深読みの淵

漫画とかを独断と妄想で語ります。

『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みする 第3章.主人公は誰なのか

目次

はじめに

 『ちーちゃんはちょっと足りない』を深読みするシリーズ第3章です。
 第1章と第2章では、南山千恵と小林ナツという主要人物2人の足りなさについて掘り下げました。


 他の登場人物の足りなさについても書くのですが、その前に物語全体の構造についてお話しておいた方が分かりやすいので、第3章ではこの作品の主人公は誰なのかから考えていきます。

 一応言っておきますが、ネタバレありです。
 その他の注意事項は、上の第1章の『はじめに』をお読みください。

 今章の構成は、1節が前提としての余談、2~4節で核心に触れ、5・6節は次章以降に繋がる補足になります。
 ではいってみましょう。



0節. 主人公は誰なのか?

 本作には、中心となっている人物が2人います。ちーちゃんこと南山千恵と、小林ナツです。では、主人公はどちらなのでしょうか。あるいは、2人ともが主人公なのでしょうか。
 もちろん、主人公という概念が明確に定義されているものではないので、断言できる正解があるわけではありません。しかし、主人公というのは、物語全体を考える鍵になってきます。主人公は誰なのかという疑問から考えていき、この作品全体の構造を読み解いていこうと思います。



1節. 2つの誤解

 まず、本作について、インターネット上でたまに見かける2つの誤解に触れておこうと思います。
 1つは、心内語が表現されるのは作中でナツだけである、という理解。内面が読者に分かるように開示されるのはナツだけだという把握の仕方です。
 もう1つは、千恵を『ちーちゃん』と呼ぶのはナツだけである、という理解です。この考え方は、本作『ちーちゃんはちょっと足りない』のタイトルロール*1は『ちーちゃん』と呼ばれている千恵だが、『ちーちゃん』と呼んでいるナツがいわば裏タイトルロール*2である、と発展します。ナツだけが『ちーちゃん』と呼ぶ以上、『ちーちゃんはちょっと足りない』と言っている、あるいは考えているのはナツだというわけです。
 この2つの理解は、どちらも『だからナツが主人公である』という結論に繋がります。最初は千恵が主人公だと思ったが、実はナツが真の主人公だった、という物語の捉え方です。
 この結論自体は単純に的外れだとは言えません。第3話までは千恵の行動が中心に描写されたのに対し、第4話以降にナツの内面が主要な要素として前面に出てくるのは確かです。しかし、その結論の前提となっている2つの理解は、明らかに誤りです。

 まず内心の表現ですが、ナツだけでなく志恵にも存在します。1つが、p.67の「········· これならなんとか······」以下の、自費を出して千恵に靴を買ってやることを決意する思考です。また、p.182‐183にも「ちー  中間ぜんぶ点数あがってたし」以下と、それに続くシーンでの「はっ アラームに気付かず寝過ごしてしまった」の心内語があります。
 次に、千恵を『ちーちゃん』と呼ぶ人物ですが、ナツ以外に如月がいます。p.32の「ちーちゃん  奥島っちになついてるねえ!」は如月のセリフです。また、p.162でお金を返すよう促す時も「ちーちゃん  ねっ」と発言しています。
 2つの表現とも、それぞれ違う場面で2度以上繰り返されています。『例外』として扱うことはできないでしょう。
 ただ、『ちーちゃん』と呼ぶのがナツだけでなくても、作中ではほとんどナツが呼んでいるのは事実なので、それを根拠に『ちーちゃんはちょっと足りない』と思っているのはナツだと主張することはできます。しかし、この裏タイトルロール説もやはり的を射てはいないと思います。なぜなら、第2章5節で見たように、ナツは千恵の自分より足りない部分をあえて見ない傾向があるからです。ナツの感覚に沿うならば『ちーちゃんはちょっと足りない』よりも『私たちは全然足りない』となるでしょう。

 以上のように、根拠となる認識は誤解だったわけですが、『実は千恵ではなくナツが主人公だった』という結論についてはどうなのでしょうか。私はこれについても、事態はもう少し複雑なのではないかと思っています。どのように複雑なのかを説明するために、次節からは改めて誰が主人公なのかを考えていきます。


《まとめ1》 心内語と千恵を『ちーちゃん』と呼ぶ描写はナツにしかないというのはありがちな誤解である。これらの誤解から導かれる『実はナツが主人公だった』という結論も正鵠を射てはいないことをこれから説明していく。



2節. 主人公とは何か?

 さて、主人公は誰なのかを考えるために、まず主人公とは何なのかを考えてみます。とはいっても、『主人公』にきっちり確定した定義はありませんし、世の中には星の数ほどの物語があり、その多くには多種多様な主人公がいます。なので、典型的な物語の主人公について考えてみます。
 典型的な物語とは、問題が起こってそれが解決するというドラマです。神話や民話といった原型的な物語は基本的にこの形に則っていますし、現代において創作される物語の多くもそうでしょう。状況が起こり、発展し、山場において重要な変化が生じて落着するという、いわゆる起承転結の形を取るものです。
 ということは、典型的な物語における主人公は、そのような動的なストーリーを牽引する人物だということになります。問題の発生と解決に同化している者。事を起こし、推し進め、物語の最大の変化をもたらす者。起承転結の転、つまり物語のクライマックスを象徴する者。そういう登場人物こそが、典型的な主人公だということになります。

 それでは、本作の中で、それに当てはまる登場人物は誰でしょうか。
 間違いなく千恵です。
 『事を起こす』という主体性を、作中では常に千恵が担います。はじめは、蜂と戦って刺される、オールキンタマの答案を書く、ナツの真似で奥島にもてようとする、ガチャガチャや靴をねだって九九を叫ぶなど、おかしな行動を起こして日常に些細な事件をもたらします。さらに、お金を盗んでナツに渡したことに加え、盗みを告白する、何も告げずに出かけて帰らない、といった重大な出来事を折に触れて起こし、物語を急速に進展させます。
 また、物語のクライマックスが『状況が決定的に変化し、問題が解決する』場面だとすれば、千恵が盗みを告白して藤岡たちと対峙するシーンこそが本作のクライマックスということになります。この場面で、千恵がお金を盗んだことが確定し、登場人物たちにそれが知られ、藤岡の印象が逆転し、旭と藤岡たちが和解するという多くの変化が起こります。このクライマックスの中心にいるのが千恵です。何より、お金の盗難という作中最大の事件が解決します。『千恵がお金を盗んだ』という問題は、『千恵が反省して謝罪する』という形で解決を見ます。千恵は、問題の発生と解決という物語そのものと一体化しているのです。
 そして、千恵が謝罪できたことは、第1章の8節と9節で述べたように、客観習慣の不足という足りなさの改善であり、大人への成長の一歩でもあります。つまりこの物語は、千恵という主人公が未熟さによって失敗するが、周囲の助けによって改め、未熟さを克服して成長するという、典型的な成長物語なのです。


《まとめ2》 問題の発生と解決という物語と同化し、状況の変化を主体的に牽引している千恵は、典型的な物語の主人公と言える。本作は、千恵を主人公とする成長物語である。



3節. ナっちゃんは何なのか?

