深読みの淵

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『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第5章.旭ちゃんは何が足りないか

目次

はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ第5章です。
 本作について語りたいことは尽きないのですが、作品の大きな成り立ちについて述べるひとまとまりの文章、いわば『本論』はこの第5章で完結となります。
 前回の第4章では、志恵と藤岡について考え、この2人が『足りなさを知っているがゆえに姉であらざるを得ない』という足りなさを共有していると結論付けました。

 今章では旭について掘り下げ、そこから再び作品全体のテーマに触れて終わろうと思います。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、こちらの第1章の「はじめに」をお読みください。

 今章では、2・4・5節で旭についての結論を出します。1・3節は補足です。その後に、6・7節で本作全体についての結論を出して終わることにします。
 ではいってみましょう。



0節. 旭ちゃんは何が足りない?

 それでは、旭について考えてみましょう。これまでと同じように、『足りなさ』というキーワードから見ていきたいと思います。
 第3章の6節で、ナツから見た旭は満ち足りた人間の代表だと述べましたが、実際に旭は多くのものを持っています。さほど親しくない野村からも「この子ん家  金持ちだもん」(p.111)と知られているほど家庭は裕福で、家族で海外旅行に行くなど文化体験も充実しています。学力は高く、箸の使い方などの教養やパソコン操作などの生活知識(p.104)も備えています。コンタクトレンズを入れてお洒落な服を着ることもありますし、一学年上の人気のある男子と付き合っています。友達のために怒ったり間違いを正そうとするまっすぐな正義感を持ち、新しい友達ができて人間関係を広げていきます。
 このように、何でも持っているように見える旭ですが、彼女には足りないものはあるのでしょうか。



1節. 人間関係に不器用なのが足りなさ?

 満ち足りているように見える旭ですが、他の人物が旭の不足している部分に言及するシーンもあります。
 ナツは旭を評して「お金持ちで頭も育ちもよくて気が利くけど本当は不器用で人見知りだから学校ではなかなか友達が出来なかったんだよね だから妥協して私たちを選んだんでしょ  知ってるよ旭ちゃん」(p.203)と考えます。ナツの視点では、不器用で人見知りであることと、それによって望むような友人関係が築けずクラスカーストが低いことが、多くを持っている旭の数少ない足りなさとして見えていたということです。これは的を射た分析なのでしょうか。
 確かに旭は、あまり交流のない宮沢たちが教室でお金を集めているところに割り込んで、「せめてもうちょっと丁寧に扱ったらどうだ 大声出してペラペラと もし何かあったからってクラスの人間を疑うなよ」(p.106)という、不要に棘のある言い方をしています。もちろん親切心から忠告しているのですが、もう少し柔らかい伝え方はできるはずで、「嫌な感じ  いこいこ」(同)と言われてしまうのも仕方ないと感じます。その後にお金がなくなった時も「だから言っただろ あんな大声で喋ってたら取ってくださいって言ってるようなもんだ」(p.111)と言わなくてもいいことを言って、雰囲気が険悪になっています。旭は相手の気持ちより自分の正しさを優先するきらいがあり、コミュニケーションが不器用で誤解されやすいのは間違いありません。

 しかし、それが旭にとって重大な足りなさだったかと言えば疑問符が付きます。なぜなら、友人関係が狭いことを旭本人が気にしている様子があまりないからです。
 確かに「だからあんたはみんなに嫌われてんだよ」(p.115)と言われて動揺する場面はありますが、そんなことを言われれば普通ショックを受けるでしょうから、それを元から気にしていたと示す描写ではありません。宮沢や藤岡への旭の接し方は最初から好意的とは言えず、不器用さを差し引いても親しくなりたいと思っていたようには見えません。
 また、クラス内で委員長と副委員長という一定の地位にあり、友好的で話のレベルも合うであろう奥島と如月に対しても、旭は友達になりたいと思っている様子はありません。そのことは、「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)という言葉や、ナツが欠席してこの2人と千恵と旭で昼食を取った日の翌日に、ナツに向かってわざわざ「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)と言うことに表れています。これらを見る限り、旭は奥島と如月にさほど関心を向けておらず、千恵とナツとの3人のグループの方を大切にしています。
 そのナツたちに対しても、恋人ができたことを報告していなかったり、一緒に帰ることに拘らず「先帰ってくれてよかったのに」(p.29)と言ったりなど、学校生活を全て共有するようなベタベタした関係は求めていません。さらに、旭は一学年上に恋人がおり、クラス外にも人間関係を築いています。
 このように、旭はクラス内の交友関係の狭さやカーストの低さをさほど問題視しておらず、これは旭の中心的な足りなさではありません。もちろん千恵の客観習慣の不足のように、本人が気にしなくても問題が生じる足りなさもありますが、友達があまりできないということに関しては本人が構わなければ問題にはなりません。
 それが旭の足りなさだとナツが考えたのは、ナツ自身の世界がクラス内の人間関係に囚われているからかもしれません。『不器用』は確かに旭の特徴ですが、『人見知りで友達があまりできずにクラスカーストが低い』というのは、旭にもそういう面があるにしろ、ナツが自分の足りなさを旭に投影している部分が大きいのです。


《まとめ1》 旭は不器用で誤解されやすく、友人関係が狭い。しかし、本人はそのことにそれほど拘っておらず、旭の重要な足りなさだとは言えない。



2節. 執着するものは?

