虐殺から生き残ります。
 次に、発想力。日本語版の副題に「ちいさなかしこいさかなのはなし」と付いているように、集団で大きな魚に擬態するという作戦立案の能力が最終的な勝利をもたらしました。
 さらに、人望と統率力も凄まじいものがあります。放浪の後に出会った赤い魚たちにとって、スイミーは突然現れたよそ者であり、しかも自分たちとは全く異なる見た目の他者だったはずです。その状況から群れに溶け込み、隠れて怯えていた多数の弱者に危険な作戦を受け入れさせ、短期間で一糸乱れぬ隊列を完成させたわけです。他者の信頼を得て集団の指揮を執る能力にかけては、稀代の王の器と言って過言ではないでしょう。
 それから、劇的な巡り合わせを起こす運命の力をも備えています。流浪の末にきょうだいたちを全滅させた仇であるまぐろの脅威に再び直面し、それと同時に守るべき対象であり敵に立ち向かう力でもある、亡ききょうだいたちにそっくりな一族にも出会っています。その巡り合わせはまさに、運命によって主人公として決定付けられていると言えるでしょう。
 そして、上記全ての要素を備えた英雄であることの刻印として、スイミーはきょうだいたちと全く違う漆黒の体躯を授かって生まれてきました。これは、他の赤い魚たちが同じスタンプを捺すことで描かれていることと対照的です。スイミーはいわば、生まれた瞬間からその他大勢とは違う特別な存在として、誰の目にも明らかに聖別されていたのです。その上で、クライマックスで大きな魚の目として名乗りを上げるに至って、明確な役割をもってその黒い体を授かっていたことが明らかになります。それまで与えられた種々の力を存分に発揮して生き延び、集団を導いてきたスイミーが、最初から集団を中心で統率する「目」の座を約束されていたことが可視化されるわけです。「ぼくが、目になろう」という台詞は、スイミーが主人公=英雄=王であることが改めて承認されるシーンなのです。

 というわけで、『スイミー』という物語は、これほどに重ね重ね特別な存在であることが約束された運命の子・スイミーが、さすらいの末に自らの力で安息の地を勝ち取る貴種流離譚だと言えます。*3
 同時に、元々自然の摂理のままに天敵に対して逃げ隠れするしかなかった魚の群れに、団結と抗戦という新たな概念と擬態という手段をスイミーが持ち込んだことで、それまでの環境を一変して安全な生活を手に入れることができたという点に注目すれば、文化英雄譚であるとも言えます。*4
 さらに、別天地から漂着した異人が、弱者が寄り集まった群れでしかなかった集団を統率された組織として作り替え、軍事力を生み出して外敵を駆逐し、客人(まろうど)の王として安住の地を築き上げたという意味で、紛うことなき建国神話でもあります。
 要するに、『スイミー』という物語は、万能の主人公が神話的な事績を積み重ねて自らの運命に決着をつけるという、誇大的なまでの英雄譚だというのがここでの結論です。
 これは別の角度から見れば、たくさんの赤い魚たちは、スイミーという強烈な個性を描き出すための舞台装置に過ぎないということでもあります。


祥太は主人公である

 さて、『スイミー』について長々と述べましたが、これを前提として本題の『万引き家族
を紐解いていきましょう。
 1つ目の疑問は、なぜ『スイミー』を読むのが祥太なのか、ということです。
 単純に考えれば、『スイミー』は小学2年の教科書教材なので、小学生の年頃の祥太が対象年齢として合っていたということになります。しかし、祥太は学校に通っていないので、学年が読書に直接関係するわけではありません。例えば、信代(安藤サクラ)がりん(佐々木みゆ)に読み聞かせをするという形でもよかったはずです。*5
 さらに言えば、『スイミー』は作中で2回、深く印象付けるように引用されます。この童話が作品全体のテーマにも関わっていると考えるのが自然でしょう。だとすれば、それぞれ別々の登場人物が作中で『スイミー』に触れることで、この童話が物語全体に対して普遍的な関連を持っていることを示すという方法もあったはずです。
 にもかかわらず、祥太だけが繰り返して『スイミー』を読み上げるのはなぜなのでしょうか。
 それは、祥太がこの物語の主人公だからです。