 それでは、ナツは主人公ではないのでしょうか。
 ナツは少なくとも、前節で述べたような典型的な主人公ではありません。主体的に物事を起こすことがないからです。物語前半のナツは基本的に、千恵の行動に対してツッコんだり笑ったりする役回りです。物語の転機である第5話の最後でも、千恵がお金を盗んで渡してきたので受け取っただけです。最終話でも、志恵に頼まれたために千恵を探しに出かけ、旭と藤岡たちをただ目撃し、大声で呼ぶこともできなかったところを千恵の方から見つけられています。徹底して受動的で消極的です。
 さらに言えば、ナツは変化を起こしません。状況の変化は主体的に動く千恵が起こしていき、ナツはそれを見ているだけです。唯一ナツが主体的に状況を変えようとしたことでさえ、リボンを付けて学校に行くという程度のものであり、それも実際に何かを変えることはありませんでした。また、物語世界の最大の変化は盗難事件の解決ですが、そのシーンにナツは居合わせていません。千恵はその場面を転機に物語の中で成長しましたが、ナツは客観習慣からくる劣等感を一方的に深めていくだけで、成長や解決を見ることはありません。
 このようにナツは、物語を主体的に牽引することはなく、ドラマのクライマックスから疎外されており、作品世界の変化と同化できていません。ということは、ナツは少なくとも千恵のような、典型的な物語の主人公だと言うことはできません。
 それを踏まえてメタ的に読めば、「私は  変化することが怖くて  衝突することが怖くて  消失することが怖くて」「その場をいい加減にやりすごして誰にも害を与えることすらなくあたりさわりなく生きて」「私は何もしないただの静かなクズだ」(p.211)というナツの言葉は、自分の消極性を吐露しており、まさに自分が主人公にはなれないという独白だと言えます。そう思うと、その後の「ちーちゃん もう帰ってこないの? 未来がせまいよ」(同)という嘆きも、主人公でない自分には主体的に状況を変えられないから、主人公の千恵が戻ってきて未来を切り拓いてほしい、という願いにも見えてきます。

 それでは、私たち読者の多くが抱く『ナツが主人公だった』という感覚はどこからきているのでしょうか。
 それはもちろん、ナツの視点での描写の多さです。前述したように、3つの場面で志恵の心内語表現がありますが、逆に言えばそれ以外の心内語は全てナツのものです。また、言葉による心理の表現だけでなく、p.87のリボンを付けた自分やp.142のリボンを誉められる自分のように、ナツの想像している情景が描かれているコマもあります。あるいは、p.121‐123でナツ自身が真っ黒になって歪んでいくように、心理状態が描写そのものに影響している場面もいくつもあります。そして、これらの内面描写はナツ以外には用いられません。それほどまでに、本作の多くの部分はナツの視点から描かれているということです。
 では、典型的な主人公ではないがその視点から物語が描かれているということは、ナツはいわゆる『視点キャラ』なのでしょうか。
 ここで言う『視点キャラ』は、『視点人物としての役割を最重視されているキャラクター』ぐらいの意味です。視点人物とは、読者・視聴者など物語の受け手が感情移入の対象とし、その人の視点から物語を見ることが意図された登場人物ですね。最も一般的なのは主人公が視点人物を兼ねるというパターンですが、主人公とは別に視点人物がいる物語も多く存在します。その場合、視点を提供することを役割としたキャラクター、『視点キャラ』ということになります。視点キャラはたいていの場合、常人を超越した主人公を受け手と同じ目線で見ることで、物語世界に受け手を没入させる手助けをします。『シャーロック・ホームズ*3シリーズのワトソン医師などが典型例ですね。もちろん、ほとんどの場合、漫画は小説ほど誰の視点で描かれるかが明確ではありませんが、バトル漫画の主人公の強さに驚くパートナーや、ギャグ漫画のおかしな主人公にツッコむ常識人は、受け手が同化できる視座を提供する視点キャラだと言えます。
 本作の場合、典型的な物語の主人公が千恵ですが、第1章で見た通り、千恵の思考の傾向は多くの人には共感しにくいものです。それゆえに、千恵を傍らから読者に近い目線で見て、おかしな行動にツッコんだり逸脱した行動にショックを受けたりする、視点キャラとしてのナツが配置されたと考えるとある程度筋が通ります。

 しかし、それでは納得できないことが2つあります。
 1つは、千恵を見るナツの視線が不足していることです。千恵が藤岡に諭され謝罪するという最大の成長を遂げるクライマックスは、不在のナツの視点を通さずに描かれます。また、千恵がお金を盗む重要な場面も、ナツは目撃していません。ゆえに、千恵が本当にお金を盗んでいたという重大な事実は、ナツにとっては最終盤(p.219)まで未確定でした。あるいは、第3話は千恵を中心に話が進みますが、ナツは終盤まで登場せず、その間に千恵が欲しい物を入手したことを察することもできていません(p.73)。第5話冒頭(p.101‐103)ではナツが千恵に声を聞かれる立場になり、聞かれていたことを知らないという逆転が起こっています。このように、ナツは千恵の物語の重要な部分を見逃し、把握できていません。千恵を見る目を読者に提供する視点キャラとしては、あまりに不十分です。
 もう1つ納得できないのは、千恵を見る以外のナツ本人の視線が過剰だということです。第1話と第2話では、ナツの言動も思考も千恵の行動に対する反応であり、視点キャラと呼べる範疇にとどまっていました。しかし、第4話から自分自身の劣等感や欲望が千恵への視線と拮抗し始め、お金を受け取った第6話以降は自身の不満や不安や否定がナツの描写の主となります。それらの思考の多くが千恵の行動をきっかけとして出てくるのは確かですが、傍らで千恵を見るという立ち位置からは明らかに逸脱しています。
 以上の2点から言えるのは、ナツは視点キャラと呼べるほど作中で千恵に従属した位置にないということです。動的な物語の典型的な主人公である千恵とは独立して、やはりナツももう一人の中心人物なのです。