 以上のように、クラスでの人間関係の足りなさを旭はあまり気にしていません。そして、足りなさだけでなく他の多くのことについても、旭は拘っている様子をあまり見せません。ナツが「いっつもつまんなさそうな顔してさあ」(p.203)と言うように、テストが90点台だったり(p.79)海外旅行に行ったり(p.83)といった、ナツから見てとてもすごいことを事も無げに報告します。つまり旭は、自分が持っているものにも持っていないものにもあまり執着がないのです。
 ところが、そんな旭が強く執着する対象が一つだけあります。それが千恵です。

 普段は飄々とした態度の旭が最も取り乱したのが、千恵がお金を盗んだと発覚した場面です。千恵を宮沢たちの前に腕ずくで引きずって行った旭は、激昂して涙を流しながら「千恵に罪をわからせなきゃダメなんだよ!」(p.165)と叫びます。冷静さを完全に失うほど、千恵に対して強い感情を持っていることが伺えます。また、「本当に申し訳ない! お前らの金とったのは千恵だった」(p.159)、「改めて  盗んだことと こんなことに巻き込んでしまって申し訳ない」(p.171)と、旭自身が謝罪していることから、千恵の行動について自分にも責任があると考えていることが分かります。*1
 もう1つ旭が感情を露わにする場面として、宮沢の胸ぐらを掴んで「お前  なに言ってるのかわかってんのか!」(p.114)と怒鳴るシーンがあります。千恵に盗みの疑いをかけた宮沢を非難し、強く否定する言葉です。ここでも、千恵のことに関連して激しい感情が表出しています。
 他にも、日常的な言動の中に千恵への執着が垣間見えるシーンもたくさんあります。
 例えば、先ほど見た「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)には、昼食を一緒に取った奥島と如月を勘定に入れず、自分だけが千恵の世話をしたのだという主張が含まれています。この奥島と如月に対抗しての独占欲は、旭の言動の随所に表れます。第6話で奥島たちが千恵と居残って勉強すると言った時の「千恵は私と帰るんだ  なんだよそれ?」(p.151)は典型的です。その後の「じゃあ私も参加する  千恵のバカさは一筋縄じゃないからな」(同)も分かりやすいですね。このセリフに出ている『自分の方が千恵のことを理解していて上手く教えられる』という感情は、千恵の点数を奥島たちが誉めた時の「こんなので頑張ったってバカにしてんだろこの2人」(p.81)にも表れています。
 ここまで見てくると、千恵に絡んでいる藤岡を追い払った時の「千恵をオモチャにしていいのは私だけだ」(p.109)というセリフも、冗談めかしてはいますが一面の本音が出ているのが分かります。旭は千恵をオモチャだとは思っていませんが、独占したいという気持ちは抱いており、そのために千恵を藤岡から守ろうとしたのです。
 このように、旭が千恵だけに強い執着を抱いていることは何度も繰り返し示されています。それらの言動を見ると、旭は常に千恵を守り、世話を焼き、成長へと導こうとしていることも分かります。千恵を守り育てる役目を務めたいと旭は望んでいるのです。

 このことを踏まえてもう一度旭の言動を見ると、自分の千恵への感情を包み隠そうとしていることも見えてきます。
 藤岡に絡まれて嫌がっている千恵を助けたことを「千恵をオモチャにしていいのは私だけだ」と理由付けるのは、本心の優しさを隠そうとしているからです。*2 「千恵の子守りつかれたわ」や「千恵のバカさは一筋縄じゃないからな」というセリフも、わざと露悪的な言葉選びをしています。いかにもからかっている雰囲気で算数の問題を出し(p.9‐11)、数学の点数が上がったことを「旭ちゃんがいっつも掛け算や割り算問題でイジワルしてたのもこの為だったんだね」(p.81)と言われると焦って否定するのも、わざと悪ぶって千恵に接していることを示しています。
 これらに通底する旭の感覚は、自分はいかにもバカにした口調で「よーし次は夢の30点台だな  千恵 ひっひ──」(同)と言っておきながら、23点を素直に誉める奥島と如月に対して「こんなので頑張ったってバカにしてんだろ」(同)と言うところによく表れていると思います。

 ここまでを総合すると、旭は、『善意と執着を素直に出さないが、千恵を守り成長へ導く、千恵にとって特別な役目』になることを望んでいることになります。これは、第4章で志恵と藤岡の性質として挙げた『姉』の立場そのものです。多くのものを持っていて執着も示さない旭の唯一最大の願いは、千恵の姉の役割を果たすことだったのです。


《まとめ2》 何事にも拘らない旭が唯一強く執着する対象が千恵である。旭は、善意を隠してわざときつく当たりながらも、千恵を守り育てようとしている。つまり、千恵の姉の役割を果たしたいというのが、旭の最大の欲望である。



3節. 旭ちゃんの世界

 ここで、旭にとって2年6組がどういう空間だったかを見てみます。旭から見たクラスメイトの印象と実際の人間関係は、第7話での衝突と和解を機に大きく変化するわけですが、そこに至るより前の旭の主観的な教室内世界をここでは考えてみましょう。