 これを説明するために、まず主人公の条件について述べます。
 一般に物語の主人公が特権的に持ち合わせている要素は2つ、選択と変革です。主体的に決断して道を選び取り、物語世界に重要な変化をもたらす、それが典型的な主人公に与えられる役割です。*6
 もちろん、これに当てはまらない主人公も数多く存在します。例えば、日々の生活の中の出来事を描く物語には選択と変革自体が存在しないものもありますし、変化していく状況を観測する視点人物や、運命にひたすらに翻弄される犠牲者としての主人公も存在するでしょう。しかし、『スイミー』に象徴される英雄譚のような多くの神話・民話など、起承転結の構造をもって困難への対処を描いた典型的な物語においては、状況に転機をもたらし困難な現状を変革する者こそが主人公と呼ばれるのです。
 そして、主人公の選択によって困難を乗り越えて望んだ変化を起こせればそれは英雄譚となり、逆に選択の結果として何かが失われる変化が起きて物語が破滅に向かえばそれは悲劇と呼ばれるわけです。

 つまり、祥太が主人公であるというのは、『万引き家族』という物語において、主体的な選択を行って状況に変革を起こすのが祥太の役割だったという意味になります。
 では、作中で祥太が行った選択とはなんでしょうか。言うまでもなく、りんの万引きを止めるためにわざと目立つように盗みを働いた、あの行動に他なりません。
 祥太は、万引きが悪いことだと理解し始めていました。初枝(樹木希林)の死を隠蔽したことの後ろ暗さも感じ取っていたでしょう。そのような正しくない方法で守られ育てられてきた「妹」が、自らも正しくない方法に手を染めて生きようとする。そうやって続いていこうとする負の連鎖を断ち切るために変化を起こすという決断を、あの瞬間に祥太は下したのです。
 それでは、祥太以外の登場人物は主人公たり得ないのでしょうか。
 例えば、信代は作中で何度も選択を行っています。しかし、信代の選択はいつも現状の追認です。治(リリー・フランキー)が連れてきた少女を帰せなくなってしまったことも、同僚に脅迫されて仕事を辞めたことも、死んでしまった初枝を隠すのを決めたことも、前科のある治を庇う形で自分が罪を被ったことも、すでに起こってしまったことを諦めをもって受け入れ、できる限りのものを維持するための選択です。祥太に出自に繋がる情報を話したことは変化を起こす選択と言えなくもないですが、祥太の選択によって現状が変わったことに対応した選択であり、「家族」がすでにバラバラになってしまったことへの追認だとも言えます。いずれにせよ、現状を追認して維持する選択を繰り返す信代は、現状を変化させるために一度だけ選択を行う祥太と対比を成しています。
 それでは治はどうかというと、主体的に選択を行っているようには見えません。りんと出会って連れてきてしまう場面や、初枝の遺体を見て救急車を呼ぼうとする場面を見ると、目の前の出来事に反射的に対応し、後先を深く考えることなく行動に移してしまうのが治という人物の特徴に思えます。その結果、状況を変えるための決断をするどころか、状況の変化に取り残されてしまったことが、終盤で祥太の乗ったバスに引き離されて見送る姿で描かれています。
 また、りんについても、幼さのために、状況を主体的に判断して選択を行う能力は持っていません。自ら万引きを行おうとしたのは選択だとも言えますが、これは前述したように現状を受け入れて再生産する選択であり、これに抵抗する形で祥太は現状を変革する選択を下します。
 初枝と亜紀(松岡茉優)も、「家族」としての生活を始める時には状況を変える選択を行ったのでしょうが、作中で何かを変える決断をする場面は描かれません。これは信代と治も同じですが、少なくとも作中においては、選択と変革を行う役割を与えられていないのです。
 結局、物語の中で行われた変革のための選択は、祥太によるただ一度のみです。彼がミカンを掴んで駆け出すまでのあの一瞬にだけ、世界を変えるための決断が下されていたのです。*7