 それでは、ナツはいったい何なのでしょうか。
 作中人物としてのナツについてまとめると、主体的な行動で物語を動かすことはしないが、内面の描写が非常に豊富で、作品の中心的な人物であるということになります。これに最も相応しい表現は『私小説の語り手』だと思います。*4
 『私小説』という用語には文学史的に定義の争いもあると思いますし、そもそも本作の形式は小説ではなく漫画だというのもありますが、ここでは大まかに『物語世界の出来事よりも、それに伴う中心人物の内面を描くことを主眼としたフィクション』を表していると考えてください。『土佐日記*5私小説である』と言うのと同程度の解像度で、説明をしやすくするために半ば比喩的に使っている用語だと理解していただければ幸いです。
 いずれにせよここで主張したいのは、本作には『千恵が主人公の成長物語』という面とは別に、『ナツが語り手の私小説』という側面が存在するということです。


《まとめ3》 ナツには物語に対する主体性がなく、千恵のような典型的な主人公ではない。しかし、ナツの内面表現が作中で大きなウェイトを占めており、千恵を見るための視点キャラの枠にも収まらない。つまり、本作には千恵の物語とは別に私小説としての面があり、ナツはその語り手である。



4節. 物語と私小説の関係は?

 それでは、本作の中で、千恵が主人公の成長物語という面とナツが語り手の私小説という面は、どのような関係にあるのでしょうか。
 それらは入れ替わりで出てきて繋ぎ合わされているのでしょうか。確かに、千恵が志恵と買い物に行く第3話や盗難事件が解決する第7話は、ナツが出るシーンが少なく、千恵の物語のパートだと言えるかもしれません。また、第8話で千恵に出会うまでにナツが歩き回り思考し続ける描写は、私小説のパートと見ることができるでしょう。
 しかし、第5話の最後の千恵がお金をナツに渡すシーンは、千恵の物語の中で重要なポイントであり、同時にナツの心理の転換点でもあります。また、第8話の終盤は、ナツが一つの救いに帰着する場面であると同時に、千恵の成長も描かれており、2人のこの先を暗示するラストシーンでもあります。つまり、これらの場面では物語と私小説は混ざり合っています。作品の2つの側面は、単純に交代で描かれるわけではないのです。

 それでは、その2つはどのような混ざり方をしているのでしょうか。それを考えるために、千恵の物語がどのような描き方をされているか見る必要があります。
 千恵は常に他者の目を通して描かれます。具体的には、ほとんど他の登場人物と一緒にいる場面しか描かれません。常にナツや志恵や旭たちに見られている状態が描かれるわけです。例外としては、自宅でマジカルラブドラゴンごっこをしているシーン(p.52‐53)は部屋に一人ですが、隣室に志恵がおり、声や物音で千恵の行動を詳細に知覚しているはずです。また、理科の小テスト中(p.20)も千恵を見る視線はありませんが、その時のことを後にナツと旭に報告しており、間接的にその情景は見られていると言えるでしょう。
 千恵が他者の目から描かれているコマは随所にありますが、分かりやすい例を挙げれば「すき───っ!」(p.36)の一コマです。後ろにいるナツの問いかけに振り返って答えた千恵が、ナツの視点から描かれています。見下ろすアングルになっているのも、2人の身長差によるものです。また、p.183の5コマ目と7コマ目およびp.184の1コマ目の出かけていく千恵の姿も、明らかに志恵の視点を意図して描かれています。
 このように千恵は他者の視点から描かれるわけですが、千恵からの視点が描かれないわけではありません。例えば、p.20の3~5コマ目、小テストの膀胱の図に寄っていく絵は、明らかに千恵の視界を表しています。また、p.157の2コマ目も、前後のコマの流れと見上げるアングルからして、千恵から見た奥島を描いています。千恵を見る視点ほど多くはないものの、千恵が見ている視点に寄り添った表現もあるのです。ただし、千恵の目からのコマは視界が狭いという特徴があります。小テストを見る視界は膀胱にフォーカスしていって広がることはありませんし、奥島のコマも顔のアップです。先ほど例に挙げたナツや志恵から見た千恵はほぼ全身が描かれており、背景も入っているコマが多いのと対照的です。このことは、千恵が常に他者からの視点で描かれる理由と繋がっています。
 そもそも、漫画のコマには大きく分けて2種類あります。神の視点からのコマと、登場人物の視点からのコマです。神の視点からのコマは、第1話最初のp.4の1コマ目のような風景のコマや、第1話の最後(p.24の3コマ目)と第8話の最後(p.224の3コマ目)のように登場人物を遠景で捉えたコマが代表的ですね。誰もいない場所に作者が視点を仮定して描いたコマです。もう1つの登場人物の視点からのコマは、先ほどまで代表的な例をいくつも挙げました。しかし、その2種類の中間として、形式上は神の視点だが実質は登場人物の視点というコマがあります。要するに、登場人物が自分を外から見ているコマです。
 例えばナツは、自分の姿を想像できます。リボンを付けた自分(p.87)やリボンを誉められる自分(p.142)のコマがそうですし、過去の回想も昔の自分の姿を想像していると言えます。つまり、外から見た自分の姿をイメージできるというわけです。ということは、現実に起こっていることを描いたコマでも、ナツが今の自分の状況を外から想像した絵であるということがあり得ます。その根拠としては、ナツの精神を反映して自身の姿が変形する描写があります。お金を受け取る時(p.121‐123)やリボンを捨ててしまった後(p.149‐150)に、ナツが黒くなって歪んでいくのが分かりやすい例です。これは神の視点からのコマではなく、自己イメージが歪んでいくのをナツが見ているのです。
 だとすれば、他の日常的なナツ自身が描かれているコマも、ナツが自分を含めた情景を外側から想像して見ている絵かもしれません。例えば、p.96‐97の見開きはナツが自身を含む風景を外部から想像したものであることは、第2章の9節で見た通りです。あるいは、ツッコミを入れる時のナツも自分を外から見ていると思います。「ブブ──ッ なんで全部同じ答えなの!?  ちーちゃんは心臓が3つあるって化け物かなにか?  っていうか心臓答えにないし!」(p.19)や「死んでなお殺される幽霊が不憫だな──」(p.120)のような場面では、自分の言葉がどう聞こえるかをよく想像して文章を整えており、同時にツッコミ役という自分のその場での立場を意識しています。これらのコマは、『千恵にツッコミを入れている自分』をナツが外から見ている絵なのです。以上のように、ナツ視点であればナツ自身を外から見た描写ができます。それは当然、ナツの客観習慣の強さによるものです。
 ということは、客観習慣の不足している千恵の視点では、自分自身を外から見る描写はできないということです。また、千恵視点のコマに視界が狭いアップが多いのも、習慣的に主観が優勢であるために、注意を引かれた対象にどんどん集中してしまい、周囲を広く客観的に見ることができないと考えられます。さらに、千恵は客観習慣の不足のため言語能力が低いという点と、それゆえにナツのように整理された心内語表現はできないだろうことも、第1章の7節と第2章の9節で触れました。他者との会話によって整理されなければ千恵の言葉は人に伝わる形にならないということです。以上のことから、千恵が誰からも見られずに一人でいる場面がもし描かれるとしたら、完全に神視点の遠景のコマと千恵視点で見ている物がアップになっているコマを行き来し、心内語は書かれないかごく断片的で、何を考えているのか伝わらないということになります。
 これでは、状況も心境も十分に描写するのは難しいでしょう。千恵には誰かといる場面しかないのも頷けます。つまるところ、千恵は客観習慣の不足のために、誰かの目を通してしか描かれないのであり、千恵の成長物語は他者の視点で語られるということです。言い換えれば、千恵に関わる人物みんなが千恵の物語における視点キャラなのです。
 では、千恵の物語を見る視点を提供する役割に最も適格な登場人物は誰でしょうか。ナツです。客観習慣が強いナツは、千恵と自分がいる状況を外から見る視点を持てますし、会話で語られなかった部分を心内語で補足でき、主観に沿って主体的に動く千恵に受動的に反応する役にぴったりはまります。実際、千恵の行動を見る役目は、志恵や旭たちが担っているシーンもありますが、ナツが最も長く果たしています。千恵の成長物語においては、みんなが主人公を見る視点キャラを務めますが、その中でも最も重要な視点役がナツだということです。