 旭は他学年に恋人がおり、ナツと違ってクラスの外にも世界を持っていますが、クラス内で言えば最も関心を向けている相手は千恵です。旭の自認としては、千恵を守り育てる立場にいます。
 その時に、先ほど見たように奥島と如月はどちらかと言えばポジションを争う対抗勢力です。とはいえ、特に敵意を向けているわけでもなく、旭からすればさほど関心のない『その他』といったところだったでしょう。ナツの主観的な世界の中では、旭と奥島たちは全てを持っている優等生組として同じカテゴリーに入れられていたわけですが、実際には旭からすれば仲間意識があったわけではないのです。
 また、藤岡と宮沢、野村のグループに対しては、初めからあまり好意的に見ていない節があります。旭も、藤岡の不良としてのポーズによって誤解した印象を持っていたのかもしれません。いずれにしろ、彼女たちにも大して関心を抱いてはいませんでした。

 では、ナツはどうでしょうか。
 旭にとって自分のグループの中で優先されるのは千恵を守り育てることです。しかし、ナツのことも決して蔑ろにしているわけではありません。4月頃までは休日によく一緒に遊んでいました(p.83)し、帰宅後もメールのやりとりをしたり(p.104)、DVDを貸したり(p.103)など、親しく友達付き合いをしています。また、ナツが気分が悪いから保健室に行くと言った時には、「大丈夫か  一緒に行くか?」(p.148)とその場の誰よりも心配していますし、お金を受け取ったのがバレたと思い動揺するナツに対しても「おい大丈夫かナツ  顔色悪いぞ」(p.177の3コマ目)と声を掛けています。
 ここで押さえておきたいのが、旭はナツのことを対等な友達だと思っていることです。それは、「ナツお前  まともそうに見えて結構かましてくるタイプだな」(p.79)や、「···お前も千恵の陰に隠れてけっこういかついな」(p.104)というセリフに表れています。もともと旭はナツを、千恵のように保護や教育が必要な『あほ』な相手ではなく、まともで対等な友達と見ていたからこそ、『案外抜けている』という評価が出てくるわけです。
 それでは、旭にとってナツはどのような形で対等な相手だったのでしょうか。それが分かるのが、欠席明けのナツに旭が掛けた「昨日は一人で千恵の子守りつかれたわ」(p.144)のセリフです。これは、『普段はナツと2人で千恵の面倒を見ている』と旭が認識しているということです。つまり旭の中では、一緒に千恵を守り育てるもう1人の『姉』役として、ナツは自分と対等な存在だということになっているのです。
 おそらく、この3人でクラス内グループができた時、旭は千恵を自分の世話や導きが必要な庇護対象として認識したのでしょう。それは持ち前の大人びた考え方や正義感、あるいは単純に千恵の幼さによってかき立てられた庇護欲から来たものだったと思います。その時、ナツは旭から見ると、自分よりずっと前から千恵の側に付いて世話をしてきた人間として見えたはずです。だから、奥島たちが千恵の世話をすると排他的な感情を持つ旭も、ナツのことは一緒に千恵を見守るいわば同志と見なしているのです。
 このことで、盗まれた1000円を千恵から受け取ったのがナツだとほぼ確信しているだろう旭が、なぜナツを問い詰めて白状させようとしなかった(p.176)かも分かります。千恵がナツを守り通したことや、藤岡の計らいで形式上は事件の決着がついたこと、ナツたちを問い詰められるほど自分が彼女たちの足りなさを理解していないと自覚したことも、その理由になっていると思います。しかし、それら以前の問題として、そもそもナツは旭にとって教え導く相手ではなかったという理由があります。千恵は自分が成長させる対象なので強引にでも罪と向かい合わせましたが、ナツはそうではなかったのです。
 ちなみに、ナツは基本的に千恵を自分と同等として見ていますから*3、旭の世界観とは一致していません。旭にとって彼女らのグループは、足りている旭とナツが足りない千恵を世話するという形で成り立っていますが、ナツにとっては、足りない『私たち』と足りている旭という構造です。(図1参照)その結果、旭は『ナツは自分と同じように千恵の間違いを正すだろう』という誤解を持っており、ナツは『旭は本来は自分たちを下に見ており、他のグループに行きたがっている』という誤解を抱いて、お互いにすれ違います。2人は同じ教室の同じグループにいる友達ですが、最初から食い違ったそれぞれの世界の中で生きていて、その認識の断絶は最後まで埋まることがないのです。

図1:足りなさの順列とナツ・旭の認識
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 いずれにしろ、第7話までの旭にとって、クラス内の人間関係の中心にいるのは千恵です。庇護対象つまり『妹』である千恵を守り導く『姉』のポジションが旭の自認する立場であり、そうあろうと望んだ役割でした。
 その関係性の傍らにあるのがナツというもう一人の千恵の『姉』で、彼女とは役割において対等な同志であり、この3人以外のクラスメイトは『その他』でした。旭にとっての2年6組はそういう世界だったのです。


《まとめ3》 旭にとってクラスの人間関係で一番大事なのは、守り育てる対象としての妹である千恵だった。その時に旭から見たナツは、千恵を庇護する姉の役目を共有する対等な同志として見えていた。



4節. ちーちゃんに対する役割は?