祥太は英雄ではない

 以上のように、祥太こそが物語の主人公であるわけですが、それでは、主人公であることが『スイミー』を読む理由だというのはどういうことでしょうか。
 それは、先述したように、『スイミー』は圧倒的な主人公の活躍を描く物語だからです。スイミーもまた、選択と変革を行う典型的な主人公であるのは言うまでもないでしょう。象徴的なまでに主人公が主人公の役割を全うするのが『スイミー』という英雄譚です。

 そのように、スイミーと祥太の間には、主人公であるという共通点があります。そのように一つの共通項があることで、必然的にその他の部分について比較が発生します。そこにはどういう関係性を見て取れるでしょうか。
 祥太とスイミーが共通項で繋がっているということは、祥太もスイミーのように英雄としての性質を持っているということでしょうか。そうではありません。むしろ、祥太は物語の主人公であるというただ一つの共通点を除いて、あらゆる点でスイミーと反対です。つまり、スイミーの備えている数々の英雄的な属性を、祥太は一つも持ち合わせていないのです。
 例えば、スイミーは誰よりも速く泳げるという才覚を持っており、この武器によって危機から逃げ延びることができました。しかし祥太には、誰よりも速く走ることはできません。そのために、わざと見つかるように盗みをした後、店員から逃げ切ることはできませんでした。このことは、「家族」に迫る危機へと繋がっていきます。
 また、スイミーは「かしこい」魚なので、斬新で最適な作戦を立案して、困難を乗り越えることに成功します。それに対して祥太は、世の中のことを学び始めたばかりの子供です。広い世界を見て回ってきたスイミーと違って、「家族」の生き方の外にある社会にほとんど触れてきませんでした。当然、困難に対して解決策を示すことも、状況に応じて最適な行動を選ぶことも、できるはずがありません。それゆえに、りんが自ら万引きをするという正しくない流れを止めるために、自分も盗みという正しくない手段しか選ぶことができませんでした。
 さらに、孤独だったスイミーはその人望によって、よそ者でありながら集団に溶け込んで多数の協力を得ますが、逆に祥太は、最後に孤独と向き合うことになります。自らの選択の結果怪我をして入院した祥太を置いて、治たちは家を出ていこうとしました。それを知った祥太は、自分が「家族」から見捨てられたのではないか、自分は誰からも必要とされていないのではないかという疑心を抱え込みます。
 何より、2人の主人公は、その選択の結果が対照的です。スイミーは、困難な状況を変えようとする決断の末に、皆を統率してまとめ上げ、外敵を追い払って安息の地を築きます。対して、祥太の選択が最終的に招いたのは、「家族」が皆離れ離れになり、信代は逮捕され、りんは虐待の危険のある家に連れ戻されるという結果でした。
 それも当然です。祥太はスイミーのような、運命に選ばれた英雄ではないのです。スイミーは、正しい選択をして、物語をハッピーエンドに導くことが決定付けられています。生まれた瞬間に、特別な存在であることがその身に刻印されていたのです。祥太は違います。たまたま実の親から車内に放置され、たまたま車上狙いをしていた治に発見され、たまたま治の反射的な行動によって連れ帰られたために、今の境遇が決定されたに過ぎません。正しい選択をできて全てがうまくいくというのは、祥太にとっては奇跡のように遠い偶然の産物としてしかありえないのです。
 それでも、祥太は『スイミー』を愛読していました。自分が読むだけでなく、繰り返し音読して、「家族」にもその英雄譚を響かせようとしました。そして、変革のための選択を行いました。自ら主人公であることを選び、世界を変える英雄になろうとしたのです。
 積み上げられたミカンを掻き崩し、掴み取って駆け出した瞬間、祥太は心の中で「ぼくが、目になろう」というあの台詞を、自分が世界を変える英雄だという高らかな宣言を叫んでいたのでしょうか。それは想像するしかありません。
 しかし、祥太にとってスイミーという英雄が輝かしい理想だったのは確かです。たとえそれが、届き得ない幻想だったとしても。