 それでは、ナツの私小説の側から見れば、千恵はどんな役割を果たしているのでしょうか。
 私小説は、現実に起きる出来事よりも語り手の内面に起きる心境に重点を置いて描かれます。本作中のナツの心は、旭、奥島と如月、藤岡と宮沢たち、志恵、母親、あるいはリボンやさるぼぼなど、様々な人や物に触れて揺れ動きます。しかし、やはりナツの内面に最も大きな影響を与える存在は千恵です。千恵がお金を渡したことはナツの心を最も大きく揺らして影響が残り続けますし、最終第8話のナツの思考の氾濫も、千恵の失踪をきっかけに始まり千恵の帰還で鎮まります。ナツが繰り返し『私たち』と思考に上らせるのも、いつも千恵と自分のことを考えている証でしょう。
 外的な物事に応じて語り手の内面で起きる現象を描く私小説において、千恵の存在は最も重要な刺激であるということです。現実の状況の変化を伴う動的な物語の主人公である千恵ですから、最も強く心を揺さぶる刺激をもたらすのは当然のことだと言えるでしょう。

 以上を総合すると、千恵が主人公の成長物語にとっては自身を見て語る存在としてナツが最重要であり、ナツが語り手の私小説にとっては自身が見て心動かされる対象として千恵が最重要だということになります。これはつまり、千恵とナツの両方が登場する全てのシーンは、ナツの視点から見た千恵の物語であると同時に千恵について思うナツの私小説でもあるということです。
 このように、物語と私小説という本作の両面は、見る/見られるという関係で不可分に接着され、お互いの存在がお互いが成立するために欠かせないものとなっているのです。


《まとめ4》 千恵が主人公の物語は他者から見られることで成立するため、視点を提供する者としてのナツが必要である。ナツが語り手の私小説では、見ることで心境が動く対象として千恵が重要である。このような形で千恵の物語とナツの私小説は表裏一体に結び付き、お互いを必要としている。




5節. ナっちゃんの内面表現

 千恵の物語とナツの私小説が一体になっているとはいえ、千恵の物語も多くの部分がナツの目を通して描かれているということは、本作の大部分がナツの視点で語られているということになります。この節と次の節では、作品内の多くを占める『ナツから見た世界』についてより掘り下げてみようと思います。
 まずこの節では、ナツの心理が表現されている色々な描写を見ていきます。これによって、ナツの内面が作中でどれだけのウェイトを持っているのか分かるはずです。

 まず、最も分かりやすいのが心内語です。1節で触れましたが、ナツ以外の心内語表現は、志恵が3シーンで合計吹き出し9つ分だけです。それに対し、ナツは第3話を除く全ての話に心内語があり、吹き出しの数にして200を超えます。それだけ多くナツの心中は言語で表されているのです。
 また、吹き出しに入らないモノローグもいくつかあります。それらは、ナツの心中の言葉が吹き出しの中だけに留まらず、ナツの主観的な世界全体を支配するほど溢れ出ていることを表します。具体的には、「ちょっとくらい  ちょっとくらい  恵まれたっていいでしょ私たち」(p.140)や「こんなんだからちーちゃんもいなくなるんだろうなあ」(p.213)、および「なんで なんで」「私なんかに そんな顔して かけよってくれるの」(p.215)が該当します。いずれも、ナツの感情が特に高まった言葉であるのが分かります。
 その他に内面の言語が外界の描写と関係している表現として、ナツの視界に心内語の吹き出しがあるコマがあります。この表現には2種類あり、1つ目は「あっ  ちゃんと恥ずかしいんだ」(p.23)のように、コマの外側から吹き出しの足が出ているものです。これは、そのコマの情景をナツが目で見ながら頭で思考しているという一般的な表現です。
 もう1つが、視界に映る物や風景から吹き出しが出ている表現です。*6 例えば、掛け時計から「やっと放課後だ」(p.154)という吹き出しが出ているコマでは、時計という対象を見たことによってこの思考が引き出されたことが強調されています。この表現が出てくるのはナツの内面表現が深まっていく第6話以降で、初めて使われるのは「貧乏は罰なの?」(p.129)の吹き出しがさるぼぼから出ているコマです。そこから続く「わがままなのはわかってるけど 別にたった400円のお願いくらい 叶えてくれたっていいじゃない」以下(p.131)のコマも含め、時計の例と同じく、さるぼぼを見たことで、思考と記憶が否応なく引き出されたという表現です。その後の1000円札から出る「2人だけの秘密だよ」(p.132)も、お金を見たことで思わず昨日の自分の言葉が思い出されてしまったシーンですね。
 これらは個別の物を見て浮かんだ思考がその物からの吹き出しで表されていますが、他にナツが見ている漠然とした風景から吹き出しが出ているコマもあります。それが、p.210の2コマ目からp.211の4コマ目までですね。内面に溢れる自己否定の言葉が、ナツの見ている景色に重なって表されます。これらは、見た物に思考が誘発されたわけではありません。むしろ、目に映る風景よりも自分の物思いが大きすぎて、現実味がなくなっている感覚を表しているものだと思います。思考が肥大しすぎて、思考している今の自分を意識することすらできなくなっているのです。
 いずれの場合にしろ、ナツが見ている情景から吹き出しが出ている表現は、思考している自分への認識が薄く、見ている自分と見られている客体との境界が曖昧になっている状態を表していると言えます。