 ここまでで見たように、旭は千恵に強く執着しており、教室内の旭の世界は千恵を中心に回っていました。それでは、千恵の『姉』でありたいという旭の望みは叶えられたのでしょうか。

 それを考えるために、作品の半面である千恵が主人公の物語はどういう構造をしているのかを再度見てみます。
 第4章で述べた通り、志恵と藤岡は2人で1つの『姉=贈与者』という役割を果たし、千恵の成長を導きます。その2人以外に千恵の物語で重要な役割を持つ人物として、ナツがいます。
 ナツは千恵にとって、目的となる人物です。千恵は幼いので、志恵や藤岡のように他者のために行動することはあまりなく、基本的に自分のために動きます。そんな千恵ですが、作中世界に最大の変化をもたらすお金の盗難と贈与は、ナツのためになりたいという思いで行いました。また、小学1年生で親しくなった時にすでに千恵は、『ふしぎの国のアリス』をナツのために持ち去って渡すという、お金の盗難と同じ構図の行動を取っていました(p.94)。
 つまり、千恵にとってのナツは、特異的に行動の目的格となる人物です。主人公が獲得したり、守ったり*4、喜ばせたりする対象となる人物、すなわち物語論で言うところの『王女』*5言い換えれば『ヒロイン』こそが、千恵の物語におけるナツの役割なのです。その関係性は、最終第8話で千恵を探し歩いた末に途方に暮れたナツが、千恵の方から見つけられ、呼び掛けられることで救いを得る(p.213)という形にも表れています。千恵にとって目的格になる人物には他に、第2話で千恵がもてようとする奥島がいます(p.45)が、そのエピソード限定のことであり、千恵の物語全体におけるヒロイン役はナツ一人だと言えます。
 これをまとめると、千恵の物語は、『主人公の千恵が目的格のナツのために行動を起こす上で間違いを犯すが、2人の姉=贈与者の補助を得て間違いを克服して成長する』と要約することができます。(図2参照)
 ここで言及される千恵・ナツ・志恵・藤岡の4人以外の登場人物は、彼女らのドラマの展開をスムーズにするための補助要素であり、第3章4節で述べたように、千恵を外から見て語るための視点の提供者です。舞台装置とカメラという全員に共通した役目を果たすキャラクターたちであり、言ってしまえば代替可能性を持った脇役ということになります。

図2:千恵の物語の構造
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 つまり、千恵の物語の中で、旭は実際には重要な役割を果たせていないということです。いくら強く望んでも、旭は千恵の姉になれなかったのです。
 それを決定的に表しているのが、第7話です。千恵がお金を盗んだことを知った旭は、終始強い語調で責め立て、「千恵に罪をわからせなきゃダメなんだよ!」(p.165)と叫びます。その直後に藤岡は、一旦許した上でヘアゴムを奪うことによって千恵に自分の罪を理解させ、志恵と藤岡のヘアゴムを介した連携による千恵の成長がそこに成り立ちます。まるで北風と太陽の逸話のように、旭は千恵を成長に導くことに失敗し、2人の姉がその後に成功するのです。
 この場面での旭の行動で意味を成すのは、千恵を宮沢たちの前に連れて行ってその罪を暴露したことです。この行為は確かに次の展開を生みましたが、これは旭にしかできないことではありません。お金を盗んだことが善行と結び付いていた千恵は、たまたま旭から問われなくてもそれを他者に告白する可能性は十分にありました。そして、千恵の盗みを知ったら、旭ほど強引でなくても奥島や如月もやはり宮沢たちに事実を伝え、千恵と引き合わせたでしょう。旭が千恵を強引に引きずって行ったのは、その時たまたま宮沢たちが学校に残って藤岡と待ち合わせていたことと同じく、物語をスムーズに進行させるための補助的な行動に過ぎません。やはり旭は、千恵の物語において必須の役割を担っているとは言えないのです。

 以上のように、千恵の姉の役目を果たしたいという旭の望みは叶わず、千恵の物語の中で重要な役割を占めることができませんでした。
 旭という登場人物を象徴する最大の足りなさは、『千恵の姉になれなかった』ことなのです。


《まとめ4》 千恵の物語において替えのきかない人物は、姉=贈与者の志恵と藤岡および、目的格であるナツである。旭は望みと裏腹に、千恵の物語で重要な役目を果たせなかった。つまり、千恵の姉でいられなかったことが旭の足りなさである。



5節. 姉になれないのはなぜ?