「家族」にスイミーは訪れない

 さて、祥太とスイミーの関係性が見えてきました。それは、『万引き家族』に対する童話『スイミー』の関係性と一致します。なぜなら、主人公はその物語の最も重要な部分と一体化しているからです。このことは、『スイミー』という物語が祥太の口を通してのみ映画と接点を持つことで、明確に示されています。
 つまり、『万引き家族』にとって『スイミー』は、そうあってほしい理想でありながら、そうはあり得ないファンタジーであるということです。

 少し話は飛びますが、『万引き家族』の中に『スイミー』が引用される理由を考えた時に、一番最初に思い付くのは「個々が寄り集まってひとかたまりのふりをする」という共通点だと思います。確かに「血縁も法的な繋がりもない一人一人が集まって家族を名乗る」という筋書きは、「一匹ずつの小魚が寄り集まって大きな一匹の魚を演じる」というストーリーと大きく類似しています。もちろんこのことも、劇中に『スイミー』を引用する上で意図されているはずです。
 しかし、「みんなで団結する物語」という理解が『スイミー』の一側面しか捉えていないのはすでに見た通りです。『スイミー』の中心にあるのはあくまで英雄スイミーであり、その頭脳とカリスマによって「スイミーがみんなをまとめ上げた」ことが物語の主たる要素なのです。赤い魚たちが団結したのは、主人公の選択と変革に従って生じた結果に過ぎません。もし英雄の訪れがなければ、魚たちはスイミーのきょうだいと同じように、ただ逃げ惑い、食べ尽くされ、滅んでいったでしょう。
 しかし、まさにその、スイミーのいない『スイミー』の世界こそが、『万引き家族』の物語なのです。
 主人公である祥太が英雄になれなかったということは、『万引き家族』の世界には英雄が不在であるということです。
 祥太とスイミーは主人公という共通点を持つことで比較が生じ、祥太がスイミーと違って英雄ではないことが如実に浮かび上がってきました。同じように、『スイミー』という輝かしい英雄譚が劇中に置かれることで、この映画が英雄なき物語であることがはっきりと照らし出されているのです。
 
 英雄のいない『万引き家族』の世界では、誰かが困難を打ち破る解決策を与えてくれることはありません。誰も何が本当に正しいかを知りませんし、望ましい結末が得られる保証は何もありません。誰も特別な存在ではなく、決断の結果は望まなかった方へ転がり、「家族」はバラバラになり、疑心は解かれることなく、理不尽は去らずに弱い者を脅かし続けます。
 それでも、祥太が現状に抗って決断を下したことは確かです。その選択は決して最適だったとは言えません。しかし、間違っていたと断じることも誰にもできません。祥太の行動で、りんに万引きをさせないという目的は達成されました。祥太が望んだような形ではなかったとしても、「家族」の現状にも決定的な変化がもたらされました。それまでの「家族」の生活とその先にあり得た未来が決して正しいものだと言えない以上、彼の起こした選択と変革が間違いだと言い切ることもできません。
 英雄ではない一人の人間には、選択の結果がハッピーエンドだと保証されていないのと同じように、選択が間違っていたと物語に決定されることもないのです。そして、答えを得ることはないままに、その先の未来を生きていくしかありません。それは、祥太以外の「家族」たちもまた同じです。
 信代はいつも現状を追認する選択をしてきました。つまり、常に間違い続けてきたと言えます。しかしそれは同時に、常に「家族」を守ろうとしていたとも言えます。りんを帰せずに連れ帰ってきた時も、初枝の遺体を隠蔽することを決めた時も、罪を一人で被った時も、彼女は愛しい者の人生を想っていました。
 初枝もそうでしょう。彼女は半ば利用される形で繋がりを得て、様々な偽りを重ねながら「家族」を作り上げました。しかし、その「家族」に愛着を抱いて生活していたのもまた確かです。彼女の人生を、その中で感じた幸福までもを偽りだと言うことは、誰にもできません。
 亜紀が裕福な実家を出て初枝の下に転がり込んだのも、生活のためでなく風俗店で働いていたのも、正しい選択でなくても自分がそうすべきだと思ったことをやった結果でしょう。その中で彼女は、血の繋がらない「おばあちゃん」や、傷付いた客(池松壮亮)と、確かに心を通わせました。
 治もまた、自分なりにそうすべきだと思った行動を取っています。後先を深く考える習慣の乏しい治ですが、それでも、震えるりんをアパートの外廊下から抱き上げた時、そして、ぐったりした祥太を車内から助け出した時は、本能的にせよ善いことをしようと思っていたはずです。
 そして、りんもまた、幼いながらに善いことをしようとします。自分の意志で万引きをしようとしたのは、たとえそれが間違いだったとしても、「家族」の役に立つための選択だったのです。
 