 言語以外のナツの内面の表現としては、心に浮かんだイメージを描いたコマがあります。すでに2度言及しましたが、リボンを付けた自分のイメージ(p.87)とリボンを誉められる自分のイメージ(p.142)が代表的です。これらはいかにも『想像してみた』感じで、現実感の低いタッチで描かれています。他にも、千恵にお金を差し出された時の、欲しい物が降り注ぐ海辺で笑う『満たされた私たち』のコマ(p.123)は、ナツのイメージです。前2つの意図的に思い浮かべた想像と違い、反射的に強く思い浮かんだイメージだったためか、現実のコマに近いリアリティがあるタッチです。また、「ずっとそっちに行きたかったんだね 旭ちゃん」(p.203)のコマもナツのイメージです。おそらく、以前に背を向けたまま「悪い  今日は1人で帰らさせてくれ」(p.118)と言った旭を思い出していたのでしょうが、その場にいない旭の姿を思い浮かべています。視覚的イメージと心内語の双方が合わさって、ナツの内面を表しているコマだと言えるでしょう。
 さらに、前節でも触れた通り、回想シーンもまたナツの心に浮かんだイメージだと言えます。p.85の4コマ目とp.94‐95では、小学1年生のクラスで千恵と初めて会話した日を思い返しています。また、p.129‐131では、小学3年生の時の家族旅行を思い出します。この2つの回想を比べると、前者は背景の描線が曖昧でナツと千恵以外のクラスメイトが黒塗りなのに対して、後者は背景が詳細でしっかりしており、周りの子供たちもちゃんと描かれています。ナツが「小学1年生のときに初めて同じクラスで喋ったんだっけ」「話しかけてくれたことがすごくうれしかったんだったかな」(p.95)と考える通り、前者の方が記憶が曖昧なのが分かります。後者の方が2年分成長しており最近であることはもちろん影響しているでしょうし、もしかしたら、手に入った『ふしぎの国のアリス』よりも、手に入らなかった光るおみくじの方がナツにとっては印象に残ったのかもしれません。
 この2つの回想に関しては逆に言えば、5年前の小学3年時のこともかなり詳細に思い出せるということです。他のイメージ描写と合わせると、実際に見た情景や強いイメージは高いリアリティをもって想像できるということが言えます。これは、前節の『ナツが描かれている日常的なコマの中にも、現在の自分を外から想像で見たナツ視点の絵がある』という論点を補強するものでもあります。

 ここまでは、原則的にナツの心中のことを心中のものとして表している描写です。内面の描写は一応は外界と峻別されています。しかし、前述したように、ナツの心理は世界の描写にまで影響を及ぼします。
 その一つとして、ナツのイメージが現実の情景に重なる表現があります。千恵を探し歩くナツがいる風景に、ナツの記憶の中の2人が現れる一連のシーン(p.197‐199)ですね。これまで見た場面ではコマで分かたれていた、現実の情景とナツの内面のイメージが重なって存在します。
 その他にナツの内面が外界の描写に侵食する場面と言えば、歪んでいく視界の表現です。藤岡たちと遊んでいる旭を見た後、p.202の小さく挿入された5コマ目でタイル目が歪んでいくことで、視界が揺らぐほどの動揺が表されます。さらに自己否定が深まるにつれて、p.203の1,2コマ目へと、どんどん視界が歪んでいきます。あるいは、歪む視界とナツ自身が共存するコマもあります。「何か足りないものはないの?」以下(p.146)のコマです。これは、歪んだ世界の中にいる自分という自己認識が反映されている場面です。
 心理面の異変がナツ自身に反映される描写もいくつもあります。多いのはナツが黒く塗り潰される表現でしょう。*7藤岡がお金を探していると聞き動揺する場面(p.147‐148)や、渦巻く自己否定に溺れる時(p.210‐212)など、ナツの感情が暗く沈んでいくのを表しています。また、強い動揺の表現として、千恵の差し出すお金を見る場面(p.122‐123)のように真っ黒になった上で歪んでいく場面もあります。自己認知の歪みが表れています。さらに、自身が黒く歪む上に背景も歪んだり描線がガタガタになったりするシーンもあります。p.121の6コマ目「ち」や、保健室のベッドで絶望に苛まれるシーン(p.150)、あるいは思考が自殺の想像まで行き着くシーン(p.178‐179)もそうです。自己と世界の両方に対して認知が歪んでいくわけです。その極致が「ちーちゃんが旭ちゃんに言ったんだ  絶対そうだ」のコマ(p.177)で、全ての形が崩れています。お金のことがバレたという極度の恐怖で世界と自身が崩壊しているのです。

 以上のように、ナツの心理表現が大量にあるだけでなく、ナツの内面に結び付いた形で世界が描写されている場面が多いこともお分かりいただけたと思います。これこそ、本作の片面がナツの主観的な内面を描き出す私小説であることの証左だと言えます。
 同時に、客観習慣の過剰ゆえに普段から自分の言動と思考を対象化して認識しているナツだからこそ、主客の曖昧化や自己認知の歪みを心理の変動として描くことができるとも言えるでしょう。ここにも、前節で述べた『自身の中では主観が優勢なために他者が見る客観視点で物語が語られる千恵』と、『自身の中では客観が優勢なために自分の主観視点を中心に私小説を語るナツ』という対比関係が成立しています。


《まとめ5》 ナツの心中は言語やイメージでとても頻繁に語られているのみならず、ナツの内面が外界の描写にも影響を及ぼしている。本作のそれほど多くの部分がナツの主観的な視点で描かれており、ナツはやはり私小説の語り手と呼ぶに相応しい。



6節. ナっちゃんの世界

 さて、本作の多くの部分がナツの視点に沿って描かれていることを再確認しましたが、それでは、ナツの目から作中の世界はどのように把握されているのでしょうか。言い換えれば、本作の半面であるナツの私小説は、どのような舞台の上で展開されているのでしょうか。この節ではそれを見ていきます。