 それでは、旭はなぜ千恵の姉の役を果たせなかったのでしょう。姉として千恵の成長に寄与できた志恵と藤岡とは何が違ったのでしょうか。

 それが見えてくるのが、千恵の盗みを宮沢たちに告発した後の「なんでなんだよ なんでなんだよ」(p.160)という旭のセリフです。旭には、人のものを盗む人間の気持ちが理解できません。想像することもできません。だから、千恵の悪事を責め立て、補償させることで盗みの罪を正しく自覚させようとします。
 これは、藤岡が千恵の行為に許しを与えた上で引き換えにヘアゴムを奪うというように、手管を駆使して盗まれる側の気持ちに気付かせたことと対照的です。藤岡にこれができるのは、「私だって欲しいものがたくさんあるけど手に入らない  みんなそうだ」(p.169)と理解を示して諭すように、盗む側の気持ちを想像できるからでしょう。
 なぜ想像できるかと言えば、人から奪ってでも満たしたいほどの足りなさを知っているからです。藤岡も自分で言うように、不足しているものが数多くあります。家族のために働かなければならず、時間が奪われ部活も諦めなければならない現状を、理不尽だと思っているはずです。それでも、そういう足りなさを知っているからこそ、妹たちにそれを味わわせないために姉の役目を務めるのです。藤岡は「万引きしねえ?」(p.88)と冗談を言いました。実行には移さなくとも、人から奪うことを想像したことがあるということです。旭ならばきっと冗談でも口にはしないでしょう。藤岡は足りなさを知っているからこそ人から奪い取りたいほどの渇望も想像でき、「ちーにはなにもない  なんで!」(p.162)という叫びを理解し、正面から受け止めて慰めることができるのです。
 逆に言えば旭は、足りなさを知らないから千恵を導くことができなかったということになります。旭は家庭が裕福で大抵のものに満ち足りています。とはいえ、お金のやりとりについて注意する様子(p.106)から金銭については厳しく教育されている様子が伺えますし、しつけもきちんとされています(p.146)から、親にねだれば何でも買ってもらえる環境ではないでしょう。しかし、欲しい物は努力したり貯金したりすれば手に入ったり、そもそも家に多くの物が揃っていたりという形で、旭の欲求は基本的に欠乏せずに満たされてきたのだと思います。現実的に考えてプレステが買えない千恵(p.136)のようにどう頑張っても欲しい物が手に入らなかったり、友達と比べて明らかに自分の方が何も持っていなかったりといった、自分ではどうしようもない足りなさはおそらく経験してきていません。だからこそ旭は、人から奪ってでも満たしたいほどの千恵の渇望を理解できません。事実を受け止められず、「なんでなんだよ」「うそだろ  うそだろ  うそだろ」(p.155)と途方に暮れるのです。

 旭が足りなさを知らないことは、他の場面での行動にも影響を与えています。
 旭が飲んでいるジュースを千恵が物欲しげに見ていると、旭は「いやっ  あげねーよ!?  自販機あるから自分で買え!」(p.8)と言います。これは単にケチっているわけではありません。現に、旭が千恵のことをとても気にかけていて、ジュース1パックどころではない感情や労力のコストを支払うのは、この場面より先で十分に描写されます。ならばなぜジュースを分けてあげないかというと、それが正しいからです。お金についてきちんとしつけられた旭は、欲しい物は自分のお小遣いをやりくりして買うもので、お金がなくても友達にたかるような真似をするべきではないと考えているはずです。*6 正しさに沿って千恵を成長させようと考えているから、容易に千恵に与えようとしないのです。
 このことも、志恵と藤岡の行動と対比できます。第4章で見たように、この2人は必ずしも正しくなくても、『妹』の足りなさを満たしてやることを優先します。志恵がねだられて千恵に渡した200円や、藤岡が千恵から返させることを放棄した1000円がその例です。彼女たちにとっては正しく妹を教育することよりも、自分の知っている足りなさを妹に味わわせないということが大事なのです。そうやって筋を曲げてでも千恵に与えたものが繋がって千恵の成長に貢献したことは、見てきた通りです。
 ここでもまた旭は、足りなさを知らないことによって姉としての役割を果たし損ねています。

 以上のように、旭の足りなさは『足りなさを知らないがゆえに千恵の姉として振る舞えない』ことです。つまり、志恵と藤岡が共有する『足りなさを知っているがゆえに千恵の姉として振る舞わざるを得ない』という足りなさと、反転して対になっているのが旭の足りなさなのです。


《まとめ5》 旭は、自身がどうしようもない足りなさを知らないために、千恵の足りなさを理解できず、姉としての役割を果たせない。つまり、『足りなさを知らないがゆえに姉であることができない』ことが旭の足りなさである。



6節. みんながちょっとずつ足りない

 前節で、旭の足りなさは志恵と藤岡の足りなさの逆転したものだと示しました。これは、『客観習慣の不足』という千恵の足りなさと『客観習慣の過剰』というナツの足りなさが反転して対になっていたのと同じ構図です。本作中で主要な役割を果たす千恵・ナツ・旭・志恵・藤岡という5人の登場人物は、全員が自分の足りなさと対になる足りなさの相手を持っているのです。(図3参照)このことから、第2章9節で述べた『足りなさの相対性』は、作品全体を貫くテーマだと言えるのではないでしょうか。
 例えば、旭は多くを持っており、理不尽な足りなさを知りません。それは一般的に言って幸運であり望ましいことです。しかし作中での旭は、足りなさを知らないために、千恵を成長に導くという最大の望みを満たすことができませんでした。その一方で志恵と藤岡は、足りなさを体験して知っているという不運によって、千恵の姉の役割を果たすことが可能になりました。しかしそれは可能であるというだけでなく、その役を果たさずにはいられないという呪いのような側面もあります。このように、それぞれの不足と充足が表裏一体に対応していることも、千恵とナツの間に見たのと同じ関係性です。