 『万引き家族』は、スイミーが訪れることのない、赤い小さな魚たちの物語です。
 大きなまぐろに怯えて逃げ込んだ岩陰で、強くも速くも賢くもない魚たちが、誰にも正しい方法を教わらないままに生き延びようとそれぞれにもがき、いびつながらも身を寄せ合う物語です。
 かれらは誰も特別な存在ではありません。何が正しいかも分かりません。それでも、自分の大事なものや人のために、何かを選び取っていきます。たとえ正しくなくても、なんとか生きていこうとします。*8
 かれらが確かに存在することを、映画は映し出します。
 映画の中で、『スイミー』は理想です。正しい決断と望ましい結果の象徴です。本当は何が正しいか分からないけれど、それでも一つの道を選び取り、何かを変えようとしたり守ろうとしたりする。その時に胸の中に浮かんでいる不確かな希望に、具体的な形が与えられた物語です。
 同時に、『スイミー』は幻想です。そうありたいと願ってもそうあることはできない、完璧な英雄による無欠のハッピーエンドの物語です。現実から隔絶したファンタジーであり、だからこそ美しいのです。
 現実。そう、『万引き家族』はもちろんフィクションですが、我々の生きるこの社会の地続きにある物語です。『スイミー』というファンタジーが作中にあることで、対比的にそれが浮かび上がります。逆に言えば、私たちの生きるこの社会に英雄などいない、何が正しいか誰も知らない、それでも何かを選んで生きていくしかない、そういう現実が映画に映し出されているとも言えます。あの「家族」は私たちと同じ街に住んでいるかもしれない、それがこの映画を裏打ちする強さです。
 映画の最後に、連れ戻された家の前から、りんは遠くへ視線を投げます。その先に、スイミーがやってくることはありません。英雄が訪れて彼女を救い出し、全てを解決してくれることはありません。彼女が見つめる先にあるのは、我々の生きるこの社会です。彼女は今この場所を見ながら、生きて大人になっていきます。そして、何も特別ではない私たち一人一人の選択は、彼女の人生と確かに繋がっているのです。
               〈おわり〉



脚注(余談)

*1:【深読みと妄想】
 この感想は、基本的に作品そのもの、つまり映画『万引き家族』とそこに登場する童話『スイミー』の作品内の描写だけから、どこまで深読みで深掘りして文章を書けるか、という気持ちでやっております。その方が面白いからです。あくまで個人的な娯楽で書いております。
 なので、是枝監督が『万引き家族』と『スイミー』について語ったインタビューをはじめ、映画関係者各位から色々と情報は発信されていると思いますが、原則それらは省みずに、あくまで作品内容のみから生成した妄想だと思ってください。もちろん、そういった各種インタビューや他の方々の映画感想から、無意識に影響を受けてこの文章を書いているとは思いますが。
 また、映画の中の細かい記憶が確かでない部分や、あるいは登場人物の名前表記などは、Web上のいくつもの情報を見て確認をさせていただいています。
 むろん、文章内に事実誤認があれば全て私の責任です。訂正いたしますので、何かあればご指摘ください。

*2:【引用元】
スイミーWikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%BC

*3:貴種流離譚
 貴種流離譚というのは、神話や民話の物語類型の一つです。高貴な生まれの人物が、身分にそぐわぬ不遇の境地に堕ちてさすらい、困難を乗り越えて栄誉を取り戻す、というのが基本構造となります。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください。

*4:【文化英雄譚】
 文化英雄とは、神話の研究で用いられる用語で、人類に有用な技術や知識をもたらしてその文化の発展に寄与した人物や神、動物などを指す言葉です。つまり文化英雄譚とは、文化英雄が技術や知識を人類に授けたその顛末の物語ということです。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください。