 それぞれの登場人物がナツにとってどんな意味を持っているか見てみましょう。
 ナツにとっての千恵は、第2章の5節で書いたように、自分と同じく足りていないと思っている相手です。同時に、いつも一緒にいた友達で、最後まで側にいて肯定してくれる相手でもあります。どちらの観点でも、『私たち』として自分と同一化して安心を得る存在だと言えます。
 次に、ナツにとっての旭はどんな存在でしょう。
 ナツから見た旭は全てを持っています。満ち足りている人間の代表だと言えます。それゆえに、近くにいることも相俟って、ナツは旭に強い羨望を抱いています。同時に、「やっぱりすごいねー  旭ちゃんは」(p.117)に表れているように、そんな旭と同じグループにいることがナツにとっての自己肯定感に繋がっています。休日に電話が掛かってきた時に「! もしかして旭ちゃんかな!?」(p.190)と飛び起きた時のナツの明るい顔が、いかに旭に執着しているかを物語っています。ナツは漠然と『みんなに評価されたい』と思っていますが、その『みんな』の代表が旭だと言えます。ナツは千恵に対してはリボンを見せびらかして「私をみて」(p.137)と言えますが、旭には「旭ちゃんもリボン  何も言ってくれないな」(p.144)と思っても自分から言えません。旭に対しては冗談めかせず本気の言葉になってしまうのが分かっているからでしょう。
 それほどに羨望と執着を持っているからこそ、旭が自分から離れて行ったと思った時にはそれらが反転して、「本当  旭ちゃんは卑怯だよ」(p.203)という嫉妬と、「本当は私みたいなつまらない人間なんかと一緒にいたくなかったんだよね  旭ちゃん」(p.202)という自分が否定された感覚になるのです。いずれにしろ、ナツにとっての旭は、最も足りている存在であるがゆえに、強い感情を向ける対象だということになります。
 このような複雑な旭への感情がよく表れているのが、p.83の会話です。ナツの誘いを「先約があるんだわ  すまん」と断った旭に、「なんか最近  旭ちゃん遊んでくれないね  先週の日曜日もゴールデンウィークも··· なんかあったの?」と尋ねます。ここには当然、旭に相手をしてほしいという執着が含まれています。しかしそれだけではなく、恋人ができたから付き合いが悪くなったのかと聞きたい気持ちが『なんかあったの?』には入っています。そのことは、旭が「ああ  家族旅行でグアム行ってきたんだよ」とナツの意図とは違う答えを返した後に、水沢からもらったであろう旭のリボンがアップになるコマがあることで示唆されています。ナツは以前に旭が3年生の水沢といるところを見かけましたが、声を掛けることはしませんでした(p.41)。その翌日も、そのことについて旭に聞こうと思うも結局は黙ったままでした(p.45の3コマ目)。しかし、ずっと気になっていて、機会を捕らえてそれとなく尋ねたわけです。この態度には、自分には恋人がいないのに旭にはいるという隔絶感がまずあります。同時に、自分には男子と付き合っていることを話してくれないのかという嫉妬のような感情と、旭から話さないなら自分から聞いて気まずくなったり嫌われたりしたくないという、空回りする気遣いと執着があります。海外旅行に行っていたという返答からまた別の劣等感を膨らませることも含めて、ナツから旭への色々なものが入り交じった情緒が滲み出るようなシーンだと思います。旭と水沢の交際に関連してこのような錯綜した感情を抱いていたからこそ、旭から水沢といたところを見ていただろうと言われたナツは、反射的に「えっ! 知らないよ!  そんなの!」(p.118)と無意味な嘘をついてしまったのでしょう。
 それでは、奥島と如月に対するナツの感情はどうでしょう。ナツにとってはこの2人も間違いなく足りている側です。旭に「ナツはえらいあの2人をかってるな」(p.110)と言われるように、高く評価しています。しかし、旭と千恵にこの2人が加わって昼食を食べている時は「変なメンツ」(p.145)と考えているように、旭に対するほど仲良くなりたいと思っているわけではないようです。
 次は藤岡について考えてみましょう。ナツは藤岡に対して、第2章の6節で触れたように、恐怖心を抱く一方で羨望も感じています。恐怖心は、もともと藤岡たちに持っていた印象が、藤岡がお金を盗んだ犯人を捜していることで増大したものです。「ばれたら学校にこれなくされちゃうのかな」(p.150)というレベルまで恐怖は肥大し、反動で攻撃性にまで変換されました。一方の羨望は「どうせ万引きとかカツアゲで手に入れた金であんなに学校でえらそうな顔できてうらやましいよ」(同)と、変わらず藤岡への認知は歪んでいますが、『うらやましい』という言葉の選択自体は本音でしょう。ナツからは藤岡が、自分の足りなさを手段を選ばずに満たす強い力を持った人間に見えているはずです。
 さて、宮沢と野村はどうでしょう。ナツは彼女たちを積極的に認識していません。ナツの思考が彼女たちに及ぶのは、グッズショップで会った時(p.86の2コマ目)と、旭が藤岡たちと遊んでいるのを見た後(p.202の3コマ目)に、「藤岡さんたち」と総称するだけです。お金を受け取ったのがバレる恐怖が増大するに従って藤岡に忌避感と敵意が集中していった節があり、宮沢と野村はおそらくナツには『藤岡の取り巻き』くらいにしか意識されていないと思います。しかし、「藤岡さんたちだ  同じクラスだけどちょっと怖くて苦手だな──」(p.86)とグループに対して考えているので、藤岡へのものと同方向の恐怖と敵意と羨望を覚えていると考えていいでしょう。