図3:足りなさの対比関係
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 そのような、誰かにとって足りない状態が誰かにとっては充足であるという相対性は、上に挙げた『千恵↔ナツ』および『志恵·藤岡↔旭』の対比以外にも存在します。
 一つの例を挙げます。千恵の目的格になるのはナツだと4節で述べました。千恵が何かをしてあげたい、喜ばせてあげたいという最大の関心を向ける相手がナツなのです。そのナツが最も強い感情を向ける相手は旭です。ナツが旭に対して特に強く、評価されたい、一緒にいてほしいという執着を抱いていることは、第3章6節で述べた通りです。そして旭は、今章2・3節で見たように、唯一最大の執着を千恵に向けています。
 このように、千恵・ナツ・旭の3人の間では、最大の執着を向ける相手がぐるっと一周しているのです。もちろん、千恵にとっての旭、ナツにとっての千恵、旭にとってのナツがどうでもいいというわけではありません。しかし、この3人のうちの誰も、最も強い感情を向けている相手から最大の関心を返してもらえていないのは事実です。
 そして例えば、ナツにとっては最も執着する旭からの関心がもらえない不足した現状も、旭からすれば自分が最も執着している千恵から最大の関心をもらっている羨ましい状態に見えます。これは、どの2人の組み合わせでも同じことが成り立ちます。この3人はどこを取っても『彼女にとって足りていない現在は、私から見れば満ち足りた理想』という足りなさの相対性が成立しているのです。

 このような足りなさの相対性は、個人ごとの価値観と境遇の違いから出ているものです。
 実際に、ナツの私小説の舞台となる主観世界について第3章6節で、旭の視点でのクラス内の世界について今章3節で、千恵の物語世界について同じく4節で触れましたが、それぞれ随分と異なった構造だったと思います。彼女たちは同じ場所で親しく会話しながらも、それぞれ主観的な別世界に生きているのです。
 そして、本作の多くの部分はナツの主観に寄り添っており、内面の描写もほとんどがナツのものです。その中でナツが劣等感から自己否定を繰り返すために、読者はそれに同期してナツをクズだと蔑んだり、あるいは自分に重ねて卑下したりするわけです。しかし、それはナツの主観世界を見ているからそう思うのであって、他の登場人物の内面がもしも描写されれば、ナツと同じように「ふつふつと不満も嫌らしいことも考えてる」(p.211)かもしれません。自分をクズだと思っている人が他にもいるかもしれません。
 このように、自分だけは自分の内面を知っているからつい卑下してしまうけど、他の人の内面にも同じように醜い感情があるのかもしれないというのは、足りなさの相対性の一側面だと言えるでしょう。

 以上のように、『自分の足りなさは誰かにとっての充足かもしれないし、満ち足りているように見えるあの子も何かの足りなさを抱えているのかもしれない』という足りなさの相対性は、物語の基底に流れているテーマです。一人一人はそれぞれの世界に生きていて、その中でそれぞれの不足や不満や欠点や醜さを抱えているのです。
 

《まとめ6》 本作の主要な登場人物には、それぞれ正反対の足りなさを持った相手がおり、不足と充足の条件は人によって違う。それは、一人一人が別の主観世界に生きていて、求めるものが違うからである。このような足りなさの相対性は、作品に通底するテーマである。



7節. 作品世界の重層性

 足りなさの相対性という本作の重要なテーマが最も直接的に語られているのが、藤岡の「私だって欲しいものがたくさんあるけど手に入らない  みんなそうだ」(p.169)というセリフです。それに続く「私らももう少しすれば大人だ 欲しいものは自分の力で手に入れられるようになる  楽しみじゃねえか ちょっと足りなくたって どうだって 楽しんで生きていけるだろ」(同)の言葉は、自分の世界に希望が持てれば主観的な足りなさに苛まれずに生きられるという意味です。足りなさに抗いながらも呑み込んで役割を果たしている藤岡にとって、これらの言葉は自分の人生に救いを見出だすための指針なのでしょう。
 しかしこの場面からは、この言葉を最も受け取るべき人物が疎外されています。ナツです。ナツは、作中で見えている限り誰よりも自分の足りなさに拘泥して苦しんでいます。主観的な足りなさを相対化して見せる藤岡の言葉は、ナツにとっても大きな意味を持ったに違いありません。「私らももう少しすれば大人だ」「楽しみじゃねえか」という未来への希望の言葉を聞かなかったナツが、「未来がせまいよ」(p.211)、「みんな変わっていくよ  私は変われないよ  置いていかないでよ  ずっと一緒にいようよ  ずっとずっとずっと」(p.212)と、未来に絶望し変化を否定するのが象徴的です。
 また、藤岡がこの言葉を発するシーンは、それまで見えていなかった旭と藤岡の足りなさが明らかになる場面でもあります。もしナツがこの場に居合わせれば、満ち足りている人間の代表だった旭と足りなさを満たす強さがあるように見えていた藤岡も、それぞれに足りなさを抱えていたことに気付き、自分の世界が根底から揺さぶられたことでしょう。『私たちだけ何もない』という劣等感に苛まれているナツにとって、みんなが足りなさを持っていることは一つの救いになったはずです。
 ところが、現実にはナツはその場にいません。足りなさゆえに他者を避けて、保健室に逃げ込んでいます。ナツには足りなさの相対性に気付く機会は与えられず、救いは訪れません。千恵が藤岡から希望を手渡され一歩成長していた時に、ナツは一人静かに絶望のさなかにいたのです。
 この第7話において、千恵の成長物語とナツの私小説は、残酷なまでに乖離しています。この2つの面の落差によって、私たち読者の心も引き裂かれ、この作品はより大きな印象を残します。