*5:【りん】
 「りん」と呼ばれる少女は、本名は「北条じゅり」です。劇中では、柴田家に来た当初は自称を元に「ゆり」と呼ばれる→本名の「北条じゅり」がテレビ報道される→発覚しないために呼び名を「りん」に変えられる→両親の下に連れ戻されてからは「じゅり」と呼ばれているはず、という変遷を辿ります。しかし、言及する場面によって呼び方を変えるのはややこしすぎるので、劇中で一番長く呼ばれている「りん」に統一しています。

*6:【選択と変革】
 主人公の条件は選択と変革だと述べましたが、変革の対象は形式上大きく2つに分けることができます。世界と自分です。
 主人公が世界を変えるのは、典型的な物語にほぼ必ず存在する展開ですね。世界を救ったり、国を変革して王になったりというストーリーは、文字通り世界を変えています。しかし、そこまで大げさでなくても、例えば弱いチームを奮起させてスポーツの大会で優勝したり、距離の遠かった相手と恋人同士になったりといった物語も、周囲の状況を変えたという意味で世界の変革に属すでしょう。
 もう1つの自分を変える物語は、例えば、作中の出来事を経て主人公自身が強くなったり教訓を得たりといった話です。特に短編の物語などに、主人公の心境が変化して終わるものが多い印象があります。
 ただ、一つの物語で主人公が変革するものが、世界と自分のどちらかだとは限りません。例えば、スイミーは典型的な世界を変革する主人公ですが、独り海をさまよって色々な物を見て、視野を広げる旅があってこそ英雄になれたと考えられます。自分を変えた後に世界を変えているのですね。このように、多くの物語で主人公は自分と世界の両方を変えていくので、どちらの変革が物語の主体になっているかという比重の問題として考えるのが正確かもしれません。
 さらに極端に言えば、主人公は物語そのものと同化している登場人物なので、世界を変えるのも自分を変えるのも結局は同じことだという捉え方もできると思います。

*7:【ミカン】
 完全な余談です。これは映画を観た時の自分の記憶が不正確で、ネット上の情報に頼った部分なのですが、あの時祥太が盗んだのってミカンだったんですね。なぜか完全にタマネギだと思い込んでました。ミカンがあの赤いネットに入って売られているイメージが全然なかったんですよね。というか、赤いネットに果物や野菜を入れて売っているのを近所のスーパーでほとんど見かけません。私は関西在住なんですけど、青果を入れるネットって地域差あるんでしょうか?

*8:【赤い小さな魚たち】
 これは、「家族」たちだけのことではありません。例えば、駄菓子屋の主人(柄本明)は、祥太の万引きを見ないふりをしつつ、りんにはやらせないよう諭します。それは一般的に言って正しい対応だとは言えませんが、祥太たちが少しでも良い方向へ行けるように考え、祈りながらの行動だったと思います。それは結果的に祥太の中に影響を遺します。また、「4番さん」と呼ばれる発話障害のある傷ついた青年は、風俗店の客と従業員という関係にすがり、救いを求めます。彼らは、何が正しい選択なのか知りません。それでも、少しでもましな方を選んで生きようともがきます。
 さらに言えば、この物語の中に何が正しいかを知っている人間はいません。例えば亜紀の父親(緒形直人)は、平穏な家庭を守るために、初枝に金銭を渡し、亜紀をいないものとして扱います。彼の振る舞いは冷淡と言えますが、決して悪人として描かれてはおらず、現状の生活を維持するために恐々とする小市民です。あるいは、終盤に登場する警察官たち(池脇千鶴高良健吾)は、祥太や信代を傷つける言葉を投げ掛けますが、そこに個人の悪意はなく、かれらなりに正しい方向を目指していることは確かです。りんを虐待していた両親(山田裕貴片山萌美)でさえ、それがかれら自身が充足していないことからきているのは容易に読み取れます。
 以上のように、「家族」を脅かすまぐろの側にいるように見える人々も含め、この物語に登場する一人一人は誰もが、英雄になれず、指針となる英雄を見つけることもできず、惑いながらそれぞれに生きようとする赤い小さな魚たちなのです。