 ここまでが、クラス内の登場人物に対するナツからの見え方です。人物が3つのカテゴリーに分けられることが分かると思います。1つ目が旭・奥島・如月という、ナツから見て全てを持っている、いわば『優等生』組。2つ目が、足りなさを自ら満たす力を持っている、藤岡・宮沢・野村の『不良』組。実際は不良でもそんな力があるわけでもないのですが、あくまでナツにはそう見えています。3つ目は『私たち』ことナツと千恵、p.135のナツの言葉を借りれば『下部組』です。
 ここで面白いのが、ナツが強い感情を向けているのは各カテゴリーの中のそれぞれ一人だけだと言うことです。優等生組の中では旭に強い羨望と執着を抱いていて、不良組の中では藤岡に恐怖心と敵意、羨望が集中しており、『私たち』の中ではもちろん千恵に同一視が向いています。さらに、奥島と如月に向ける感情は旭に向けるのと同じ方向性のものであり、宮沢と野村への感情は藤岡への感情の弱まったものです。ということは、ナツの心の動きを描く私小説は、語り手のナツと同胞の千恵、その外部に旭と藤岡という4人がいれば、最低限成り立つということです。
 しかしここで重要なのが、旭と藤岡の両方に対してナツは羨望の気持ちを持っていることです。羨望が変化した劣等感は、ナツの内面が語られる上で中核となる情動です。これを描こうにも、もし登場人物が4人だけだったら、『私たちが普通で、旭ちゃんは運良く全てを持っていて、藤岡さんはたまたま強い』となってしまい、劣等感が育ちません。そこで、旭と藤岡それぞれと同じ属性の登場人物を2人ずつ出してカテゴリーを作れば、『私たち』は『優等生』と比べても『不良』と比べても2:3で少数になり、『みんなは満ち足りていたり満たす力を持っているのに、私たちだけが足りないし強くもない』という形で劣等感を醸成できるのです。奥島と如月、宮沢と野村は、千恵の物語においてはストーリーを進めるための役割がありますが、ナツの私小説の中では、多数決でナツを負かすための最低限の人員として作者に用意されたキャラクターだと言えるのです。*8

 さて、ナツの内面でのクラスの構図が見えたところで、学校の外の人物についてもナツからの見え方を考えてみましょう。
 志恵はナツにとってどう見えているでしょうか。この2人はかなり親しいです。同じ団地住まいで幼馴染みと言っていい間柄であり、接点も多くお互い気を遣わずに喋れます。しかし、志恵からの電話を受けたナツは「なんだ 志恵ちゃんか」(p.190)と素っ気ないです。ただ、この時は旭からの遊びの誘いを期待したので仕方ないとも言えます。
 ところが、ナツが他の人物にはしているのに志恵にはしないことがあります。それは自分との比較です。何度も述べたように、ナツは自分と他者の境遇や能力を比べてしまう習慣が付いています。でも志恵と自分を比較して考える描写はありません。志恵はアルバイトして自分の使えるお金を得ており、スマートフォンも持っているのにです。高校生の志恵と自分は前提となる状況が違うという考えはあるのでしょうが、いずれにしろナツは、物理的な距離が近い割りに志恵に興味と注意を向けていないと言えます。
 もう1人学校の外の人物として、ナツにとっての母親を考えてみようと思います。第5話冒頭では母親に駄々をこねるもお小遣いを前借りできず、「お母さんなんて大っきらい!」(p.102)とまで言っています。しかし、翌々日の朝に学校を休む時(p.128)には普通に会話しており、さほど険悪な雰囲気を引きずっているようには見えません。ところが、その翌日にお金を受け取ったことがバレたと思ったナツは「みんな私を嫌いでしょ  後悔すればいいんだ  ちーちゃんもお母さんもクラスメイトも」(p.179)と、約束を破ったと思い込んでいる千恵と並べて母を呪います。おそらく『お母さんがお金をくれていればこんなことにはならなかったのに』という理屈が働いているのだと思いますが、学校での出来事によって二次的に母親への感情が左右されています。
 もう一つ言えば、ナツの母は作中で姿が描かれず、セリフと手紙の書き文字以外で登場しません。『ティーンエイジャーたちの間での出来事と感情を描いた作品だから大人は意図的に描写されていない』という考え方もありますが、それにしては、アパレルショップの店員(p.66‐)も、明らかに私小説側に寄ったシーンであるナツが教室に入る時(p.142‐143)の理科の先生も、しっかりデザインされたキャラクターとして登場しています。これはまたメタ的な読み方になりますが、ナツが語り手の私小説において母親の顔や姿が登場しないという事実から、ナツは自分の母を関心や感情を向ける相手として重視していないと考えるのは自然だと思います。

 このように、ナツの内面での志恵と母親の比重の小ささを考えると、ナツの感情は学校の自分のクラス内に優先して向いているのではないかと考えられます。
 実際に、作中でのナツの行動は、学外においても全てクラスメイトと関係しています。例えば、第3話でジョスコに行ったナツは一人で買い物か何かをしていたはずですが、千恵と出会うまでの行動は描かれません。グッズショップにも千恵と行き、藤岡たちと出会います。第8話は一人で行動しますが、千恵を探すのが目的であり、途中で旭と藤岡たちを見かけて心を乱されます。家にいる時も、学校での事件に引き出された思考を繰り返しています。「もう学校には誰もいないな  みんな大嫌い あーあ 学校行きたくないな 誰とも遊べない日曜は退屈で仕方ないけど  それでも月曜日なんて永遠にこなければいいのに」(p.190)と、日曜に自室で一人横たわりながら考えているのが象徴的です。
 このように、ナツの世界は決定的に、2年6組のクラスの枠の中に存在しています。これは、海外へ旅行に行ったり他学年に恋人ができたりしている旭や、部活で活躍しながらも家族を支えることを自分で選択した藤岡、あるいは自分の好きなもののために一人で遠出した千恵と対比的です。ここに来てやっと、第2章3節で指摘した、母親と志恵に対してナツの客観性が機能していない場面がなぜ起きたか説明できます。ナツにとって重要な社会は自分のクラスの中であり、その外にいる人間に対しては思考と感情のリソースを積極的に割かないため、客観的に内面を想像する習慣が働きにくくなるのです。もちろん客観習慣の過剰はナツ自身の性質なので、「お母さん  こんな一人娘でごめんね」(p.208)、「志恵ちゃんが私のことをいい人って言ってくれたんだ でも違うんだ」(p.209)に表れているように、学校の外の人物に関心を向けることはあります。*9 しかし、自分と比較して羨望や劣等感を持ったり、評価されて肯定されたいと執着したりするのは、クラスの枠の中にいる相手だけです。少なくとも作中においては、ナツの思考と感情はクラスの人間関係の範囲内をぐるぐると動き回るのです。*10

 ここまでを総合すると、『私たち』よりも満ち足りているか力を持っている人間しかいない教室の中だけが、ナツにとって重要な世界だということになります。つまり、ナツは初めから『私たち』以外に漠然と羨望を向けているのです。
 作中では羨望が生んだ劣等感や自己否定が増大していき、最後には千恵との関係に閉じ籠ることになりますが、ナツの世界の構造自体は最後まで変わることがありません。ナツの内面を描く私小説は、ナツの中にある2年6組の教室の中で変形しながら蠢き続けますが、教室の壁を突き破って外に飛び出すことはないのです。ナツが語り手の私小説は、世界の構造を広げることも変えることも壊すこともなく、主人公として自分と世界に変化をもたらした千恵の成長物語と大きな対比を形作っています。