 また、足りなさの相対性の救いについて考える時には、全ての足りなさが相対的なものではないということにも留意しなければなりません。確かに、一人一人が感じる足りなさは主観世界に存在し、『みんなそうだ』と相対化したり未来に希望を持つことで抗うことができます。しかし作中では、客観的な足りなさについても容赦なく描かれています。
 例えば、藤岡は足りなさを相対化することで受け入れようとしていますが、完全に受け入れられたわけではありません。だからこそわざと不良じみた攻撃的な物言いをしているというのは、第4章4節で見た通りです。それはまた、志恵に関しても同じことです。彼女たちには守るべき妹がおり姉としての役割があるので、足りなさを妥協して呑み込んでいますが、決して理不尽を納得して受け入れてはおらず、ましてや足りなさを消し去ったわけではないのです。
 作中では、志恵と藤岡は足りなさを知っていたから姉として振る舞うことができ、旭は足りなさを知らなかったから望む役割を果たせませんでした。しかし、一般的な観点で言えば、中高生が理不尽な足りなさなど知らない方がいいに決まっています。客観的に見れば、間違いなく旭の方が満ち足りた立場にいます。
 これは千恵にも同じことが言えます。千恵は物語の中で、足りなさを乗り越えて成長しました。とはいえ、足りなさがなくなったわけではありません。客観習慣の不足という性質自体は変わっていないために、志恵の心情を慮れずに物語の最後まで心配をかけてしまいます。
 また、成長した千恵が勉強を頑張ったとして、旭たちのようにテストで90点を取れるかというとまず無理でしょう。ナツの点数に並ぶことすら可能性は低く、「次は夢の30点台だな」(p.81)という旭の言葉が最も現実を捉えたものだと思います。学力だけでなく、金銭的な足りなさも解決してはいません。最終話の後の展開によっては、藤岡家のゲームを使わせてもらったり、志恵に中古のプレステを買ってもらったりはするかもしれませんが、自分でお金を貯めて欲しいゲームを手に入れるという経験はできないでしょう。何より、家庭の経済状況は千恵個人によって変えようがなく、一家で旅行に行ったりなどは今後もないと思われます。
 このように、学力と経済力の足りなさが根本的に満たされない以上、翌年度の高校受験での進路は相当絞られてしまいます。たとえ進学できたとして、志恵のようにアルバイトをして自分でお金を貯めて欲しい物を買えるほどの社会性を身に付けられるかというと、かなり怪しいところだと思います。*7 ナツは「未来がせまいよ」(p.211)と心の中で呟きますが、客観的に見れば千恵の方がもっと未来の選択肢は狭いのです。
 以上のように、足りなさが相対的なものであるのはあくまで各自の主観世界を見るからであって、客観的に比較すれば絶対的な足りなさの序列は厳然として存在します。みんながそれぞれの足りなさを抱えていて同じように悩んだり苦しんだりしているのは本当ですが、それはそれぞれの足りなさが現実に同じ大きさであることを意味しないのです。
 足りなさの相対性は救いとして提示されていますが、現実の足りなさを解決するものではなく、あくまで気持ちを楽に生きるために役立つ世界の見方であり、その意味では慰めと言う方が近いかもしれません。それでも、藤岡と千恵にとっては一つの救いになる考え方でしたし、ナツにとっても、あるいは読者にとっても心を救ってくれるはずの世界観なのです。

 ここまで見てきたように、本作では、掲げられる希望の裏には絶望が存在し、足りなさの相対性という救いの傍らには現実の絶対的な足りなさが横たわっています。明るい面も暗い面もそうあるように描いており、どちらかを否定したり、もう一方を引き立てるためだけに使ったりはしていません。そして、そういった両義性・重層性は、本作の様々な部分を形作る基本構造です。
 まず、千恵とナツ、志恵・藤岡と旭の間の、それぞれの足りなさが反転して対比されている関係はまさに両義性です。足りなさの相対性というテーマそのものが両面的な構造によって表されているのです。
 その相対性の根底にある、各自が別々の主観世界に生きているということも、作品の多面性そのものです。ナツの視点からの景色が多く描かれている本作ですが、その見え方に歪みや偏りがあることも示されています。また、千恵と旭による別の主観世界の形も見て取れることは、ここまでで見てきた通りです。
 そして、この作品全体の構造が、千恵の成長物語とナツの私小説が表裏一体に合わさったものだということは、第3章で述べた通りです。単行本の表紙の真ん中にいる千恵と裏表紙に逆さまに配されたナツが象徴するように、この作品そのものが両面性をもって成り立っているのです。
 このように、本作を形成するいくつもの階層が、多面的・複層的な構造によって支えられています。異なる要素や相反する価値がいずれも排除されず存在するさまは、まるで私たちが生きている現実のようです。だからこそ本作は私たちの心に割りきれない思いを残し、同時に私たちの人生に許しをも与えてくれるのではないでしょうか。
 物語と私小説、客観習慣の不足と過剰、足りなさを知っていることと知らないこと、姉であらずにいられないことと姉になれないこと、登場人物それぞれの内面世界、主観的な救いと客観的な現実、希望と絶望、幸運と不運、そして足りなさと充足。表裏いずれの面も重なり合って確かに描かれている重層性こそ、この作品が私たちを惹き付けてやまない理由なのだと思います。


《まとめ7》 千恵の物語の希望の裏にはナツの私小説の絶望がある。足りなさの相対性は主観的な救いだが、客観的に見れば絶対的な足りなさが存在する。このような、相反する面がどちらも存在する構造は作品全体を形作っており、その重層性こそが本作の特質であり魅力である。



おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 『ちーちゃんはちょっと足りない』について深読みする文章は、ここまでで一旦結びとします。第1章からここまで全部読んだ方には、感謝と敬意と労いを捧げたいと思います。
 今後はもしかしたら、奥島と如月、宮沢や野村の足りなさについて考えた文章や、作中の時系列の整理など、補足やおまけをさらに投稿するかもしれません。その時はまたよろしくお願いします。

 最後に、ここまで私を惹き付けてやまない作品を世に出してくださった阿部共実さんに、限りない感謝を捧げたいと思います。
 ありがとうございます。




脚注(余談)

*1:【謝罪】
 この時の旭の謝罪の半分は、宮沢と野村が千恵を疑ったことは当たっていたのに頭ごなしに否定して怒鳴り付けた(p.114)ことを謝っているのでしょう。しかし、p.171では、「盗んだこと」と「こんなことに巻き込んで」しまったこと、「この前はお前らにも嫌な思いさせて」しまったことをそれぞれ挙げて謝っています。千恵がお金を『盗んだこと』単体で自分が謝るべきことだと旭が考えているのは間違いありません。

*2:【オモチャ】
 大切に思っている相手をちょっかいを掛けてくる他人から守ろうとする時、照れ隠しに『自分のオモチャだから他人には手を出させない』という言い方をする場面は、前作『空が灰色だから』5巻収録の第49話「不謹慎なそれ」にも出てきます。作者が持っている、いわゆるツンデレ的コミュニケーションの引き出しの1つだと言えるでしょう。

*3:【同等】
 客観的に見て千恵は同級生たちよりかなり幼く、旭が世話をして導かなければならない対象として見るのは正しいと言えます。逆に、ナツが千恵を自分と同等に見るのは、第2章5節で見たように少なからず認知の歪みによるものです。しかしそうだとしても、千恵を対等な友達として扱うのがナツだけだというのも確かです。旭は千恵の姉役を演じようと庇護しますし、奥島と如月も千恵のことは世話をする対象として見ています。藤岡が千恵の姉の役目を果たしたのは第4章で見た通りですし、宮沢と野村も多少距離が近付いたところで千恵を対等の友達として扱うとは思いづらいです。結局、正しい認識による正しい行動ではないとしても、対等な友達であろうとしてくれるという意味でナツは千恵にとって無二の存在です。そのことは、千恵がナツを特に大切に思っている理由の1つかもしれません。

*4:【守ったり】
 千恵にとってナツが目的格であることは、時に千恵がナツを侮ってかかることに繋がっているかもしれません。第2話で千恵が『あほ』を演じた時にナツの真似をした(p.46‐48)のがそれです。あるいは、「ナツはいかつい!」(p.104)のセリフにもナツを下に見る気持ちが出ています。これらは、小学1年生の時に願いを口に出せなかったナツの代わりに本を取ってきてやったように、『自分がナツの世話をしてやってる』という気持ちと無縁ではないと思います。とはいえ、千恵がナツを頼りにする場面もたくさんあり、それは千恵も分かっているので、あくまで対等な友達付き合いの範疇で、たまに上から目線が出るような感覚でしょう。

*5:【王女】
 第4章の脚注で参照したウラジーミル・プロップの論での、昔話の登場人物類型の1つ。正確に書くと『王女(探求される者)とその父親』です。つまり、敵にさらわれてしまったお姫様と、『娘を取り戻した者には褒美を取らせよう』とお触れを出す王様のことで、主人公の行動の動機や目的となるキャラクターを指します。要するに『マリオ』シリーズのピーチ姫です。とはいえ、さらわれて取り戻しに行く対象だけでなく、攻めてくる敵から守る対象だったり、恋愛ものであればアプローチして射止める対象もこの類型に当てはまります。少年漫画などにおいてはいわゆるヒロインがこの役割を果たすことが多いため、現代的には『ヒロイン役』という言葉がほぼここで言う『王女』と同じ意味で使われていると思います。どちらも女性を指す言葉であることから、物語の主人公は男性であるという固定観念ヘテロロマンス至上主義的な観念が時代を越えて残っていると言うこともできるでしょう。『主人公にとっての目的格』という意味で言うならば、行方知れずになった父親を探しに行くような物語では、父親が『王女』であり『ヒロイン役』ということになります。

*6:【友達にたかる】
 とはいえ、ナツに「いっつもたよりにしてごめんね  何か私にもできることないかな」(p.105)と言われた時は、「じゃあ 今日  帰りにジュースでもおごってくれよ」(同)と返しており、何かしてあげたことの返礼としてならおごってもらうことも有りだと考えています。お金や物のやりとりには一定のけじめを付けようとするのが旭の考え方なのでしょう。

*7:【社会性を身に付けられるか】
 必要とされる社会性を発達させられずに大人と呼ばれる年齢になってしまった人を描くのが、作者の次作『死に日々』のweb連載第20話「7291」(単行本未収録)です。高校を中退して無職で19歳の、母親以外と上手くコミュニケーションを取れない青年が、母に駄々をこねてバイトの面接に付いて来てもらう姿が描かれます。
こちらから読めます。
https://mangacross.jp/comics/sinihibi/20