《まとめ6》 ナツは、旭たちを満ち足りている存在と見なし、藤岡たちを足りなさを満たす力を持った存在と見なしており、いずれも千恵を含めた『私たち』より恵まれていると考えている。そして、クラスの内側の人間関係だけを重視している。そのようなナツにとっての世界の構造は最後まで変化せず、ナツの心境を描く私小説はその狭い内面世界の中で展開されている。

図:ナツの認識する世界
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おわりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 自分なりにこの作品の構造を説明してみました。
 最後の2つの節でナツの私小説の構造説明をしたのは、ここ以外でこの内容を入れるところがないと思ったからです。逆に、千恵の成長物語のより詳しい構造は、次章以降で他の登場人物の足りなさを説明する中で徐々に明らかになるでしょう。それこそが、『主人公は誰か』という話をこの章で先にした理由でもあります。
 
 ここから先は、第4章で志恵と藤岡の、第5章で旭の足りなさについて考えていきます。
 次回、志恵と藤岡の第4章はこちらになります。またよろしくお願いします。




脚注(余談)

*1:【タイトルロール】
 物語のタイトルに名前や呼び名が含まれる登場人物のこと。『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』『ゴルゴ13』『スーパーマン』『ハリー・ポッターと賢者の石』『ロミオとジュリエット』など、タイトルロール=主人公であることが圧倒的に多いですが、金田が主人公の『AKIRA』、則巻アラレが主人公の『Dr.スランプ』、実質的にバカボンのパパが主人公の『天才バカボン』など、タイトルロールだからと言って必ずしも主人公だとは限りません。

*2:【裏タイトルロール】
 例えば、『青野くんに触りたいから死にたい』(椎名うみ)では、タイトルロールは『青野くん』ですが、『青野くんに触りたいから死にたい』と考えているのは主人公の刈谷優里です。優里の名前はタイトルに含まれていませんが、タイトルの内容は優里を指すものであり、裏タイトルロールだと言えます。同じように、『女子高生に殺されたい』(古屋兎丸)の主人公・東山春人も裏タイトルロールだと言えるでしょう。その意味では、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(谷川ニコ)の主人公・黒木智子や、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(伏見つかさ)の主人公・高坂京介なども裏タイトルロールですが、タイトル中の『私』『俺』がそれぞれそう考えている主人公を指しているため、まず通常のタイトルロールの範疇であると言えます。

*3:シャーロック・ホームズ
 イギリスの小説家コナン・ドイル(1859–1930)の手による、おそらくは世界一有名な古典的推理小説。主人公の探偵ホームズの謎解きに読者と一緒に驚いてくれる視点役として、ジョン・ワトソン医師が語り手を務めます。ここから、推理ものの物語において、探偵役の推理の過程を読者に近い目線で見る登場人物を指す『ワトソン役』という用語が生まれました。

*4:私小説
 作者・阿部共実さんの極めて私小説的な作品として、本作完結の半年後に季刊漫画誌『もっと!』(秋田書店)に掲載された短編「どうせ幽霊は僕だけを殺してくれない」(単行本未収録)があります。おそらくは過去の作者だろうと思わせる漫画家志望者が自己否定を繰り返しながら壊れていくという内容です。ナツが繰り返すものと部分的に重なっている、足りない自分への否定と持っている他者への羨望が連ねられています。主人公の感情に合わせて身体描写が歪んでいっており、作者の思ったことをそのままアウトプットしたエッセイというよりは、語り手の内面を表現することを重視した私小説に近いと思います。ただ、作者は自分の経歴や私生活をほとんど明かしていないので、どこまで事実に準拠して描かれているかは想像するしかありません。

*5:土佐日記
 平安時代の貴族・歌人である紀貫之によって、10世紀に成立した日記形式の文学作品。作者の貫之が土佐から京へ帰る道中を描いています。貫之は男性なのに語り手を女性と設定して書いていることをはじめ、現実の出来事に脚色や虚構が入り交じる内容です。加えて、語り手の心情を表現することに重きを置いており、後の世で言う私小説の概念に当てはまる部分が大きいと言えます。

*6:【物や風景から吹き出し
 この表現は、作者・阿部共実さんの特徴的な手法です。次作『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々(死に日々)』(秋田書店)の2巻に収録されている第18話「8304」と第20話「7759」ではこの表現がさらに研ぎ澄まされ、両作において入り交じっている登場人物の内面世界と外界の風景を繋げる役割を果たします。

*7:【黒く塗り潰される】
 登場人物が真っ黒の影のようになるのは、作者の多用する表現です。前作『空が灰色だから(空灰)』でも、ネガティブな感情や極度の動揺、あるいは登場人物の思考や状況が読者の理解を絶していることを表す手段として、何度も用いられました。それに対して、キャラクターの輪郭が大きく歪んだり描線がぶれたりする手法は、『空灰』などではあまり使われておらず、本作に特徴的な表現だと思います。

*8:【多数決】
 このような、限定範囲のために少人数の動向によって決まってしまう『多数決』は、作者の前作『空が灰色だから』の3巻第29話「少女の異常な普通」でテーマとして取り上げられています。また、(2019年時点での)最新作『潮が舞い子が舞い』(秋田書店)の第1話「潮が舞い込む海のそばの田舎町」においても似た考え方が使われており、作者が繰り返し描いているモチーフの1つだと言えるでしょう。

*9:【学校の外】
 第2章9節で触れた、町の風景を眺めたことで救いを得た場面も、ナツが学校の外の世界に目を向けた事例だと言えます。ただし、その救いでは足りなさへの不満を抑え続けられなかったことも、そこで述べた通りです。

*10:【クラスの人間関係】
 ただ、地元の公立校に通う中学生の世界が自分のクラスの中だけに留まることは、決して珍しいことではないし必ずしも悪いことでもないと個人的には思います。現代の日本の義務教育は、基本的に所属クラスの範囲だけで学生生活が完結できるようにデザインされています。とはいえ、ナツのように他者からの視線を特に気にしてしまう子は、複数の場所に自分の世界を広げた方が楽になれるとは思います。しかし、塾やその他の習い事に通うのは、小林家の経済状況を考えれば難しいです。また、ナツは描写されている限り、取り立てて得意なことや大好きなものがあるわけではないので、部活動に所属することも躊躇しそうです。何より、第2章8節で述べた通り、客観習慣の過剰は対人関係の消極性にも繋がっています。